先日の記事、「神学バランスにあるキリスト者の成熟」の続きです。題名を、興味の引くようにしてみました。いかがでしょうか、これらの超自然的な働きが今の教会でも起こると信じていますか?それとも、それは教会に混乱をもたらす、偽物が多い、聖書の権威を貶める、と思っていらっしゃるでしょうか?
私は、信仰をもって間もなく、ペンテコステ派の兄弟たちと交わり、聖霊のバプテスマや賜物を強く求めるようになりました。青年大会に参加して、その力強い聖霊の働きに触れることができ、今でも神に感謝しています。同時に、超自然的な働きを追い求めたために、危うく異端の団体に入り込みそうになり、その失敗、痛さから、もっとバランスのある教会像を求めるようになりました。
それでカルバリーチャペルが、まさにその中間の立場を取っていたので、私の信仰は落ち着き、今に至っています。神の御力を、自分の理解の中で閉じ込めて制限しては決していけない、と思っています。教会においても、癒しや異言、預言が用いられてしかるべきだと思っています。しかし同時に、賜物以上にキリストご自身の顕現、しかも十字架につけられたキリストがあがめられなければいけない、という確信に至りました。
現在にも御霊の超自然的働きが存在するという立場を、「継続説(continuationalism)」と言います。自分の体験ではなく、聖書を客観的に調べることによって出てくる結論として、やはり継続説が正しいという理解に至っています。詳しいことは、チャック・スミスの書いた著書とメッセージに譲りますが、大まかに言って次のように考えます。
「新約聖書には、明らかに、イエスを信じる者に与えられる聖霊の働きが書かれている。聖霊派人を新生し、罪を洗い、そして内に住まわれてキリストが生きるようにしてくださる。けれどもそれだけでなく、旧約のヨエルの預言に示されるように、旧約時代には一部の者だけに与えられていた、外側に働きかける御霊の賜物を、すべての者に降り注ぐという約束がある。それをイエス様は、「わたしの証人となる(使徒1:8)」という目的をもってお語りになった。
つまり、信じる時に与えられる救いの御業とその後の内なる働きかけとしての御霊の御業とは別に、外に働きかける、効果的な証しを立てるために、その力を付与する聖霊の働きの二つがある。使徒ペテロが、このヨエルの預言は、自分たちだけでなく、すべての人に及ぶことを宣言した。「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。(使徒2:39)」
そして、御霊の賜物の廃れる時が来る。それは使徒時代が終わった時ではなく、キリストの再臨の時だ。「完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。(1コリント13:10)」
賜物とその現れは御霊の主権的な業である。したがって、御霊がしかりと思われる時に行われるのであって、私たちは求めるが、その時を待つという姿勢が必要だ。キリストが共におられることを楽しみ、御霊の賜物が中心となってはいけない。」
「聖霊の学び」
聖霊の学びは、ぜひ自分の教会でもいつかしてみたいと願っています。すぐれた資料として、次を紹介します。(すべてこちらの記事で紹介したものです。)
Charisma versus Charismania チャック・スミス
聖霊ご自身を聖書から学び、賜物の運用について行き過ぎを正しています。
(リンク先は英文です。妻が半分まで翻訳中です。)
「聖霊シリーズ」チャック・スミス
徹底的に、聖霊のバプテスマと御霊の賜物を聖書から学んでいます。
「生ける水」チャック・スミス
上の聖書メッセージをまとめた内容になっています。
「栄えに満ちた喜び」ロイド・ジョンズ
新生体験とは異なる聖霊の満たしについて、徹底的に聖書から考察しています。
終焉説(cessationalism)に対する反論
最近の、ジョン・マッカーサー氏の主催した「異なった火カンファレンス」に対して、そこで彼がカルバリーチャペルを直接言及していたので(参照記事)、カルバリーチャペルでも、自分たちの立場を改めて説明しつつあります。カルバリーチャペル・サンタバーバラの牧師、デービッド・グジック(David Guzik)氏が、カルバリーチャペルのサイトで以下の記事を寄稿しました。ちなみに、彼の聖書注解”Enduring Word“は定評があり、私もいつもお世話になっています。
Strange Fire & the Gifts For Today
(「異なった火」と「今日の賜物」)
だいたいの訳を付けました(翻訳ではありません)。終焉説も学んでおられる方は、非常に興味のある内容であると思います。重要だと思われる所は斜体また太字にしました。では読んでみてください。
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最近のジョン・マッカーサー博士とグレイス・コミュニティー教会が主催した「異なった火カンファレンス」は、長年のキリスト教世界での不一致に油を注ぐことになりました。
その不一致とは、(新約聖書にしばしば言及される)聖霊の賜物の多くが使徒時代の終わりとともに終焉したと信じる者と、現代もそれらの賜物を聖霊が与えておられると信じる者との不一致です。いろいろな論争があるので、これでは単純化しすぎているかもしれませんが、大体のまとめになっていると思います。
