水谷潔さんが、フランクリン・グラハムとその息子ウィル・グラハムが日本でクルセード(伝道集会)を開くことについて、疑問を抱いている牧師さんの下のブログ記事をリンクしておられます(元記事はこちら)。(注:【後記】を書いています、この記事の一番下にあります。)
アメリカ主義が輸入された教会というものを体験した筆者にとって、確かにこの伝道大会とは心理的な距離を取りたいという思いが伝わってきます。日本の教会が、未だに米国の宣教活動に過度に依存していることへの嘆きは、よく伝わってきました。韓国の教会の宣教方法もそれがアメリカ式だという批判をされていますが、そのことも良く分かります。
この方の書かれた終末に生きる神の民についてのブログ記事で、大きく教わるところがあり、私も悔い改めに導かれました。これはぜひ、他の方々にもお勧めする論考です。そしてこの方の書かれた著書もざっと読みましたが、じっくりと聖書に取り組んだ跡が残っています。
「類型化」という過ち
ただ、その論点の背後にある流れには疑問があります。それを一言でいえば「類型化」です。
「アメリカのキリスト教」「ディスペンセーション神学の終末論」「フランクリン・グラハムのイラク戦争支持」など、です。
「アメリカのキリスト教」については、私もこのことに関連して以前書き記しました。私は、アメリカのキリスト教会に実際に通っていましたので、日本にやって来た輸入品というよりも、実際のアメリカの教会の実情の一部を味わってきました。その当事者として言わせていただきますと、その批判している教会成長論などはその通りなのですが、それが間違っていると批判する福音派の人たちはかなり多く、フランクリン自身も、去年のカルバリーチャペルの牧師会議で招かれて、繁栄神学の信仰に基づいた教会に招かれて、背筋の寒い思いをしたと話していました(その部分は、このビデオ映像からカットされています)。
それでも、アメリカ人の持つ気質は、教会成長論的な部分は皆無ということではありません。中国のような信仰の制限がされたところでは、数というものから霊的成長を切り離して考えられるのですが、日本においてはやはり数や見た目の華やかさに動かされるという傾向は否めません。それは韓国の教会も同じで彼らもそれに影響を受けており、確かにそれはアメリカ的だと言わざるを得ないでしょう。しかし、その気質や国民性までを批判対象にしてしまうのであれば、アメリカ人のキリスト者に与えられている、神からの良き賜物までを否定しかねない危うさを持っています。
アメリカ的教会からの脱皮は、どうやればよいのでしょうか?それは、批判ではなく、「対等な付き合い」であると思います。私がここで書いているブログの数々の記事に、その考えが反映されていますが、その一つが次の記事です。
アメリカの教会の兄弟姉妹が、通っている試練をどうして共有しないのか?そして、共に信仰の戦いをしないのか?アメリカの教会があたかも、自国の政府やお上のように、批判対象にしても、執り成しの対象にできないのか?彼らに対する愛と尊敬はどこにあるのか?なのです。それに、アメリカの教会を相対化させようとして自分探しをしている間は、依然として愛はないのです。キリストにあって対等な関係、つまり相手をありのままの姿で受け入れ、そして愛をもって尊敬するという態度がない限り、そこからの脱皮はできないのです。反発するということは、未だ依存していることの裏返しでしかありません。
「ディスペンセーション神学の終末論」については、私はその神学に近い終末論を受け入れています。そしてその終末の幻を見ているので、社会的現象に深い関心を寄せられています。その幻を見ているので、世界的拡がりの持つ宣教に目を留められています。そして具体的に行動しています。
確かに、この神学体系の聖書教師に教えられた人々の中に、聖書預言と中東情勢ばかりを論じている人々は多いのですが、実際の聖書教師や神学者は、キリスト者の慈善活動と世界宣教に非常に熱心な人々です。ですから特定の神学がそうさせているのではなく、むしろ神の義を自分の理解できる人の義に変容させるという、どの神学体系でも起こり得る問題と考えたほうが良いのではないでしょうか?ちなみに、ディスペンセーション神学についての私の考えは、次の記事に書いています。
