前回は、聖霊の賜物の今日の働きと、今すぐにでも来られる主への希望について、聖書の言葉をそのまま信じていくところに力があること、そしてそれは使徒の教えと初代教会の姿勢を受け継ぐものであることを話しました。
ところで一昨日、二冊の古本をネットで注文しました。
キリスト教はなぜ日本に広まらないのか? 〈和魂洋才〉を追い、キリスト教抜きの近代化を進めてきた日本。その中で伝道し、事業を展開してきた教会各派と無教会、教育や社会事業などに例をとりながら日本のキリスト教の特質を検証し、将来を問う。
(愚直一筋の耶蘇坊主菊地一徳Kazunari Kikuchiさんの感想・レビュー)
古屋氏は次のような主張を持っていて、それが魅力的でした。「日本のキリスト教はインテリのキリスト教となっていて、大衆の方を向いていない、日本にキリスト教を広まるためには、インテリ的というエリート意識を捨てて大衆の方を向かなければならない・・」(古屋安雄「なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教」)
「大衆の方に向いているキリスト教」 - これが魅力を感じた言葉です。これを忘れてはいけない、もっと求めていきたいと常日頃から感じています。どうしても、日本人は「武士道」的な信仰になってしまいます。真面目であり、節制し、知識を体得することが大事であるという価値観が前面に出てきてしまいます。これは教会の指導者の中でも起こっていますし、信者の中でも起こっています。
子供のような信仰
日本において、教会の指導者たちには知的なことが何か優れているかのような傾向があります。私は、信仰を持って約六年経ってから米国で信仰の訓練を受けようと思って渡米したのですが、心のどこかで「単純に与えられた神様からの信仰を養ってくれるところに行きたい。日本では押しつぶされてしまうのではないか。」という危機感がありました。不真面目ではないか?という負い目もあったのですが、今になってみると、自分を大切にして良かったと思っています。
聖書を読む時に、子供のように聖書を読んでそれで理解して、実践に持っていきたいという思いがどこかに、いつもありました。それを言語にして語っていたのは、チャック・スミスでした。”Simply teach the word of God simply”(単純に、淡々と御言葉を教えなさい)という言葉で始め、彼は、「聖書を教えたい」と言ってくる若者に対しては、「小学校五年生の日曜学校のクラスで教えなさい。」と勧めます。理由は、小学校五年生に教えることができれば、大人にも分かり易く教えることができる、というものです。
今は、一般の礼拝で説教をする身になったのですが、以前は週末に、いっぱい子供たちがいるところで聖書を教えていました。とても良い思い出です、なぜなら子供たちの聖書理解は、大人よりもはるかに深かったからです。彼らは特別用語を知りません。けれども、聖書の言葉をそのまま体で吸収しているので、そのまま論理を辿って理解しているのです。
賛美の歌も、今となっては文語体の讃美歌はすばらしいと思うのですが、信仰を持った時は賛美とは意味が分からずに歌うものだと思っていました!けれども、プレイズやワーシップの分類に出会って、「心に思っていることをそのまま神に歌っていいのだ」と感動した覚えがあります。幸いにも、現代音楽を教会に取り入れた発祥であるカルバリーチャペルで、礼拝賛美のシンプルな姿にある神の恵みを受けています。
毎年、カリフォルニアにある母教会に戻って、信仰は単純に戻っていかなければいけないという戒めと励ましを受けて日本に帰ってきます。
そして、私はアメリカだけでなく、他の国々にも行って奉仕をしました。知的に優れていることは、他国でも通用しません。しかも現地語で語らなければいけないのですから、なおさらのこと難しいことは省き、絶対に伝えなければいけない基本的な事だけに絞ります。しかも、人はだれでも水を飲むというような普遍的な原理や原則的なことを語らなければ、文化や民族や国柄を超えて伝わりません。
