日本キリスト者が試される9・11

少し遅れましたが、先日の9月11日に、米国同時多発テロから12年が経ちました。米国人キリスト者から、いろいろな思いが記事にして出されましたが、心に残ったのは二つありました。一つは、カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師、ブライアン・ブローダソンによるものです。

御霊の導きと痛む神

9/11: Then and Now(9月11日:当時と今)

ブライアンさんは当日の朝、ペンタゴンの近くのホテルに宿泊しており、首都ワシントンの近くで行われる集会に参加する予定だったそうです。けれども、その事件により、飛行機の交通手段がなくなりました。けれども、ある人々が、ワゴン車で西海岸まで走る計画を立てており、行く先々で一人一人を降ろしていく、という話が入ってきました。彼は一席を確保したのですが、どうも心がそわそわして、結局、他に待っている人に席を譲ったそうです。

そして分かったのは、ニューヨークに行かなければいけない、そして必要な助けに応じていかなければいけないという感覚が訪れました。東海岸で牧会をしているカルバリーチャペルの牧者らと合流、ニューヨーク市内に入りました。

彼は、世界貿易センターに本部を持つ会社で、最も数多い従業員の死者を出したところで、残された家族のためのカウンセリング・チームに配属されました。人々に語りかけ、慰めを与えていく中で、それは重要な働きでしたが、主が何かをもっと用意されていると感じたそうです。

ユニオン・スクエアには、何千もの人々が集まり、悼み悲しんでいる姿に出会いました。そこで初めて、神がこの街に自分たちを導いたことを知ったのです。福音を語り、まだ愛する者たちが行方不明、また死亡と判明した人々のために祈りました。とてつもない悲しみが町全体を覆っていましたが、同時に痛みにある柔らかさを感じました。キリストの福音に対する心の開きは、この時がもっとも大きかったのではないか、と地元の教会は言っているそうです。

そして、12年後、まだ悲しみの中にいる人々に神の慰めがあることを願うと共に、ニューヨーク市に、福音中心の教会が生まれたことを神に感謝しています。「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を(イザヤ61:3)」。

この証言を聞くと、私は十年後の3月11日に起こった東日本大震災を思い起こします。御霊に導かれ出発した、数多くのキリスト教会の救援活動、そこにある神の痛みと悲しみ、そしてキリストの福音への心の開きがあります。私も、今は清掃されて、きれいになった仙台の東海岸を見るにつけ、今でも全く同じ痛みを伴った悲しみ、しかし希望のある涙が出ます。そして当時、主がいつの間にか、私たちを東松島の一画へ導いてくださった、あの不思議な御霊の導きを思い出します。

私たちキリスト者は、アメリカの兄弟姉妹が、9月11日を私たちの3月11日と同じように記憶していることを知り、その思いを共有すべきだと思うのです。

道徳相対主義

そして、もう一つの記事は、グレッグ・ローリー氏によるものです。彼は、カルバリーチャペルである、ハーベスト・クリスチャン・フェローシップの牧師、かつ全米、世界で活躍している伝道者でもあります。

DID 9/11 INFLUENCE OUR BELIEFS?
Exclusive: Greg Laurie on why fewer of us believe in absolutes now than pre-attack

(9月11日は私たちの信仰に影響を与えたのか? 特集:グレッグ・ローリーが、攻撃前に比べて、絶対的真理を信じる者たちが減っていることを論じる)

これは、とてつもない霊的警告の記事であります。日本のキリスト者が、この攻撃の後に行ったブッシュ大統領のイラク攻撃に対して反対、アメリカ福音派の教会の支持をことさらに取り上げ問題視していていましたが、(その中で、的外れな意見がはびこっていたのを思い出しますが)、実際の福音派の教会で何が起こっていたかを報告するものです。実に恐ろしいことが起こっていました。

この攻撃の後、アメリカの地の教会はこれまでになかったほどの人数の人々で埋め尽くされました。グレッグ本人が、2001年9月16日の日曜日、自分の教会に、教会開始以来の最多の礼拝出席数になったことを記憶している、と言います。これが、この国の霊的覚醒につながる発火点となってほしいと彼は願いましたが、起こりませんでした。逆に、驚くべきことが9/11の後に起こりました。