この記事でアーノルド・フルクテンバウム博士について話していますが、彼は硬派なディス主義者ですが、聖書預言と中東情勢ニュースをつなげて話す傾向に、冷や水を浴びせるような批判を時に行います。このことからも、同じ神学体系の中でもいろいろな意見があり、類型化していくことの危うさを感じないではいられません。
そしてイラク戦争のフランクリン師の支持発言についてですが、確かに大量破壊兵器の使用を支持する発言をしました。これは個人的には私も短絡的な発言だと感じます。しかし、イラク人自身は、戦後処理に対して米国に不満をもらしましたが、米軍主体による戦争行為は大方支持していました。誰かが来てくれなければ、この体制はどうにもならないと絶望していたからです。ですから、イラク戦争の是非は分かれてしかるべきだと思います。それは、消費税を引き上げるべきか下げるべきか、原発維持か段階的脱原発か、即時廃炉かの意見が分かれるのと同じだと思っています。このことで霊的な判断、裁きを下してしまってよいのだろうか?と思います。
しかし、そうした戦争支持発言でさえも、フランクリン師の眼中には非常に小さいものであります。日本のクリスチャン新聞による率直な質問に対してフランクリン師も、明確に返答しています。
「私はいかなる戦争も支持しません。真実なイエス・キリストに仕える人はだれも戦争を支持しません。戦争は悲惨です。ここ沖縄でも24万人もの方が亡くなりました。戦争とは悲惨なものです。しかし、国には防衛する権利があります。それは戦争とは別です。聖書には「人の心」が悪いとあります。その悪い心が戦争を起こすのです。私たち人間の心が変わる必要があります。イエス・キリストから離れるなら戦争が起こり続け、多くの人が犠牲になるのです。イエス・キリストだけが唯一の希望です。国連もジョージ・ブッシュも政治システムにも答えはありません。イエス・キリストだけです。」
http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=1241
私は他にも、米国で似たような質問をマスコミから受けたキリスト教保守派、根本主義者と言われている牧師や聖書教師の発言を聞いています。ほぼ彼らの答えは同じです。戦争によるキリスト教の拡大という考えは皆無であり、そんなことを考える人は新生したキリスト者ではないと断言した発言も聞いたことがあります。もしそれでも疑義をはさまなければいけないのであれば、「国の防衛」に対する聖書的倫理を論じることです。日本の領土に他国の軍隊が侵略した時に、自衛隊は武器を使用し、相手軍に死傷者が出てくることが、不義であるのかどうか?であります。これを突き詰めると、警官は常時、拳銃を所持して、非常に自制を働かせて、自分自身が怪我をしても使用しないぐらいの自制していますが、それでも使用する時はあります。これも不義でしょうか?ここら辺を論じるのは意味があることだと思いますが、それ以上になると、相手の言っていない事を批判する、つまり誹りの罪を免れません。
そして、沖縄にいるクリスチャンたちのこともブログ記事の方は言及しておられますが、私が交わっている沖縄の教会の牧師さん(ちなみに彼は生粋の沖縄人です)は、米軍のことや、武器使用のことで教会が議論すること自体がおかしい、そして基本的に沖縄に米軍がいることは容認しておられました。これも意見が分かれてよいことでしょう、沖縄の方々は反対する人もいれば、賛成する人々もいる。けれども、問題は「沖縄」と類型化して、それをてこにして米国のキリスト教やフランクリン師を批判していることです。
さらに仙台郊外で行われた「希望の祭典」についての批判をされていますが、その批判の背後に、批判の摩り替えがあるようでなりません。被災地に限らず、伝道集会はあくまでも「日々の、伝道相手への献身的な愛の働きかけ」があってこそ、そこで人が救いに導かれるのです。種まきあってこその収穫です。問題はフランクリンの大衆伝道の方法ではなく、私たちの怠慢ではないでしょうか?ちなみに、そこで救いを受け入れた人々の多くが、サマリタン・パースで地道な働きを通してキリストの愛を既に知っていた人が、伝道の言葉を聞いて真実な回心をしました。そして、地元のキリスト教会の人々こそが、彼らが教会に仕える人々であることをご存知であり、感謝の念をずっと抱いています。私自身、仙台出身で何度も救援活動に行き、彼らの働きの世話になった一人なので、この手軽な”批判”には多少の怒りを禁じ得ません。
