チャック・スミスの数々の追悼
10月3日にチャック・スミス牧師が召天して以来、彼を忍ぶ追悼式がいろいろ持たれています。家族と親しい友人だけによる埋葬は既に12日に行われましたが、期待してください、日本時間で来週月曜日(28日)午前9時から12時まで、大規模な追悼記念会が行われます(現地時間は、27日午後5時から8時)。
去る10月19日、チャックにふさわしい追悼式がありました。彼は生粋のカリフォルニア人で、太平洋の波を好むサーファーでした。サーファーのメッカ、ハンティントン・ビーチにある教会で続けて牧会をしたかったので、聖書通読の講解説教へと主が導かれたという経緯があります。
私たちの教会には、元サーファーと現役サーファーの二人の兄弟がいるのですが、この前の日曜礼拝の後の交わりで驚愕していました。有名なサーファーが亡くなると「パドル・アウト(Paddle Out)」の追悼を行うのだそうです。パドルアウトとは、沖のピークに向けてパドルで波を越えて出て行くことを意味するそうです。けれども、こんなすごい人数のパドルアウトは前例がないだろうとのことでした。
私もこのブログで、チャックがどれだけ自分の信仰人生に影響を与えたかを話しましたが、同じようにここにいる数多くの男たちも、主に従うこの僕によって大きな影響を受けてきたのです。幸福感に満ちたイベントであったと多くの人が証ししています。
(関連記事:「牧者チャック・スミス召天」「牧者チャック・スミスから受けたもの」「チャックへのインタビュー」
ジョン・F・マッカーサー牧師の変容
ところが、私はもう一つのニュースを聞いて、深い悲しみに陥りました。同じ南カリフォルニアで、現代文化にキリストの福音を広めるのに用いられたカルバリーチャペルが始まりであると言及し、ペンテコステ派やカリスマ派(日本では「聖霊派」に括られる)の運動全てを「異なった火(レビ10:2)」として断罪し、キリストの体ではない、すなわち救われていないと断定するための会議を行なった人がいます。
Chuck Smith’s Memorial ‘Paddle Out,’ John MacArthur’s Strange Fire Conf: Weekend of Deep Spiritual Contrasts(チャック・スミスの追悼「パドルアウト」とジョン・マッカーサーの「異なった火カンファレンス」週末に、非常に深い霊的対照)
日本のキリスト教の中でも、「ジョン・F・マッカーサー」と聞けば分かる人も結構多いでしょう。彼の著作は、日本語にかなり訳されています。彼は、預言や異言、癒しなど、聖霊の著しい働きは聖書正典の完成をもって終わったとする終焉説の立場を取っています。そして、カルビン主義者であるとしています。今回のカンファレンスでは終焉説の立場を取る改革神学者たちを集めました。しかしながら、彼の決してぶれない福音の宣言に多くの聖徒たちは励ましを受けています。例えばCNNの番組で、イエスの御名によらなければ決して救われない、という発言を何度となく行っています(例)。そして彼の聖書注解は定評があり、邦訳されているほとんどが、そのような本です。そしてカルバリーチャペルの歴史を紹介するVenture in Faithというビデオには、彼もカルバリーチャペルを評価している一人として登場します。次のビデオは、今回のジョン・マッカーサーの発言と、Venture in Faithの中でのビデオでの彼の発言は真正面から違うことを対比させています。
実は、その彼が以前、Charismatic Chaosという著書を出しており、邦訳「混迷の中のキリスト教」も出ています。これが他に定評ある、キリスト中心、福音中心の書物とは異なり、継続説に真っ向から対抗する先鋭的な内容となっています。一方、カルバリーチャペルでは、現代にも、コリント第一12章に列挙されている御霊の賜物は現代でも有効であり、それを14章にある秩序と節度をもって用いることを奨励している立場です。下の本紹介の記事でそのことに言及しています。
そして長野のMGFのカズさんも次のように説明しています。
*******
保守的な福音派(キリスト教根本主義)は、聖霊派と違い、聖霊のバプテスマや今日における聖霊の賜物の有効性を認めていない。一方、過激な聖霊派は、聖霊の賜物である「異言」を聖霊のバプテスマのしるしとして、救いの条件とすら主張している。カルバリー・チャペルは、福音派であって聖霊派でもあり、福音派でもなく聖霊派でもない、中立派である。カルバリー・チャペルは、聖霊のバプテスマや聖霊の賜物の有効性を今日認めているが聖書の原則に従って秩序をもって行使することを教えている、また聖霊のバプテスマのしるしとしての異言を強調することもしない。さらに、多くの福音派以上に聖書に厳密にあろうと努め、聖書66巻の講解説教を礼拝の主軸としている。詳しくは「カルバリー・チャペルの特徴」を読んでほしい。「混迷の中のキリスト教」の著者で保守福音派の重鎮ジョン・F・マッカーサーJr.牧師は、カルバリー・チャペルをカリスマ派とみなしながらも、チャック・スミス牧師が聖書から逸脱した過激なカリスマ派を批判していることを評価している。カルバリー・チャペルは、保守的な福音派からは聖霊派とみなされ、過激な聖霊派からは福音派とみなされる、非常にユニークな教会なのだ。これらの間にあって中道を歩むことは、どっちつかずという中途半端な状態を指すのではなく、聖書の教えと聖霊の働きの健全なバランスがとれている状態を指す。
