一昨日は、恵比寿バイブルスタディでした。行く途中の地下鉄の列車の中で、痴漢に準ずる行為をする男を真向いの席で目撃しました。隣に座っているのは、おそらく十代後半か二十代前半の女性。スマートフォンを眺めています。その隣に座ったのが、40代ぐらいでしょうか、少し疲れ気味のビジネスマン風の男性でした。彼はすぐに横に座る彼女の胸元を凝視し、また自分のスマートフォンに目を向けますが、再び胸元を凝視しています。これを繰り返します。恐ろしいのはそれを平然と、顔の表情を変えずに行っていたことです。
その女の子も気づき始め、平静を装いつつも、緊張し始めています。私はすぐに、「ここで万が一何か起こったら、私が証人とならなければならない。」と思い、しっかり見張り始めました。その現場を携帯で写真に撮影しようかと思いましたが、反対に他人を無断で撮影することに抵抗を覚えて、やめました。けれども、この行為がエスカレートしたら、すぐに目の前に対峙する準備を心でしていました。
すると、彼女に私のこの気持ちが伝わりました。目が合ったのです!私は、少しうなずき、左のほうに逃げよ、という合図を顔を振って伝えました。彼女はかなり慌てていて、一度スマートフォンを落としましたが、無事、その場から立ち去ることができました。けれども、男は気づかれても狼狽えた様子を何一つ見せず、スマートフォンを眺め続けていました。かなりの確信犯、変質者かな?と思いました。
ここで、痴漢をする人、またその被害に遭う人の心の内で起こっていることを深く考えました。
痴漢の対策サイトはたくさんありますが、例えば このサイトでは、痴漢は、「「痴漢!」と騒ぎ立てない女性を物色している」とあります。なぜ、女性が叫ばないのか?こう書いてあります。「届けを出さない理由としては、「相手が特定できない」「一瞬の行為で、痴漢がすぐに人にまぎれてしまった」「朝の忙しい時間なので、届け出は面倒」などある。しかし、なんといっても多いのは「恐くて声も出せなかった」という女性である。「相手を間違えてはいけない」「相手に逆ギレされたらどうしよう」といった恐さだけでなく、「周囲の人が助けてくれないのでは」という恐さがあるのだ。」
私の目撃したその女の子も、おそらく隣の男が何をしているのか、真横なので、はっきりと特定できなかったものと思われます。けれども、戦慄だけは伝わってきたのでしょう。そして覗き見で物証もありませんから、周囲の助けなど得られるとは期待できなかったでしょう。けれども、真向いにいる私がはっきり目撃していたのを確認できたので、その場を立ち去る勇気を得たのでしょう。
しかし、このサイトの文章でこういう文が続きます。「周りに誰も自分を助けてくれる人がいないかもしれない、という孤独感は、超満員の電車内では絶望感に変わる。自分だけが不快な思いを我慢すればいい、と思ってしまう女性が多いのも無理はない。 」
「自分だけ不快な思いを我慢すればよい」という心理は、そうなる事実は理解できても、決して益にならない行為だと思いました。自分の尊厳を卑しめる行為であるだけでなく、犯罪人を助長させ、そして犯罪が犯罪であると明らかにさせる機会を逸してしまうのでは?と私は思いました。
女性の自信過剰
この心理は、家庭内暴力(DV)にもつながるものであり、その暴力の大半は言葉によるもの、心理的なものが始めにあって、それから物理的な暴力に発展しています。したがって、知人や友人が、何とかその奥さんをその家から引き離しても、「私が戻りさえすれば、夫は心を入れ替えてくれるかもしれない。」といって、自ら戻っていく場合さえあるのです。
「私にはできる。私がいれば、物事は変えられるはず。」という自信過剰が、女性には母性と絡んで、暴力など、何かの心理的圧迫が加えられると出てきてしまう、という問題があるように思えます。
心と行為の剥離
痴漢する男のほうは、次のような犯罪心理が働いています。「何も警戒していない女性と一緒に電車に乗り込み、人の流れを利用しながら標的の女性のごく身近に立つ。そして、そしらぬフリをして、痴漢はまず「当たり行為」と呼ばれる行動を取る。さりげなく、触ったかどうか分からない程度に女性の体に触れて反応を見るのだ。この段階で女性が携帯電話のメールに夢中になっていたり、電車の揺れによるものだろうと善意に解釈して気にせずにいると、痴漢行為はさらにエスカレートする。明らかに意図的に触る行為に及んでも、身をすくめたり緊張はしても声をあげられない様子でいる女性なら、抵抗できないと判断してそのまま行為を継続するのだ。
