秘密保護法案とキリスト者の迫害

今、騒がしくなっているこの法案とキリスト者の心構えについて、知人の牧師さんがブログで記事を書いておられます。もうこれ以上、付け足すことがないほどで全文引用したいところですが、リンク先をご一読いただければ、と思います。

秘密保護法案の成立を受けて思うこと

私はホームページやブログで、予てからキリスト教会に対する迫害について関心を寄せて自分の意見を書いてきました。聖書には必ず、キリスト者は敬虔に生きようとすると迫害を受けるとあるけれども、日本という土壌ではどうなっていたのか、という疑問から調べました。カトリックを加えるならキリシタンの殉教には涙し、その超人的な堅忍には驚くべきものでありましたが、明治以降のプロテスタント史においては、暗い側面があります。

それは第一に、真に迫害を受けた人は、社会的周辺に追いやられていくことです。迫害を受けながら、なおのこと勝利し、世俗の権力者が最終的にはその存在を認めざるを得ないという、初代教会、また今の中東諸国や社会主義国の一部にあるような神の証しを見ることができない、ということがあります。しかし、ごく少数の人がその信仰を貫き、そのまま世を去るという軌跡は認めることができます。

第二に、明治以降はキリスト教会も時流の中で生きてきた、ということです。日本のキリスト教会における最大の恥、悔い改めは、国家権力によって信仰告白を曲げたことです。しかも、時流に沿った聖書解釈を施し、それを言い広めることまで行った悪があります。そして、迫害を受けている少数派から距離を取り、保身に走ったという罪も犯しています。つまり、迫害という接点が出てくる前に、迫害を受けていないかのように取り繕い、妥協から妥協へと進んでいった、という軌跡があります。

その時代に生きてきた人々に鞭を打つつもりはありません。しかし、今の時代に対しては責任を負っています。過去をきちんと反省しているのなら良いのですが、実は反省しているような動きの中に、皮肉にも昔と同じ潮流を見るということを、私は当ブログ等で警鐘として表明してきました。今の日本、そしてキリスト教会に感じている問題点を改めて書き直したいと思います。

一言で言えば、「迫害されるのは、キリストの名とその福音のためであるべきだ」ということです。現政権が復古的な政策を打ち出していると言われますが、過去に受けた迫害を取り上げてキリスト教会が反対するのは、筋違いであると思います。それはイエス様が、「わたしの国はこの世のものではない。もし、そうなら弟子たちが戦った。」と言われたように、私たちは政治やイデオロギー闘争をしているのではないからです。それが非聖書的であるだけでなく、日本の教会の迫害史の深い誤解から生じていると思うのです。

秘密保護法があたかも戦中の治安維持法の再現であるように語られていますが、当時、この法律によって迫害を受けた人は、日本国に政治的に反対したから捕縛されたのではなく、ほぼ全ての人が、

1)聖書的に保守派、根本主義的な信条を持っていた。
2)信仰的には純粋、純朴であり、国に対しては無意見あるいは温和的姿勢を見せていた。

のです。これに対して、今、日本政府に対して政治的反対表明をしている主流派と呼ばれる教会は、

1)神学的にはリベラル(自由主義)
2)信仰については知性・理性中心、政治的には先鋭、思想的には左翼

という対称が見られます。敗戦によって、日本の市民空間は右から左に大きく振れました。そして、今は右も左も混在していますが、敗戦後の左の空気を主流派の教会がそのまま踏襲し、その後を追って福音派も便乗している、と見ています。

私は、主流派、そして一部の福音派の諸教会が反対表明する「原発」「特定秘密保護法案」が、神の目に悪だと思いません。けれども、主流派の強く推し進める、エキュメニカル(カトリックだけでなく、仏教まで含む勢いのある一致)のほうが、信仰根幹に関わる深刻な問題だと思います。彼らは、救いの教理では包括主義を採用しています。包括主義とは、「仏教のような他宗教でも、その与えられた光に応答しているならば救われる」という立場です。聖書全体にある神のご計画を俯瞰するならば、これこそが深刻な問題であると思います。

そして、日本の教会史に戻ります。なぜ、日本のキリスト教会は戦中に妥協したのか?

