今日はちょっと軽いノリで書きます。
昨日、高視聴率で終わったドラマ「半沢直樹」を、録画されたものを第九話まで観ました。ちょっと頭をぽかんとさせたかったこともあって、部分部分、飛ばしながら一気に見ました。感想は「すっきりした!」です。話にスピード感があり、あの「倍返しだ」という文句が頭にこびりつきますね。そして男たちの役柄が気に入りました。半沢とその同期は、まさに私と同じ世代で共感が持てたこと、また、まるで漫画の登場人物のように、男たちの役にアクがあって、顔の表情を見ているだけで楽しかったです。(半沢も良かったけれども、大和田の悪者ぶり、国税庁・金融庁の黒崎がすごいおもろかった。)
そしてすっきりしたのは、まさに水戸黄門と同じ世界で、単純な勧善懲悪のストーリー作りになっているからでしょう。
けれども、もしこれを実際の銀行界で起こっていることとして真面目に見たら、嫌になると思います。そして、これが現実だと錯覚する人が多くいるのではないかと懸念して、実際の現場を少しでも知っている人がいろいろ、記事を書いていますね。例えば、次の記事です。
「半沢直樹」はドラマとしてはおもしろいのかもしれないが、日本の銀行の実態を真逆に描いている。最大の問題は、役所でも銀行でもどこに責任があるかわからない構造なのだ。
ある外国の人と話していて、私たち夫婦が、「日本人はデモをするのは基本的に嫌いなんだよね。」と話したら、「日本人は責任を取りたがらないから」と言っていました。デモをするということは、自分の発言や行動を人々に晒すことであり、勇気の要ることです。けれども、そうした表現をしても一向に構わない空気が日本には少ないでしょう。
もちろん、どの国にも文化にも、責任を回避しようとする構造はあります。けれども、これが教会の中で起こっているならどうなのか?それぞれが、神に対して申し開きしなければいけません。また、主に対して各々が仕えているのに、その個々人が責任を回避するために「交わり」という名で集まり、そしてその責任を回避するために、誰かを、あるいは何かを問題の所在にしてしまいます。実は、それぞれが主の前に出て、悔い改めなければいけないこと。ただ、この回復を成し遂げるのは根本的には、聖霊の働きが必要です。神の御言葉によって、そして聖霊が強く働かれて、その時に教会に真の解放と、愛の交わりが回復されるのだと思います。
【後書き その1】
今回の文章、特に前半はあまり深く考えないで書いてしまいました。恵比寿バイブルスタディにいらっしゃっている青木さんが、実に聖書的な考察を書いてくださっています。
「ダビデの倍返し」
復讐は自分の手でするのではなく、神の手に任せる、という点です。実は、聖書に「倍返し」の概念があります。「あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。」黙示録18章6節、大バビロンに対する神の裁きの言葉です。バビロンは、肥大化した終わりの日におけるこの世の制度を表していますから、まさに半沢直樹の背後にある不条理な世の中と同じです。
【後書き その2】
続きの記事を書きました!「「半沢直樹の不在」から見える霊的葛藤」
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