カルバリー・チャペルの特徴とマラナサ・グレイス・フェローシップの特徴 <2>
*******
ここにもあるとおり、ジョン・マッカーサー氏は上記の本でもカルバリーチャペルに一定の評価をしているのです。ところが彼は、最近、同じ題名の「異なった火(Strange Fire)」という本を出し、その内容に沿ったカンファレンスを開催した、という訳です。彼自身がかつて語った、ペンテコステやカリスマ派の中で、その行き過ぎを批判した人々を大きく評価することはなくなってしまい、すべてを逸脱・背教として断定してしまった・・・ここが私がもっとも悲しんでいる部分です。(参照記事:”The Strange Fire Conference and Calvary Chapel“”Impressions from Strange Fire“”Strange Fire: A Refutation – Part I“)
英文を読める方は、次の記事をお読みください。とても良くまとめられています。これからお話ししたいことは下の記事とほぼ同様です。
John MacArthur Can Learn From Chuck Smith
(ジョン・マッカーサーがチャック・スミスから学べること)
本題に入ります。
御霊の賜物の有効性
コリントの教会で起こった仲間割れは、実は、聖書を良く知っていると言われる教職者の間でも、また教団の間でも、そして実に教会史において起こってきました。激しい神学論争も行われてきました。それが全て間違ったことではなく、実に聖書の中では、使徒たち自身がユダヤ主義やグノーシス主義の猛威の中で激しい論争を展開し、それが書簡として残っているのです。しかし、それは本質的、根本真理の論争(例えば、救われるためにモーセの律法を守るべきなのか、など)であり、その他のことはローマ14章にあるように、正しさよりも愛の徳を求めるべきであるというのが、聖書的立場です。
聖書を創世記から黙示録まで通読し、その丹念な作業の中で見えてくるのは、聖書の幅広さです。聖書全体は、一つの教会や教団の中で内包することのできない、広いダイナミズムがあります。したがって、聖書の読み方、またそれをどう実践するかについて、同じ思いをもった者たちが集まります。それが教団であったり、一つの群れであったりします。
ちなみにカルバリーチャペルは教団ではありません。教団とそうではない群れとの違いは、教団は本部からの指示を仰げばそれに従わなければいけないという組織がありますが、群れはそれぞれの教会が決定していくが、諸教会は互いに自由な交わりの中で、教えにおいても実践においても一つ同じ思いを持つ、ということです。ですから、決して教団が悪いものだとは思っていません。
ですから、本質的な教え、基礎的な教えがある一方で、多様な考え方が出てきてもおかしくないのです。聖霊のバプテスマはその一つです。私は、救いを与え、キリストの体に入れるところの御霊のバプテスマ(1コリント12:13)とは別に、イエス様の証しをするための力を付与する聖霊の満たし(使徒1:8)があることを信じています。そして、現在でも、個別預言や異言、知識のことば、知恵のことば、癒しなども、主が再臨されるとき(1コリント13:10)まで用いられる賜物であると信じています。しかし、そう信じていない人たちもいます。
他者に教えるのではなく、自分で実践
では、そのような人たちに会う時に、どのように反応すれば良いのでしょうか?ここからが大切な内容です。
「この人はまだ聖霊のバプテスマを知らない。聖霊のバプテスマを受けていない。」と見なす、そして、「この人には聖霊のバプテスマを教えなければいけない。」と思うのでしょうか?いいえ、そうではありません。
そうではなく、自分自身が聖霊の満たしを受けて、その力によって実際の伝道の働きを行う、そして御霊の賜物によって、人々に仕えることであります。聖霊のバプテスマを信じていない兄弟姉妹に対して、私はむしろキリストにあってその方々を尊び、愛し、交わることを求めます。そこに御霊の導きがあるのであり、相手に要求するものではなく、自分がその教えの中に生きることなのです。
