プライバシーとキリスト者

エドワード・スノーデン元CIA職員が、米政府が個人情報を収集をしていることを暴露して以来、個人情報がどれだけ守られているか、を焦点として世界が騒いでいます。そして間もなく参院選で、憲法改正が自民党の圧勝によって、現実的なものとなってきました。そこで国家による私生活への介入という課題が、ちょうどスノーデン氏による内部告発と重なり、ずっと温めてきたわたくし個人の思いを話さなくては、と感じました。

この前の日曜日の午後礼拝(7月14日)で、エルサレムを包囲するアッシリヤの王に対する神の言葉の中で、個人情報と監視についての話題に触れました。

あなたがすわるのも、出て行くのも、はいるのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。(2列王記19:27)

驚くに値しない事

スノーデン氏の内部告発のニュースを初めて耳にした時に、私は驚くことができませんでした。「そりゃ、米政府だって、みなやっているでしょう!」と思ったこと、そして「そんなにプライバシーが気になるのなら、どうしてみんな、SNSやメール、スマートフォン、携帯など、電子媒体をあれだけ多用しているのだろう?」と疑問があるからです。

隅々まで傍受されていた電波通信手段

まず一つ目、「米政府だって、例外に漏れない」ことについて話したいと思います。古来から国の戦争は情報戦から始まっていました。間諜が存在し、イスラエルの民も、約束の地に入る前に偵察に行かせました。そして戦争が世界的なものになり、通信手段が多様化すれば、暗号解読、防諜、盗聴など、その謀略行為も多様化しました。

世界中にこのような機関があるのは、周知の事実です。アメリカはCIAの他に、今回問題視されたNSAがありますが、「エシュロン」という通信施設が良く知られています。これが事実なら、とっくの昔に携帯やメールを含めて、日本に住む私たちのあらゆる電子通信手段は傍受されていたことになります。このような巨大盗聴網はアメリカや他の大国しか持っていないでしょうが、どの国にもそれなりに存在します。(参考記事

そして他国によるスパイ行為に厳罰を科すスパイ防止法は多くの国で存在し、韓国には国家保安法がありますし、かつてはマルクスやレーニンの著作を持っているだけで逮捕された時期もありました。

私もそれなりに、この分野に興味をもって調べていました。これらの諜報活動は「秘密戦」と呼んだほうがよいのではという記事を読んで、なるほどそうだ、と思いました。「公然の秘密」であっても、「公開」という「建前の世界」をしっかり保っているからこそ、世の中の秩序が保たれています。それを破ったのがウィキリークスの暴露であり、今回のスノーデン氏ということになり、それで話題性があるのだと思います。

日本の監視機関

日本にもしっかりあります。「内閣情報調査室」というのが、対外的情報収集の機関であり、米国のCIAに当たります。そして「公安調査庁」という破壊団体を監視する法務省の機関があり、「公安警察」が警視庁の中にあります。調査庁は団体の解散など法務的な分野で執行権があり、公安警察は逮捕する権限を有します。

ある方が、日本共産党のあらゆる活動に公安が監視していることを知って、驚いていましたが、私は逆に知らなかったの?と驚きました。これは警視庁が公にしている活動であり、何ら真新しいことではありません。

暴力革命の方針を堅持する日本共産党

上の記事は警視庁のサイトにあるものです。日本では共産党は初めから監視対象であり続け、戦時中の治安維持法は元々、日本共産党を取り締まるために作られたものであり、特高はそれを実行した機関です。取り締まりの対象を、共産党だけでなく宗教団体にも広げ、日本ホーリネス教団は特高によって取り締まりを受け、迫害を受けたのでした。

今の日本共産党が暴力革命などする訳ないだろ!と多くの人が首を傾げる、あるいは怒られるかもしれません。そこのところを分かり易く話した、元公安警察の人の記事がありました。

元公安警察のやり手捜査官がすべてを語った、
いまだ共産党をターゲットにずる理由、
盗聴・尾行の実態の数々………

良し悪しは別にして、通常の警察の概念で考えると公安の活動は異様に思われるかもしれません。なぜなら、犯罪を犯した後で逮捕することにより、公の秩序を保つのが警察の役目であるはずだからです。けれども公安は、潜在的な犯罪を未然に防ぐために監視するという役割を担っています。