この論点において、私は、はっきりとした継続説に立っています。つまり、神の民に聖霊がこれらの賜物を授け、御心のままに分け与えておられると信じています。私は、カリスマを信じていますが、カリスマニア(カリスマのマニア)を信じていません。チャック・スミスの本「カリスマ 対 カリスマニア」は、この主題について、今でも短くまとめた最良の、良く知られた本であると思います。私は、超自然的と考えられる賜物は信じていますが、会衆の生活の中心になるべきではないと思っています。むしろ、礼拝と御言葉、互いへの愛が会衆の生活の中心になるべきです。
私は終焉説を取る兄弟姉妹を、彼らが賜物がまだ続いていると信じている者を時に軽蔑しているとしても、彼らのことを真実に愛しています。私は、彼らの立場は間違っていると思いますが、馬鹿ばかしいとか非聖書的であるとか思っていません。主に、その違いの根拠は、いくつかの誤った前提に基づいています。それらの終焉説の前提に同意できないので、そこから出た結論にも同意しません。
次に述べるのは、今日も賜物が続いているとする積極的主張ではありません。それよりも、不一致の背後にある見方を理解して、なぜ継続説の見方が正しいと考えるかを述べるものです。次の質問にお答えできれば幸いです。「イエスを愛し、御言葉を愛している人々が、なぜそんなに強く同意できていないのか?」それは、終焉説者が、継続説者とはかなり異なる見方をしているためです。
1.超自然的賜物の目的の見方の違い
新約聖書は、信者の間における、超自然的な働き、あるいは聖霊の現れを述べています(異言、癒しの賜物、異言、預言など)。
多くの終焉説者は、これら超自然的賜物の目的が、神の御告げ、あるいは宣言者に権威付けをするため であると考えます。したがって、土台を据えた使徒と預言者(エペソ2:20)が死んだ後は、これらの賜物が必要なくなった、とします。
これは不正確で不完全です。聖書時代における超自然的出来事の理由の一つとして、その言葉や宣言する者たちに権威を与えるため、というのはあったでしょう。しかし、その目的よりもさらに数多く、御民を建て上げ、励まし、徳を高めるためという目的がありました(1コリント12:7,14:12)。もし、言葉に権威が与えられるために超自然的出来事があったという目的だけしかなかったと考えられるなら、終焉説を取る兄弟たちに同意するのですが、そうは思えないし、聖書もそう言っていないのです。
2.超自然的賜物の性質の見方が異なっている
使徒行伝に説明されている超自然的力が、聖霊によって今も与えられていると信じるなら、賜物の与えられた人々が、自分の願うように奇跡を行うことができるはずではないか、と多くの終焉主説者は言います。癒しの力によって病院を空にすることができるし、圧倒する奇跡を欲するままにできるはずではないか、と言います。今日、誰もそんなことができていないのだから、新約聖書の超自然的出来事は起こらないし、起こりえないと信じています。
この発言は不正確で不完全です。使徒行伝や初代教会で賜物の与えられた人々は、自分の意志や恣意で、癒しと奇跡を行う力を持っていませんでした。ある特定の集まりの誰もが癒されたり、不思議な方法で奇跡が起こったという、目覚ましいことは確かに起こりました。使徒19章11節で、ルカは「驚くべき(unusual普通ではない)奇蹟」と書きました。
しかしながら普通は、イエス様も、使徒行伝のイエスに従う者たち(ベテスダの池や美し門の男)も、病院を空にすることはしなかったし、自分だけの意志で奇跡を行うことはできませんでした。イエス様でさえ、父が言われなければご自分では何もできないと主張されました(ヨハネ5:19,5:30,8:28)。そしてパウロは、聖霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与える(1コリント12:11)と言っており、人間の器の意志ではないことを述べています。今日、聖霊がその時と異なって働かれると期待するのは非聖書的です。
しかしながら、聖霊は今日も働いておられます。使徒行伝が約35年間を網羅していることを覚えておくと理解の助けになります。私たちが通しで読めば、毎日、驚くべき奇蹟が起こったと思ってしまうのですが、35年間あるいはそれ以上の期間のハイライトを与えているだけなのです。カルバリーチャペルの35年以上の動きの歴史を書こうものなら、使徒行伝のように読めてしまうでしょう。今日、またこれまでの諸時代の神の御霊のすばらしい働きの多くに、同じ戸が言えるでしょう。
3.異言の賜物の目的と性質を違って見ている
異言の賜物だと言っている現代の用い方に対して、多くの批判がされていますが、それは、はっきりとした言語の構造や文法がなく本当の言語ではないという考えに集中しています。異言を語っているという者が、訳の分からない事、言語ではないものを語っているだけだとの、嘲笑を受けています。
これらの多くは、異言の賜物が、福音や聖書の真理を、人から人へ伝えるために、知られない言語で福音を伝えるために、奇跡的に与えられているという誤った前提に基づいています。しかし、聖書ははっきりと、異言の賜物の目的は神に対して語るために与えられるものであり、人に対して語るものとして与えられていないと述べています(1コリント14:2)。弟子たちが五旬節で語った時に、群集に説教したのではありません。ペテロは群集が理解できる言葉(一般のギリシヤ語)で説教をしました。そうではなく、御霊に満たされた弟子たちが、「神の大いなる御業を語」っていたのです(使徒2:11)。つまり、彼らの聞いたのは、神の不思議な御業をほめたたえていた言葉だったのです。