1)自由主義神学が諸教会に浸透
2)他宗教を受け入れても、キリスト者信仰には影響がない

というのが実際に起こったことなのです。だから、神社参拝が平気で出来たのです。一方で、ホーリネスの創始者中田重治は、天皇を心から愛する敬皇派でしたが、神社参拝は偶像崇拝になるという立場を表明しました。この違い、分かりますか?

拙記事「福音派は時流に乗るな」を参照してください。次に自由主義神学がいかに戦争と神社参拝を推進する教会へと変容させたのかが克明に描かれている次の記事を紹介しています。

日本プロテスタント教界に混乱と腐敗と分裂と破壊と低迷をもたらした自由主義神学

靖国神社反対、戦争反対、沖縄米軍基地反対、反原発運動、秘密保護法案反対・・・こうした「人間の義」の外套を身につけて、過去に犯した、神の前における恐ろしい罪についてはいつまでも封印し、むしろ今、かえって推進している。そして、宗教多元主義や包括主義には、個人として、また教会としては信仰的に決して許せないと考える福音派の人々も、日本の教会史の考察がしっかりなされていないので、その危険な流れに結果的に乗っかってしまっている、と言えないでしょうか?

教会にとって敵は政治的保守派ではないのです(もちろん、保守派の動きの背後にある反キリスト的な流れ、というものはあります。けれども、それは革新派でも同じこと。例えば、民主党がかつて創憲草案で、一神教の批判と日本を多神教の国と定める文面がありました)。初代教会はローマと戦いませんでした。しかし戦いはありました。使徒たちは「福音」の継承のための戦い、信仰の戦いを絶え間なく行っていました。福音を骨抜きにする、福音が形だけになり中身が空になる、異質なものに摩り替る悪霊の教えとの戦いです。私は、使徒パウロの書簡や、使徒ヨハネの書簡を読めば読むほど、当時の異端、すなわちユダヤ主義やグノーシス主義は、台風のような猛威で諸教会を襲っていたのだ、と最近、理解が与えられました。

迫害が来るのは、キリスト教会にとっては、イエス様の約束付きで必ず起こること。それは喜びをもって甘受すればよいのです。迫害される時に、それに耐え忍べば必ず勝利が与えられます。問題は、迫害に耐える以前に、それが迫害であるのか見抜けるのか?ということ。その部分で日本の教会は、ことごとく失敗しました。これを繰り返してはいけません。ニュースを見て反対運動をするのではなく、自分自身の信仰を見つめて福音に根ざしているかどうか確かめ、しっかり世に対して証していこうではありませんか。

「秘密保護法案とキリスト者の迫害」への3件のフィードバック

  1. 私が第一の点で指摘した、「迫害を受けた人々は社会的少数派に追いやられる」ことを補足したいと思います。ホーリネス弾圧は最大の迫害なので少し目に留まりますが、美濃ミッション事件後の信仰的勝利は、キリスト教会の中でもほとんど知られていません。そして次の記録は、どれだけの人が知っているでしょうか?ほとんど皆無に近いでしょう。同じ〝キリスト者〝からも迫害、嫌がらせを受けながら、なおのこと、神に対する真の悔い改めをした次の声明に涙します。
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    歴史的経緯と神学的立場の違いから、日本基督教団の指導者と福音派の指導者の間には溝がある。宗教団体法により成立した日本基督教団に、戦前から存在した福音派の教会の多くも統合され、教団は福音派も包含していたが、戦後の時点でほとんどの福音派の教会が日本基督教団を離脱した。また戦時中の段階から、日本キリスト改革派教会の創立者岡田稔牧師の牧会する教会は、日本基督教団を脱出し、単立教会となった。ちなみに日本基督教団の指導部は、偶像崇拝を行わない正統的な牧師たちを優先的に、国の強制労働のために送り出した。岡田牧師は1944年10月から3ヶ月、三井三池炭鉱に強制徴用され、岡田、田中剛二、春名寿章、松田輝一は数百名の中、たった4人で山の神を拝む偶像崇拝を拒否した