女性が救いを求めるように周りを見回しても、新聞を読んでいたり、目を閉じていたりと、えん罪を恐れている男性たちも我関せずといった様子で気づかないフリをする場合もあるかもしれない。仮に女性が必死の思いで、「やめて下さい」と言ったとしよう。しかし、「~して下さい」というのは、お願いしている言葉になるため、弱く、力関係も決まってしまうのだ。痴漢に「お願いされているなら止めてあげてもいい」という意識を持たせたり、「オレじゃない」「やってない」と強く言える力を与えてしまうことになってしまう。触っている手や腕を女性が掴んでいない限り、いやそれでも証拠がないからと逃げ切れると思っているのだ。」
そして、妄想的な男であれば、相手の女は自分の行為に同意したのだと思い込みます。
現在の日本においては、迷惑行為としての条例、そして強制わいせつ罪の刑法が適用されますが、黙って我慢していては罪を罪として罰することができません。そこで被害後に通報する被害者の供述のみが、唯一の証言となってしまい、振り子が大きく揺れて、女性が主張しただけで男性が有罪になるという痴漢冤罪も問題が出てきています。それは、控えめな女性、叫ばない女性が日本に多いため、その配慮から、女性擁護の観点から有罪にしているからです。ですから、「その時は我慢する」ことによって出てくる弊害は、
1)自分の尊厳を自ら貶める
2)犯罪者が罰せられない、それで、再犯を許してしまう。
3)犯罪者を更生する機会をつぶしてしまう。
4)公正な裁判をすることを妨げてしまう。
ことが挙げられます。
聖書と痴漢
では、聖書では痴漢について何と言っているでしょうか?このことを話す前にまずお断りしたいのは、道義的にも、霊的にも、痴漢をする男は、不品行と情欲の罪を犯しているのであり、これを微塵たりとも正当化することは、たとえ女性が黙っていても、同意、強制に関わらず言語道断であり、神の前で燃える火に投げ込まれる罪を犯していることに変わりません。真実な悔い改めと悔恨、また償いが必要です。
しかし聖書には、男だけでなく、女に対しても責務があることを神は教えておられます。
「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。(申命記22章23‐24節)」
強姦をする男はもちろん殺されますが、女も殺されます。なぜなら、「町の中におりながら叫ばなかったから」です。では続けて読みます。
「もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。(同25-27節)」
こちらは、叫んだけれども、救う者がいない、つまり野原や山奥など、人気のいないところで起こった事件です。だから女性は完全に擁護されます。
ここで大事なのは、このモーセの律法は司法的な性質のものだということです。裁判官がこの事例を取り扱う時に、立証できるものがなければ、その弱者を擁護しようがない、ということです。私は初めこの律法を読んだ時に、「ずいぶんと女性に不利な内容だ、男尊女卑だ」と感じましたが、今回の件、また痴漢対策の知識を得て、「証言がないものを、擁護できない」という法の限界を教えていることだと、気づきました。だから、「声を上げる」という女の責任が、神の「公正」の前では決定的になるのです。
「そういうつもりではない」は通用しない
しかし、このことは霊的な関わりにもつながってきます。話題を痴漢ではなく、もっと一般的な話題に移しましょう。聖書では、「心のうちにあるものが、口に出てくる」というイエス様の言葉があります。もし口で発しない、黙っている、のであれば、それは心にもその意志が定まっていないことを明らかにしています。周囲に対する自分の言葉と行為は、心にあるものを映し出しているのであり、「そういうつもりではなかった」というのには、心の欺きがあるのです。
例えば、ある学生がテストを受けていました。クラスの先生が見ると、テスト用紙には、下敷きのようにしてクリアフォルダがありました。そのフォルダの中には、試験の内容に触れることが書いてありました。先生はそのフォルダを取り上げ、これを証拠として、学校の教務課に提出しました。教務課の判断は”F”でした。
彼女は先生に泣きつきました。「私はそんなつもりではありませんでした。」もしかしたら、そうなのかもしれません。けれども教務課の人、またその先生は答えました。「そんなつもりでなくとも、そのした行為によって判断されるのです。」先生は、一つの例として万引きを上げました。店内で商品を手にして、考えごとをして歩いていたら店外に出ていた。そこで捕まえられた。これで「万引き」になると。