けれども、聖霊のバプテスマの体験をすると、そのことを経験していない人を見下し、少しでも否定的な意見を持っている人々を激しく責め、断罪することが多いです。そして、それは新生体験と同じだとする人々は、いかに聖霊派が間違っているか、それを聖書から(?)断罪するのです。すべてはキリストに似た者になることの教えのはずであり、その自分の信じていることにしたがって、主にあって行動することによって、初めてその真価が試されるべきなのです。聖書の理解、また信仰の体験は、私たちを高ぶらせるのではなく、へりくだりを与えるのです。
神学のバランス
これは、終末論についても同じことが言えます。私は強く、今日にでも主が戻ってこられる携挙を信じています。そして大患難が始まることも信じています。けれども、それの真理は第一に、主にあって聖い生活をする動機付けになっていること、そして第二に、魂の救いを完成される神のご計画がますます身近になっていくことで消化されます。これもその聖書理解を相手に押し付けるのではなく(もちろん、聖書教師としてはっきりと教えますが)、聖書預言の大切さを、救霊と宣教の熱心さによって示しているのです。
ですから、そのように信じていない兄弟がいても、もしその兄弟が同じように宣教に熱い思いを持っているのであれば、私は、いつも聖書預言とニュースばかり見ていて、熱心に主に仕える兄弟たちを見下している人々よりもはるかに一致できるし、交わることができます。以下の記事で、そのことは詳しく書きました。
チャックが言ったことばを引用します。「新しい教えを受けて大きな悟りを得た時は、それを教示するのではなく、自分の生活で見せてください。その教えがキリストに似た者になるのに、どれだけ貢献してたかを示してください。そうすれば、『なんでそのように変わったのだ。』と相手のほうが聞いてくることでしょう。」
さらに、カルビン主義(神の予定と主権を強調)とアルミニウス主義(人の選択を強調)についても、同じ立場を取るべきです。この二つの神学については下の記事で紹介しました。
「神学のバランス」が鍵になる言葉です。これは二つの極端に陥ることなく、その中間に留まるということ以上に、キリストの体の大きさと幅広さを見つめ、自分がその一部を果たしているのだ、だからそこで主に仕えるのだ、というへりくだりに根差しています。
最後にこちらのブログ記事を紹介します。
日本語訳のこの本の70ページから「十一章 バランスを求める」で神学のバランスについて読むことができます。
思いを一つにする所へ
信頼のできる、愛し合っている兄弟の中で、鉄が鉄を研ぐその友情の中で、意見を交換することはもちろんあるでしょう。けれども、「牧師を変えなければいけない」「あの兄弟を変えなければいけない」「この群れや教団を変えなければいけない」という使命感がある時は、どうか一度立ち止まってください。もしかしたら、その自分の信仰的立場に合っている教会を別に、主が用意しておられるかもしれません。自分には他の奉仕の働きが用意されているのかもしれません。どうかそちらに動いてください。そして心から単純に、イエス様をあがめ、イエス様に仕えることのできるところに動くことが、神の栄光につながると思います。そして、自分の考えには合わない教会であっても、自分を育ててくれたことに感謝できるようになるでしょう。
関連記事:「預言、異言、癒し、奇跡を信じますか?」
ハレルヤ!
いつもありがとうございます。
この記事も、とても激しく頷きながら拝見しました。まことに、アーメンです!
知識・理論でぶつかり合うより、宣教・愛で一致したいですね。主にあって。
ジョン マッカーサーは聖書が警告している聖書の一部を取り去る者なのでは?
ヨハネの黙示録22章18節:「この書から何かを取り去る者は、その者が受ける分を取り除く」
私は「キリストを通らなければ天国に入れない」という教えを傲慢に感じました。そんな時、クリスチャン全員、異言で祈るべきだという教会に巡り合い、洗礼を受けました。サイババなど他の宗教でも、病気の癒しはありますが、信者全員が癒せるわけではありません。洗礼を受ければ、全員、異言、癒しを授かるという教えが他の宗教と決定的な違いだと認識しました。その教会では毎年100人近い人が洗礼を受けています。集会で、3人の異言、その通訳、預言をしている教会は、私が知る限り、ここだけです。この点は聖書に忠実で正しいことだと思います。私がこの教会を去ったのは、集会の時、黙っていなければならず、祈り足りない不満があったからです。次に移ったペンテコステ教会の祈りは自由で癒しを実感しました。心の傷は表面的に忘れても、その後の感情や行動に悪影響を及ぼすという、ニールアンダーソンの教えは正しいと信じています。言葉の祈りで問題を直視し、傷口を開いた後、異言の祈りで、聖霊の力を借りて、傷口を癒すのだと感じています。言葉の祈りだけでは癒しが足りず、異言の祈りだけでは、傷口に的を絞って癒すことができないと思います。私の解釈に合った教会は、今のところ見つかりません。
エフェソ4章5節:「主は一人、信仰は一つ。洗礼は一つ。」
正しい聖書の解釈は一つしかないのに、この地上にはたくさんの解釈があって、私達は混乱しているのですね。