    岡田牧師と共に日本キリスト改革派教会の創立した常葉隆興牧師は日本基督教団の結成式で行われた宮城遥拝は、「偶像礼拝であり、神に対して死に値する罪であった。」と告白した。また日本キリスト改革派教会の牧師として、神戸改革派神学校で長年教鞭をとった神学校教師田中剛二は 日本基督教団に加わった事そのものが神に対する背信行為であり、「教団脱退は私の悔改めである」と述べた。日本キリスト改革派は1951年の第6回大会で「すべての神道神社は偶像であり、我々はそれを礼拝する事を拒絶する。神棚、仏壇その他どのような宗教的事物に対しても頭を下げて礼をしない。」と決議した。聖書信仰の教会は1959年11月18日の日本宣教百年記念聖書信仰運動大会において、偶像崇拝の罪を、神の御前に悔い改め、告白した。「我らは過去百年間、キリスト者として、個人生活的にも、亦国民生活的にも、 一切の偶像崇拝を廃棄すべき聖書の命令に応えることに於いて、 欠けたところの多かったことを神の前に反省し、痛切なる悔改めを告白する。
    http://blogs.yahoo.co.jp/kirisutobaka/62631423.html
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    第一に、行いが伴っています。罪の自覚が与えられ、戦時中から教団の脱退をし、また強制徴用の間も偶像を拝みませんでした。第二に、悔い改めが「神」に対して簡潔に「罪であった」と言い、はっきりしていることです。第三に、この声明の年代に注目してください。51年と59年です!これに対して、他の教団や教派から出された戦争責任表明はなんと1990年代を中心に出されました。
    http://blogs.yahoo.co.jp/kirisutobaka/62631418.html
    私は何か変だと感じています。そして今、その延長で秘密保護法に反対表明を出しているのです。何かおかしい、と私は思ってしまうのです。今、この時を生きている私たちがすべきことは、もっと他のところにあるのではないかと思います。

  2. 続けて補足です。いつものブログ水谷潔さんの記事の紹介です。

    特定秘密保護法成立に際して~有益なブログ記事の紹介

    私の意見とは反対のご意見を水谷さんは持っておられます。しかし、私はこのご意見に100パーセント同感します。

    それは何か?「愛の執り成し」というキーワードです。キリスト者の中に政治的意見については、聖書に明言されたものではないのなら、右から左まで個々の自由だと思っているのが私の立場です。ですから、左でなければクリスチャンではないという排他性に憂慮していました。

    ところでアメリカの福音界ではイデオロギーが正反対なのですが、同じように二極化現象が起きていまして、神学的に保守的なクリスチャンが、政治的に民主党寄りの意見を持つことはかなりの勇気が要ります。日本はその正反対です。

    けれども、右であっても左であっても、キリストと神の国の幻がしっかりしたキリスト者の間にはさほどの差異はない、と見ています。迫害が実際に来た時に、私は政治的には意見が正反対の人々のために祈り、助けを差し伸べたいという気持ちです。けれども、迫害が来る前に、この愛と尊重の確認をしたいと思っています。実際に迫害が来たら、実はほとんど政治的意見は意味がなくなり、その愛の助けの手だけが唯一の力になりますから。

    そして、私ももうそろそろ、反原発等を考える真面目な方々と対話して、私の、福音に立つ立場がどのようなものかを知っていただくと同時に、私も、彼らの熱い思いをくみ取って、愛していくという時期に来ている、と感じています。正しい前に、愛しているかどうか?です。

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