意外に、クリスチャンの間でも、「動機が大事で、行為を取り扱うことは律法主義だ」という雰囲気があります。いいえ、決してそうではありません。ならば「私は妻を愛していて、他の女と寝ている時、妻のことを考えていた。」など言えるでしょうか?完全な大嘘ですね。けれども、仏壇など偶像に供え物をして、「私は心で創造主の神様をあがめていました」というのはどうでしょうか?旧約・新約両方とも、これをそれぞれ「姦淫」「悪霊への供え物」と呼んでいるのです。
「そんなつもりでない」という論法には「無責任」という問題があります。人は、神のかたちに造られた存在であり、責任ある存在として造られました。けれども、人は曖昧にする傾向があります。キリスト教会には、日本、外国問わず、活動はしているけれども、自分の信仰について、救いについて、はっきりと口で言い表したことのない人々がたくさんいます。教会について、また他者についてのことは論評できても、自分自身のことについては口を開きません。
これは霊的に致命的です。イエス様を人前で認めるものが、天においてイエス様が御父の前でその人を認めるのであり、イエス様を人前で認めなければ、イエス様も父の前で知らない、と言われます(マタイ10:32-33)。そして、王子の婚宴の喩えでは、礼服を着ないで式場に来た者に対して、どうして礼服を着てこなかったのか?と問い質すと、「彼は黙っていた。(マタイ22:12)」とあります。
男に襲われても黙っている、という強姦(また痴漢)についての事例は、実は霊的な救いにも関わる重要な原則を含んでいます。
こんな重いテーマを、昨日の一件にまつわることでふと考えていました。
【後記】
重いテーマで、性に関わる繊細な話題だと思い、掲載後、一時、非表示にしました。祈りつつ再掲すべきかどうか待っていました。けれども、次の事実を知るにつれ、見せないのはむしろタブー視していること、神の真実から目をそらすことになると分かり、再掲することにします。その事実とは、「アジア諸国における性犯罪が世界一」だということです。
レイプ経験者が6割の地域も…国連「アジア太平洋6カ国の性暴力」驚きの調査結果
インドにおけるレイプは、よくニュースに出ていましたが、他の近隣の諸国もこんなにひどかったのか、と唖然としました。
Porn Industry, Porn Trade, Adult Entertainment Industry
上の記事には、ポルノ産業における経済効果が書かれていて、その代表的ポルノ産業の一つに日本が挙げられており、ポルノ消費国は第一位が中国、第二位が韓国、第三位が日本であります。
慰安婦問題 真の問題とは何か? 自虐史観vs自由主義史観 左翼vs右翼 不都合な真実
おなじみMGFのカズさんの投稿ですが、一連の記事の最後には、日本だけでなく、韓国の現代の性犯罪や売春を中心に取り扱っています。その中には牧師や宣教師も含まれます。私も、慰安婦問題、南京虐殺、歴史認識問題で三国で言い争っている暇はなく、三国みながこのことで、真剣に、目を覚ますための祈りを、キリスト者は捧げないといけないと思いました。アジアで性犯罪やポルノがはびこる原因の一つに、性については悪い意味で隠そうとする傾向があるからだと思います。表向きは綺麗に見せたい、その面子が男性のみならず、女性にもあるのではないか・・・と思います。それで、被害者になりやすい女性にも、神の前でするべきことがあるのではないか?という、敢えて、異なる視点から上の記事を書かせていただきました。
私の妻が最近、教会の仲間に対してこう祈りを要請しました。「牧師のために、もっと祈らないといけない。 」そうです、クリスチャンの方々は自分の教会の牧師のため、宣教師のために真剣に祈ってください。性的な面での守りはもちろんのこと、御言葉の取り次ぎを始めとする奉仕のため、その他のあらゆる面での霊的守りのために祈ってください。
いつもいろいろと教えられつつ拝読しています。
ただ、若かりし高校生の頃に痴漢被害にあったことのある身としては、「声を上げない」ことを責められるのは非常に辛いです。
勇気が足りない、と言われればそれまでですが、その時に感じるのは思考停止してしまうほどの本能的な恐怖です。
ご紹介のサイトにあるような、「周囲の人が助けてくれないのでは」というようなものではありません。
目の前に物凄い脅威があって身がすくむ、というのと同じです。
それと同時に、人としての尊厳を踏みにじられているのです。
声をあげるという女性の責任・・・確かにそうかも知れません。
でも、それが罪なのでしょうか?