そして説教における話し方も違います。私が経験した宣教地の教会は、牧師の説教の間に、何度も「アーメン!」の相づちが入ります。説教は語ることだけでなく、聞く側との共同作品であることを私は実感しました。アメリカでは「人に語る」ことがとても強調されていました。日本の神学校では説教は原稿を完璧に用意して、それを「読む」ことが訓練されていると聞いたことがあります。けれども、私は牧会学校で、原稿ではなく来ている人々を見よ、そして論文の研究発表じゃないのだから、聞いている人々に語れ、という指導を受けました。
ゆえに、「大衆」というか、日本で普通に生きている人々に届くような信仰の持ち方で居続けたいという強い思いがあります。
知識先行の傾向は指導者だけではなく、信者の間にもあります。聖書の言葉をたくさん聞き、ノートに取り、下線を聖書に引き、勉強熱心にはなれても、実際の生活の現場で聞いたことをどのように生かしていくのか、その知恵に欠けていることです。そのために、キリスト以外の周辺の事柄が優先されていきます。熱心になればなるほど、キリスト以外の何か(一定の聖書解釈、神学、人物、方法論)を自分の拠り所としていくので、かえって福音から離れていってしまうという矛盾が起こります。(関連記事「教会の使命と福音の本質」)
日本の霊的覚醒
日本においても、霊的覚醒は起こりました。カトリックなのでどこまでが真正なものかは分かりませんが、戦国時代のキリシタンはとてつもない数で信じていき、迫害はカトリックの迫害史の中で断トツにあがる記録的なものです。私の出身、仙台や東北地方には、こんなド田舎に?というところでキリシタンの記念碑が立っています。
そして大正や昭和初期にあったホーリネス・リバイバルもその一つです。彼らも大衆伝道を盛んに行っていました。彼らも同じように、こんな田舎で?と思われるところに浸透していきました。その信仰は聖書をそのまま信じる方法で、キリストの地上再臨、そして教会の携挙を前面に出していました。そして聖霊の働きによる癒しやその他の奇跡がどんどん起こりました。(関連記事「東松島とイスラエル」)
その他、賀川豊彦もまた全然違う切り口ですが、大衆のど真ん中にいた人です。今の日本にある互助制度や社会保障制度で彼が関わっていないものはないのではないか、とまで言われています。しかし彼は社会運動家ではなく、どんどん伝道しました。キリスト教界外でむしろ知られる程になっていたのです。彼にとっては「キリスト」だけに集中していて、キリストが貧しき者たちに福音を伝えるという言葉をそのまま実行したのです。
現代においては、三浦綾子さんは偉大です。彼女もその小説が一般の出版社から出され、それがドラマ化、映画化されていきました。彼女の作品を通して教会に通い、信仰を持った人は数知れないです。
これらに共通するのは「大衆への働きかけ」です。それは、教会を世俗的にしろという話ではありません。その反対で、真摯な御言葉の追及と、キリストを求める清い心によって生み出される、この世に与える渇きです。「地の塩」のことです。キリストを見つめれば必ず大衆に目が向かいます。この方はガリラヤ地方で活躍され、エルサレムでも祭司たちの住む上町ではなく、貧しい人々の下町でその教えが受け入れられました。その召命に応答するということです。そしてその知恵は単純であり、知識に劣るものではなく、むしろ知識ある律法学者を驚かせるものでした。
福音と御言葉への確信
米国にいる友人と兄弟姉妹から、いつも大きな励ましを受けています。しばしば日本の教会で、米国の福音派の原理主義的姿勢を批判するのですが、私は日本にも別の形での強い排他性を感じています(参照ブログ記事)。さらに、私たちのカルバリーチャペルだけを見ていますと、良い意味で反省していて、初めに戻ろうよ、福音とイエス様だけで生きていこうという動きがあります。