バーナ・リサーチ・グループという、キリスト教関連の世論調査団体がありますが、この事件を契機に、道徳相対主義が復興しました。事件直後22%のみしか、道徳律に関する絶対基準を信じないようになりました。事件前の2000年は38%だったのです。言い換えますと、事件前のほうが、「悪」というものが存在することを信じていたのです。このテロ事件によって、人は根本的に邪悪で、罪深いということがもっと明らかにされたのだから、悪の存在を信じる人が増えるであろうに、その反対の現象が起こったのです。

続けて、グレックの書いていることを、要約しながら書いていきます。

道徳律において絶対はないとする道徳相対主義は、「あなたにとっての真理はあなたの真理。私にとっての真理は私の真理。」という立場であり、「あなたにとっての真理は、必ずしも私にとっての真理ではない。」ということで、正義や悪というものは存在しないという立場です。

つまり、米国のような西洋諸国が、他国の行動が悪であると言うことは正しくない、という立場です。正義だ、悪だという私たちはいったい何者なのか?という立場です。道徳相対主義は、我々はみな生物的進化を遂げた産物であり、神はおらず、悪魔の存在せず、ゆえに悪は存在しない、ということです。代わりに、幸運というものがあり、自分で信仰を創造し、基本的に自分は善であるということです。何か悪いことをしたら、それは自分の過失ではなく、生まれ育ちや環境の被害者であるのです。道徳相対主義には絶対がありません。すべて抑制を与えるものから自由にされた、というものです。

そして、この見方に同意できないものなら、正義と悪はある、善悪はあると言うものなら、無神経、非寛容、無礼、偏狭であるというレッテルを貼られます。聖書を引用するものなら、これが真理の源であるとするなら、ピューリタンの禁欲的信条と価値観を他者に強要しているという非難を受けます。

ところで、祈っているという人の割合はあまり変わっていないのです。絶対真理があると考える人が減ったのです。キリストを信じていると言っている人の人数もあまり変わっていないのです。けれどもイエス・キリストが唯一の神への道、悪魔が現実のものだと信じている人は減ったのです。つまり、グレッグが言うには、正義と悪を信じない、生きるべき指針を与えない新しいカミ(神)を、自分の型に入るように造っているということです。

反感を買うことを言わせていただきます。次にいうことが、基本的、聖書的キリスト教です。イエス・キリストが唯一の神への道です。すべての道が神との関係に導くのではありません。すべての宗教が同じことを教えているのではありません。

祈っていると言っても、イエスを信じていると言っても、もしイエスが唯一の神への道であると信じていなかったら、その人は本当はクリスチャンではありません。もし自分をクリスチャンと言うのであれば、聖書を信じなければいけません。クリスチャンという意味そのものが、聖書からの神を知っていることを意味するのです。自分で規律を作って生きるのではありません。

今、自分が道路に出て、「これから私がここの制限速度を時速150キロにします。お店に入って、自分の欲しいものを取って行くことができます。これは私のものです。」こんなことを信じることができるかもしれませんが、すぐに自分は牢獄でこのメッセージを語っていいることに気づくでしょう。信じようと、信じまいと、規則はいつまでも真実なのです。

だから、聖書について、「私はこの箇所が好きだ。けれども、あの箇所については同意しかねない。」ということはできないのです。これは一括取引なのです。神が授けられたように、私たちは受け取るのみです。偽りの信仰や宗教は、私たちを神から遠ざけますが、神に導くことはありません。

グレッグが懸念しているのは、信じているという人は今日、多くなっているのですが、聖書が言っていることを信じていないことです。それゆえ、今日のアメリカが人間の命の尊厳を大事にしなくなった国になってしまったと彼は思っています。

道徳律の基盤は信仰であり、信仰の基盤は聖書です。私たちが自分の信仰を置くことのできる絶対真理を、聖書が与えるのです。この信仰がなければ、混沌のみがあるだけです。

日本のキリスト教への、神からの警鐘

・・・いかがでしょうか?これが、福音派のキリスト教会が現在進行形で通っている問題です。そして福音派と言われている教会の中にさえ、このような道徳相対主義、あるいはリベラリズムが入り込んでいるのが現状です。