レイプされそうになったら助けを求められるのに、痴漢では求められないのは矛盾だと思われるかも知れません。
でも、何か違う、と感じます。
・・・本当はそれぐらい必死に助けを求めろ、ということでしょうか。
もちろん、声を上げることが必要なのは理解しています。
ただ、それが出来ない人を断罪されているように感じて、傷ついたのかも知れません。
(先生にそんなつもりがないことはわかりつつ)
長文失礼いたしました。
コメント大変ありがとうございます。実際、被害に遭われた方がこの記事をお読みになる可能性、そして反感や反発を抱くかもしれないという可能性も考えて書かせていただきました。正直、私も悩み、一時、非表示にしていたほどです。先週、その女の子が抱いていたであろう戦慄はそばで見ていて、十分に伝わってきました。けれども、被害に遭われた方として私の文章で心の傷を深めてしまったことを、ごめんなさい、謝らせてください。
もちろん、声に出せない人のことを断罪していません。断罪されるべきは、相手が黙っていたのであろうと、100%加害者にあります。そのような者は、神の裁きの座において、自分が与えた恐怖と同じ恐怖をもって報復を受けるでしょう。
ですから、声が出せない人を断罪しているのではなく、声が出せていなかったけれども、一歩ふみ出る勇気がなかった人に、その一歩を踏み出す勇気を与えられたらと願って書いた文章でした。そして、こういう被害が実際に身近にあるのだという公示を行なわなければ、私たち周囲の人々の意識も上がらないだろうと思ったのです。
そして、痴漢と強姦の違いですが、後者はなるべく隠れたところ、人に見られないところで行う性暴力行為であるのに対して、前者は大勢の人にいる中で行う性暴力だということだと思います。集団の中にいて行うということで、集団から得体の知れない物が飛び出してきた、その恐怖の心理を上手に操作しているのが、痴漢の狡猾さです。
DVの話もしましたが、私がやるせないのは、ひたすら我慢している女性の姿を見る時です。愛している夫だからこそ、その夫が牢屋に入って、自分が行ったことの結果を見させてあげなけければいけないのだ、という叫びに近いものが、私の心にあります。けれども、その恒常的、心理的暴力を受けているために、自虐的な心理状態に陥ったことにつけ入って、その男は自分の支配欲を満たしているのです。完全に幽閉状態です。
ですから痴漢に戻りますが、こうした私のやるせなさ、心の叫びに近いものがあり、その邪悪な犯罪に対抗するには、どうすればよいのか?という、私の心中の模索だったのかもしれません。
先生、ご丁寧な回答をありがとうございました。
先にも書きましたが、先生に断罪するおつもりがないのは理解しています。
「「声を上げる」という女の責任」というところに引っ掛かってしまいました。聖書が語っていることなのに。
被害者が安心して声を上げられるような社会になればと願います。そのためにはまず私ができることをする、という意識を持たなければいけませんね。
「誰かが頑張ってよ」、というのではなく。
女性が神の御前に正しく無い、お互いに愛しているわけでも無い・承諾無し又は霊的にも肉体的にも全知全能の神の合法では無い、御心では無い性的行動を男性から一方的に受けるということは性的アプローチの瞬時に「犯罪に巻き込まれた・気分はまるで犯罪者」というショックに頭の中で真っ白になってしまい、霊的にも感情的にも精神的にも瞬時にナイフを突きつけられている感覚というか、霊的にも・肉体的にも恐怖というか、「霊的に罪を一緒に強いられる・殺される」という金縛りの恐怖・トラウマ経験をするわけです。それは、新約聖書に明記されている、貴方の身体は神の神殿なのです・・と言うみ言葉が該当する様に、とてもショックな訳なのです。少し男性には分かりずらいかも知れませんが、これは、信者・不信者に関わらず天地創造の神が女性という人間の本能というか特徴として創造された理由からなのだと思えてなりません。逆に言うとそれだけ男性の性への認識が著しく乏しい、または無教養と言えるでしょう。ちなみに聖書は性行為をした時点で男女は一つになると断言しています。これって人の人生を2度目の人生に変換させる大イベントなのです。性行為をスポーツ感覚で理解している人には申し訳ありませんが、その時点で天地創造の神の目からすれば罪を重ねている状態なのです。だから、女性という立場は弱いということを男性は理解し女性をもう少し理解しなくてはならないのではと思いました。男性と女性は役割が違うのです。女性が男性と違うからといって駄目では無くまたその逆でもありません。ちなみに私が痴漢されようものなら、デカい声でが鳴り散らしてこの人は痴漢ですと言いふらす様にしようと思います。何故なら私が可哀想だからです。そしてきっと天地創造の神がキリストを通して慰めてくださるのを知っているので泣きすがる事でしょう。
貴重なご意見、ありがとうございます!私もそう思います。女性の方々の多くが、同じ意見を言ってくださることによって、私も理解が深まりました。
私の書いた文章の意図は、訴えなかった女性に責任があるということではなく、女性が声を出すことによって、周囲の人々が痴漢と対峙し、救うことがしやすくなるということでした。
ちなみに、男性も性犯罪を受けます。女性よりも、さらに言うことが難しくなるのだそうです。
https://www.nhk.or.jp/minplus/0026/topic013.html