戦後、日本が民主主義の国なったからこういうことがなくなった、と考える人が結構おられるのではないでしょうか?いやいや、「民主主義=諸国民の公正と信義に信頼する」という現日本国憲法の前文にある考えは、他の自由・民主主義国にも存在しない考えです。「戦前は悪でありファシズム」であり、「戦後は平和と自由の国になった」という分け方はあまりにも単純にしすぎだと思います。今の日本は古来からの積み重ねがあり、近現代の原型は江戸時代にあり、明治維新もその武士精神があったからできました。日本が敗戦してすぐに立ち上がれたのは明治維新があり、そのインフラがあったからこそ、速やかに社会的発展と整備ができた、という地続き的な部分があるのです。

「思想」の戦い

日本が戦前から変えていないのは「自由主義陣営」にいることです。日露戦争を終えてロシアが赤化してから、反共としての防衛線を日本軍は建前としてであっても、守る意図がありました。朝鮮半島の植民地化、満州国の設立はその一環です。そして事実、そのイデオロギーの戦線は敗戦した日本列島から離れて、朝鮮半島に引き下がりました。そして悲しいことに、同じ半島、同じ民族が、そのイデオロギーの中身さえよく知らなかったような状況の中でどちらかに付かなければいけないという反目と化し、戦争へと発展したのです。

韓国は、民主化が1980年代後半に行われました。それまでは私たちの戦前の有事体制とさほど変わりない軍事政権でした。戒厳令もあり、民主化運動の活動家は逮捕され、光州事件のように多くが殺されました。しかし、確かに共産主義の浸透という戦いは存在して、今でも政治団体や労働団体などを通して北朝鮮勢力の浸透はあります。ですから、革新派の人でさえ、国家保安法の存在そのものを否定する人はまずいない程です。多くの人が、自由主義の独裁制と、共産主義の全体制の区別をできているからです。

私は戦前の日本国の政策や日本軍の侵略行為を正当化するつもりは全くありません。国としても、また個人としても、負の遺産として償わなければいけないものであると思っています。しかし同時に、そうした良心的思いは多くの場合、過激な団体に利用されてきたというのは紛れもない事実です。【注】中東では、独裁制に対する民主化運動は、そのままイスラム過激派に乗っ取られていきます。

ですから、どちらの陣営も諜報活動をしていますが、その活動の大義、つまりどのような体制の中で、どのような思想の中で動いているかが焦点となります。自由主義体制を守るためのものなのか、それとも社会主義なのか、また第三の勢力なのか?ということになります。

キリスト教監視の可能性はゼロではない

今の公安は、昔の特高のようにキリスト教の活動を監視することは、まずないでしょう。もし社会運動に加担するなら、話は別ですが。

ただし、彼らには「オウム真理教」という、日本国にとって思想の転換が迫られた事件が起こりました。それまでは彼らは戦時中の反省から、宗教への、その教義に対する監視は彼らの中でもタブーとなっていました。その政教分離の原則の意識が、オウム捜査を遅らせた面があったのです。この事件以来、宗教団体の教義にも立ち入らなければいけないとする立場に動いているはずです。実はこれが、イスラム原理主義という新たなイデオロギーの戦いの時代につながっており、オウムは同じ波の中にいます。

参照記事:「NHKスペシャル「オウム真理教 17年目の真実」 」

対して、米国また欧州では政権内のリベラル陣営により、同じ原理主義(?)という立場から、福音主義の信仰がテロ監視対象にさえなっている時代になったのです。日本のキリスト教界は、リベラル=キリスト教的というイメージが抱いていますが、溜息が出ます。イデオロギーが右であろうと左であろうと、世の制度であるかぎり獣の牙を剥くのです。

完全なプライバシー?