アメリカの教会批判は、そのまま日本の教会に跳ね返る
私は、アメリカのキリスト教の政治化に批判をしている日本のキリスト教会の論調には、、むしろキリスト教を政治化している過ちを見ています。先日掲載したブログ記事「教会の使命と福音の本質」に、ある牧師さんが、福音宣教の立場からその政治化の問題を取り上げています。
ところが、現代では福音と上のイデオロギーがまったく混交されてしまい、区別がつかなくなってしまっているところがあります。牧師が説教のなかで、福音と保守・革新のイデオロギーを混ぜ合わせたものを語ってしまっているケースが非常に多くなってしまっているのです。特に日本の教会では革新(左翼)の思想と福音の混交が非常に顕著なものになっています。アメリカではむしろ、キリスト教原理主義に顕れているように、保守(右翼)の思想と福音の混交が明らかと言っていいでしょう。
「ただキリストを伝えよう」26ページ
全文を読んでいただければこの牧師さんが決して、保守思想を持っておられる方ではないことに気づきます。むしろ社会正義の意義をある程度認めておられるからです。しかし、「信仰の置き所は福音のみであって、それ以外を付け足してはいけない。しかし、日本のキリスト教会は左翼思想を混交させている。」という指摘です。アメリカの教会を見て、人差し指を差している中で、残りの三本の指は自分自身を指しているのです。
私は、日本にいる中国の兄弟姉妹との交わりがあります。彼らは、日本人にしろ、誰にしろ、自由主義社会の中に生きるキリスト教指導者の政治的意見に当惑します。私たちが政府に働きかけなければいけないという内容は、彼らには時に「死」をも意味し、そして果たしてそれが「キリスト者の大義」にかなっていることなのか?という疑問を抱くからです。彼らにとって政治は民が動かす存在ではなく、上から与えられるものであり、耐え忍ぶ存在なのです。どうにかしろという発言は、チベットやウルムチの独立運動、またその他の民主化運動をしろと言っているのに等しいのです。私は、そのような時に彼らを励ましています。「違うよ、胡錦濤が主席の時にキリスト教に対する緩やかな姿勢で臨む発言が出てきたではないか?それは、政治運動をしたからではなく、家の教会があまりにも増えて、取りまとめられなくなったからだ。国を変えるのは政治運動ではなく、家の教会がさらに増え、福音が拡がることだ。」この慰めで、彼らはほっとしました。
実は、これこそが自由・民主主義社会に生きている我々キリスト者の落とし穴です。イデオロギーが保守しろ革新にしろ、聖書のどこに、国を政治で動かし、指導者を批判していけという命令があるでしょうか?確かにバプテスマのヨハネのような預言的な働きもあることでしょう。しかし、それは特殊な状況で、個々に神が与えられる御霊の促しであり、基本的にキリスト者は、権力の下で福音に生きていくこと、そして執り成して、感謝することしか命じられていません。そして、迫害を直接受ける時は、人ではなく神に従うことを弁明すること。政治指導者に反対意見を出しても、ダニエルような執り成しの香りを彼らはかいでいるでしょうか?いいえ、ローマに反発するユダヤ人の圧力で嫌悪感を抱く総督と同じようになっていると思います。
韓国のキリスト者との対等な関係を
同じような日本人キリスト者の反発は、韓国キリスト教に対しても向けられます。教会形成や宣教方法に逸脱が多く見受けられる、そして歴史問題をしばしば問題に出されるということで、嫌悪感や反発を多くの人が隠していません。けれども、「韓国のキリスト教は」と類型化してよいものでしょうか?彼らによって受けた神の恩恵をなぜ感謝しないのでしょうか?彼らの祈りや助けによって、どれだけのクリスチャンが助けられたことでしょうか?