異言を聞くのは神であり、人ではありません。聖書は異言の用い方として、「人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。(1コリント14:2)」と言っています。人が、誰かが異言で神に対して語っているのを聞いたら、確かに意味のなさない音に聞こえるでしょう。まさに、このことをパウロは語っているのです・もちろん、異言の賜物の物まねをしたり、模造したりすることはありえますし、残念なことに、過度に熱心な人々はそのことを勧めたりします。しかし、異言は神に対するものであり、人に対するものではありませえん。パウロ自身が、異言が互いの間では意味のなさない音に聞こえると言ったのですから、意味のなさない音だと言うことで、異言の賜物の有効性を却下することはできない。
4.預言の賜物と、神の永遠の、権威ある啓示の違いを見ていない
終焉説者の論点を読んでいると、彼らの聖書に対する高い評価を、その聖書本文への取り組み方の一部に同意できないことすれ、非常に尊敬します。聖書の啓示の権威と独自の特徴を守ろうと熱心になっているため、神が今日、預言の賜物を与えたら、聖書が独自に権威を持ち、十全であるという真理を脅かす、という重要性を彼らは語ります。
聖書の独自な権威と十全性のために戦う人々がいることを、私は幸いに思います。そして、カリスマ派の世界の一部、いやおそらく多くが、この大切な使信に耳を傾けるべきです。神の永遠の真理よりも、「預言の言葉」をもっと大事にし、興味を持っている人々が一部、いや多くいます。それは間違っており、反対すべきです。
しかし、神が独自に、権威をもって使徒と預言者(エペソ2:20)の土台を通して与えられたものと、個人や特定の会衆に意味のある、大事な言葉が、即興的に預言的言葉として語られるものとは、区別することは可能です。誰かが預言の言葉で語った時に、聖書にさらに頁を加える必要はないし、それをすることは愚かであり、罪であります。
コリントにある教会の中で、預言が存在していました(1コリント14:3,14:24,14:29‐33)。しかし、そのコリントの教会の預言者からから、権威ある、普遍の啓示として私たちに与えられたものはありませえん。「コリントの預言者による手紙」というものはあないのです。コリントのキリスト者や使徒パウロ、またおそらく誰もが、即興的に、その場で与えられた預言として神が語られていることと、パウロや他の霊感を受けた聖書の著者が書いたものの区別を付けることができていました。コリントの人々にとって、その折にかなった時に大切なこと、意味のあることでしたが、それ以上のものではありませんでした。パウロはまた、キリスト者らにそれぞれの預言を吟味しなさいと言っています(1コリント14:29)。この発言は、神の霊感を受けた言葉に対しては、決して当てはまりません。エペソ2章20節に言及されている、霊感を受けた使徒と預言者を通して私たちに与えられている権威ある啓示と、預言の賜物が用いられている時とは違うのだ、ということが理解されていたのです。
私は自分の同意しない人の著作を読む時は、できうる限り、彼らの立場に立ってみて、彼らが考えているように考えてみようとします。今日の教会に聖霊に与えられた賜物が継続しているかどうかについて、もし次のように考えたら・・・と考えました。
・賜物は、神の言葉やその語る者に権威を与えるためだけに与えられた。
・新約聖書において、超自然的、奇跡の伴う賜物は、自分の欲する時に用いることができた。
・異言の賜物の目的は、人から人へ伝えるものであり、特定できる言語でなければいけなかった。
・預言の賜物を用いることは、聖書が権威がない、十全ではないことを意味している。
このように信じることができたのであれば、終焉説を取る兄弟たちにおそらく同意することでしょう。私はこれらのことが聖書的に本当だとは全然思っていないので、聖霊が、みこころのままに、奇跡の伴う超自然的な賜物をご自分の教会に授け続けていると、十分に、安らぎをもって理解することができます。同時に、これらの奇跡、超自然的賜物を追求することが教会生活の中心になるべきではないし、むしろ礼拝と神の御言葉と、神の民の間の愛であるべきだと、十分に、安らぎをもって理解することもできます。
聖霊の賜物には異言の解き明かしもあるので、そうすると当然、異言は人に語る部分や場合もありますよね。これは異言で人々に語っている事になると思います。ですので、必ずしも神に向かってだけではない事が分かると思いますが。
1コリント14章全体のパウロの話の流れを読みますと、「神に話す」というのは、自分の霊が神に対して語っているという個人の祈りや賛美の意味合いが強いと思います。解き明かしが行われても、なおのことその内容は神に対するものでしょう。それを聞いて他の者たちが徳を高められることもあります。だから異言の解き明かしの賜物があります。けれども、やはり、神から一人一人に対する言葉、つまり預言のほうが優れている、という流れになっていると思われます。解き明かしによる人への語りかけ、ということではないと思います。