そして、もう一つの疑問、「そんなにプライバシーが気になるのなら、どうして電子媒体をあれだけ多用しているのだろう?」ということを考えてみたいと思います。もし監視自体を問題視するのであれば、もう手遅れです。それが気になる人は、今からでも完全にアナログ生活にすることをおすすめします。パソコンを使ってもインターネットに接続しない、携帯電話は所持しない、したとしても通話以外は電池を抜いておく、ぐらいのことをしないといけないでしょう。でも、今は町に監視カメラが数多くありますから、やはり現代社会では、そういった意味でのプライバシーは保護されていないと見たほうがいいです。

日本などの国には「保護法」という法律があります。これによって、たとえ見たり、聞いたりしていても、特定の目的以外には提供しないという保護があります。守秘義務という保護もありますが、例えば、医者や弁護士など、専門職の人が、その人の病状や巻き込まれている事件など、他者に漏らさないという義務を持っています。しかし、それであっても、完全に保護を受けていると考えたら誤りです。情報漏えいという問題はいつも付きまといます。(参照記事:あなたのパスワード、バレてます)そして、この世に生きている限り、情報一元化の流れは留まることを知らず、世界画一化の動きからは逃れられないでしょう。私もOSを最近Windows8にしてから、クラウド化、アカウントの統一化を半ば強いられました。

こうしたいろいろな支流が、黙示録13章にある獣の国への道筋であり、終わりの日は世界政府、全体主義国家という本流へと流れていきます。

ですから、すでに読まれているし、見られているのです。ですから私たちはむしろ、この監視とその収集にどのように付き合ったらよいのかを考えるべきではないでしょうか?極端な例ですが、あるクリスチャンが平壌に行った時に、福音音楽あるいは誰かの説教をホテルの部屋でがんがんにかけていた、とのことです。それは盗聴している人に福音を伝える目的でした。自分が見られているからこそ、どんな時にもキリストを証ししている(言葉と行いにおいて)という方向に進んでいけばよい、と思ったりします。

そして最大の情報保護は、「神に与えられた良心にしたがって生きる」ことです。ダニエルが、メディヤの王ダリヨスの治世に、仲間の側近によって彼の祈りの生活が告発されて、獅子の穴に投げ込まれました。彼は見られていることを物怖じしませんでした。むしろ、その姿勢が圧倒的な勝利をもたらしたのです。罪による隠し事が暴かれるのは恥ずかしいことだし、悲しむべきことですが、良心をきよく保っていれば、たとえ自分の私的生活が見られたとしても、弁明が十分にできるからです。

自発的な監視=アカウンタビリティー

「監視」というと、それは強制によるものです。しかし、自ら人々に対して説明責任を果たすために、私的な行動を透明化する選択をする人たちもいます。これをアカウンタビリティーと言います。会社などの組織で行われているだけでなく、教会の中でも人々が愛と善行に促すため、罪から守られるために行います。

しかし、それは完全な自発性が求められます。自分が神の前で清くありたいと願う本人の思いがあって、初めて成り立ちます。もしそれがないままで行うのであれば、まさしく「監視」ということになり、それは神と人との愛の関係の土台を壊しかねない、危険な動きです。

私たちは見られている

そして最後に、私たちはいかなる監視機関よりも、はるかに私たちを見ている存在があることを知らなければいけません。そうです、神ご自身です。この方は私たちが立つのも座るのも、これから話し出そうとしている言葉が口から発せられる前に、すべてを知っておられます。それが冒頭に記した、列王記第二19章にある、アッシリヤに対する神の言葉です。

そして、神の民に対しては、私たちが母の胎にいたときから、神は死ぬ時までの私たちの言葉や行いを書き記しておられます。

詩篇139篇
1 【主】よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと【主】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。

私たちをご自分の悦びのために造られ、憐れみに富む神がずっと見ておられるのです。プライバシーというものは、ここには存在しません。隠せ覆うことのできるものは何一つありません。自分のしていること、行っていることが外に漏れることがそんなに気になるのなら、なぜすべてを隅々まで知っておられる神を恐れないのでしょうか?

次に時間があったら、憲法改正と信教の自由についての投稿もできたらしてみたいと思います。

【注 後記】
原発はいけないという思いが、どのような形で過激派に利用されているか、今回の選挙で現実味を増しています。

山本太郎は中核派の支援候補
山本太郎陣営内の中核派の動きについて

あるツィートでこういう説明がありました。「戦後組織として人を殺害した1位はやくざ各団体でしょうが、2位が中核派、3位はオウム真理教、4位は新左翼諸派でしょう。中核派系候補が議席を持つのはネオナチがドイツで議席持つのと同じぐらいのインパクト」。中核派がどのような存在か、拙記事「全共闘・反動・日本の誇り」もどうぞ。

「プライバシーとキリスト者」への1件のフィードバック

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