しかし、その逸脱や誤りに従う必要はないのです。むしろ、そのような問題にも気づいていて、聖書的教会観や宣教方法を取っている兄弟姉妹と交わればよいのです。
「反発」からの脱却
以上ですが、そのブログの主である牧師さんに対する批判ではありません。彼ご自身は、数ある米国キリスト教批判に比べると、とても自省的で、控えめな意見をお持ちです。ですから、初めに書いたように、そこから教えられるところもあります。しかし、「類型化」という問題は日本キリスト教会の中にしばしば見受けられるものなので、取り上げさせていただきました。
そして何よりも、 「反発」は「依存」の裏返しだ、ということを話したかったです。「アメリカのクリスチャンはこれだら駄目だ。」と言われる人は、ならば自前でやっているキリスト教を見せてください、と言いたいです。私は分相応に動くべきだと思います。受けている助けを感謝する。しかし、キリスト者としての信仰の置き所をしっかり確立させる。そして、羨望するのでもなく、反発するのでもなく、対等に、愛をもって相手を敬う。これで、アメリカ教会や韓国教会への依存を脱却できます。
今回の東アジアキリスト青年大会で、ある日本の教会の伝道師さんがこう言われていました。「私たち日本人キリスト者は祈りが足りない。感情的になれとはいわないが、もっと声を上げて祈っていくべきではないか?」そうです、祈ることはへりくだることです。祈ることは、神に拠り頼むことです。祈ることは、自分の義ではなく神の義を求めることです。鍵はここにあると思います。ここにキリスト者のダイナマイトのような力が隠されています。
【後記】
元記事の水谷先生のブログにおいて「苦渋の決断」という言葉を使われていますが、それは一度、ビリー・グラハム伝道協会がモルモン教徒のロムニー候補を支持したことで日本側が中止にしたという経緯があります。このことについて、私は前々から、アメリカの教会のクリスチャンたちには、「福音派がロムニー支持をしたら、米国内では理解を得られるかもしれないが、国際的には無理だ。」という警鐘を鳴らしました。案の定、でありました。けれども、日本側のキリスト教会には言いたいことがあります。その中止の決断は、実に民主主義の中にある政治と教会の難しさと複雑さを、自国も民主主義国家であるにも関わらず、想像力に乏しい早まったものだと言わざるを得ません。次のブログ記事が、まさにそのことを取り上げています。
憲法改正を阻止しようとする政治家がモルモン教徒なら、どうしますか?
この題名をしっかり考えて、どこに投票するか決めてみてください。米国人のクリスチャンたちが前回の大統領選において、どのような苦渋の選択をしたのか、ご想像できるかと思います。筆者は、現実的に「公明党」に投票するならば、憲法改正阻止、原発廃炉などの方向に少しでも向かわしめる選択肢であっただろうと言っています。私は、米国も日本のキリスト教会も、保守にしろ(米国福音派)、革新にしろ(日本主流派と福音派)、政治色を無くして、もっと大きな視野に立って神の国の幻を見、そして福音の中に立っていくべき時期に来ていると信じています。
最後に、今回行われるウィル・グラハム師と父フランクリン師による伝道集会の案内をさせていただきます。
希望の祭典 in FUKUOKA (2014年3月15,16日)
Celebration of Love(セレブレーション・オブ・ラブ 2014年3月17日 東京)
北海道・希望のフェスティバル(2014年5月9‐11日)
私は未だに教会(の教え)の中には現実の生活と共に、信仰生活・教会生活・礼拝生活と、政治や主義・主張、思想などが分離されている理想化(?)された教えがあると、思っています。それが例えば日本基督教団に象徴される社会派と福音派です。
つまり、現実に私達が生きている社会は、福音そのものと社会が分離している現実がある訳です。その事に関して、どう思われるのかな~、と思いました。
実際にこの社会は、宗教や思想信条の上に成り立っている訳で、福音ばかりを語るのも社会的な事ばかりを語るのも、どちらもオカシイ話であると思います。
確かに私達クリスチャンや教会は、米国や韓国などからの多くのものをいただいたと同時に、非福音的なものまで輸入してしまいました。そこからこれからは如何に学べるかでしょうね。批判をしつつも協力やサポートが出来るところがあれば、すれば良いと思います。
福音を語ることは、社会を語らなくなるということではありません。むしろ、福音を語ることはそのまま、心にある闇のみならず、社会にある闇を語ることになります。これは、アイデンティティ(信仰の置き所)の問題です。「キリストと~」さらには「キリストより~」となっている説教壇に対する警鐘がその牧師さんの主張で、私も深く賛同します。