イラク戦争直後、声高々に反対を唱え、福音派のアメリカ人クリスチャンのことを非難、揶揄していた日本のクリスチャン、特に教会指導者の方々、この現状に対してどうお答えになりますか?みなさんが、無慈悲にアメリカ人の、私たちとまったく同じ兄弟姉妹が通っている苦しみ、困難に触れず、非難しつづけ、本当の霊的危機の中にいる彼らを無視し続けたことは、私は、はっきりと神に断罪されているものだと思います。

人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめに会った人々の仲間になった者もありました。(ヘブル10:33)」

たった数日前、カリフォルニアにいる私の友人は、公立学校の生徒が、性別に関係なくどちらのトイレにも入れるという法案を知事が州議会で通過させるのをやめさせるべく、動いているというメールをくれました。女子中高生の方々は、男性が勝手に女子用トイレに入り込んできて、それに対して警察に通報しても、法律上、排除できないと言われてしまったらどうですか?このようなおぞましいことが、まことしやかにアメリカでは州議会で法案として提出されているのです!中絶についても、出生直前であれば胎児は「体細胞組織」であり、ゆえに、後期妊娠の赤ん坊を無理やり子宮から取り出すということも公に議論されています。ついに出産直後の殺人、昔の日本の「間引き」が、事件として起こりましたが、どこの主要マスコミも大きく取り上げませんでした。

イラク戦争、また今回のシリアへの軍事攻撃の可能性(オバマ政権は手を少し引いたようですが)に、「また正義をふりかざして」とぶつぶつ言っている時に、彼らが通っている試練を看過してよいのでしょうか?アメリカの福音派の教会が霊的に衰退してしまうことは、他に大きな霊的覚醒をしている国々の教会との交わりが希薄で、まだアメリカの教会に大きく依存している日本のキリスト教会は、同期化して、聖書信仰の土台を崩されるという、とてつもない悪魔の攻撃を受けていることに気づかないといけません。

事実、日本の教会は戦前、自由主義神学により、天皇崇拝、神社参拝を神からの命令だとして教会指導者が提唱していった大罪を犯しましたが、今、日本の福音派の指導者的立場にいる者たちが、あまりにも無神経に、自由主義神学を信奉している者たちと”対話”という美辞麗句で、時間を無駄に過ごしているのです。一般のクリスチャンたちは、毎日の生活にもみくちゃにされて、力ある福音の御言葉、困難から救い出す聖霊の力、聖書の不変の言葉にすがろうと必死になっているのです。そして、仏式の葬儀や法事、先祖供養などで迫害を受けている兄弟姉妹に、また職場で神道関連の行事に参加を強要されるいる兄弟姉妹に、「それでも私はキリストを主として従うのだ」という勇気を与えなければいけないのです。神から命じられている本業にもっと専心したらいかがでしょうか?

そして、そうやって自分の思いの中で、決して相容れない考えの人々や他宗教と整合をこねくり回している中で、それを聞いている一般の信者の人々は混乱、あるいは、つまずく(ご自身は良いかもしれませんが、聞いている人たちは過激な相対主義者になる)のです。

また、「愛がない」「排他的」「偏狭」だと非難しているうちに、ご自身の真理に基づく愛が冷えて、困難に耐え忍ぶ兄弟たちへの愛も冷えていることに気づかなければいけません。

私は、特定の牧師さんに向けてこの言葉をぶつけているのではありません。ある人は、この傾向がかなり強く、またある方はほんの少しだけそのような悪い潮流を受け入れているかもしれません。私が良心をもって叫んでいるのは、誰だと言うものではない、けれども、少しずつ、少しずつ入り込んでいる心の油断に対して叫んでいます。

私たちの信仰は聖書から来ているのです。

「日本キリスト者が試される9・11」への7件のフィードバック

  1. Love this!! Pastor Akashi, please continue to tell the truth for God’s glory!

  2. 先日、日曜日のモリエールに参加したものです。
    昨今、聖書に基ずく検証がどれほど大切で、み言葉に従順であることこそがいのちに至る道であることを思い知った者です。
    十字架による自己の死とイエスにある復活のいのちに生きること
    御霊に従うことをモットーとして歩いてきましたが
    決定的にみ言葉への従順という理念が抜け落ちていたことに最近気が付きました。
    こちらのサイトも本当に真理に立つ素晴らしいものと感謝します。

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