しかし、日本がこれだけアメリカの教会から恩恵を受けているのに、その良い部分をなぜ見倣わないのだろうと思います。それは、再び言いますが「子供みたいな単純性」です。プロゴルファーのクリスチャンの奥さんが、アメリカ人のプロゴルファーのクリスチャンを見ていて、「彼らは本当に、素直な信仰を持っている。」と仰られていたのを思い出します。そして、大きな伝道集会をすればリバイバルが起こるのではないことは後述しますが、ビリー・グラハムや息子フランクリンにも、その単純な信仰が大きく表れていて、福音と御言葉への強い確信があるからこそ、御霊の力が現れ、人々が救われるのです。これこそ、私たち日本人の福音宣教者が倣わなければいけないことではないか?と思うのです。(関連記事「等身大で見るキリスト者」「ビリー・グラハムの「私の望み」」)
そして先の古屋安雄氏は主流派に属している神学者であるにも関わらず、福音派にある大衆への働きかけを肯定的に見ており、アメリカの福音派にも一定の評価を与えている人なのです。
古屋氏は前掲書(=「日本のキリスト教」)の中で、一章を「日本の福音派」にあてている。種々問題を論じながらも福音派の成長に注目し、「日本においても福音派に期待するのである。日本基督教団をはじめとするいわゆる主流派の諸教会がいつまでも混迷と混乱のなかにあるならば、福音派の諸教会がそれこそ〈主流〉となる日がやってくるかもしれない」と“オープンで前向きな見解”を披瀝している。
(エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(後編))
アメリカにある教会は、確かにいろいろな諸問題を包有しています。しかし、それでも一般の人々に渇きを引き起こすような「言葉」を彼らはまだ持っています。前のブログで言及した「レフト・ビハインド」ですが、日本のキリスト教でも批判的にしばしば取り上げられます。しかし、その本は一般書店の書棚に並び、それによって信仰を持ち、生活が変えられたという人々が続々出てくるという、やはり大衆性を持っているのです。(実は私の父も、信仰を持つ前初めて教会に通い始めた時、聖書ではなくレフト・ビハインドを持っていきました!世界情勢が聖書と関わるということを知るのは、アメリカ人に限らず霊的渇きを起こすのです。)
先ほど話したように、福音派が主流派から学ぶべき日本宣教の重厚な知識は当然あります。しかし、その混迷と混乱までも真似してほしくないと切に願います。(関連記事「最近流行りの「新しい福音」 その1」「その2」「アメリカの教会を模範にすべきか?」)
②「日本の信徒の「神学」」隅谷三喜男著
「神学」と言えば、神学者や教役者だけが求めるものだと私たちは考えますが、興味深いことに、それが信者にそのまま伝授されているのではない、という問いかけになっています。
「神学者は2階にいて、勉強している。信徒は日曜日だけ2階に行って、あとは1階で生活している。両者がこの辺の問題点を互いに指摘し、生活様式にまで踏み込み、問いかけながら、時には戦っていかなくては展開はないのではないか。」
(「今週の本棚 -過去の本棚-」)
この言葉に魅かれました。「二階建ての家」になっていて、牧師や神学者はいつも二階にいて、日曜日に会う信徒たちに自分の勉強していることを披露しているのだが、月曜日から土曜日までは実は一階で自分なりの生き方をしているが現状だ、という問題点です。模範的な回答を教会では信徒はすることはできるのだけれども、実際の生活では違う原則で動いてしまう、ということがあります。
そしてこれは、牧師が二階から一階にまで下がってこないという問題を浮き彫りにしているのです。あるツイートで若者のクリスチャンが、「日本の牧師は学者になっている」と批判していましたが、どきっとしました。コミュニケーションの方法を知らない人が多すぎる、ということ。人々に対して神の恵みを分かち合う奉仕をしているという姿勢に欠けていることの指摘です。
同じ「福音派(evangelical)」と言っても、アメリカや他のアジア諸国と、日本とではかなりの温度差があることを感じています。同じ長老派でも、韓国と日本のとでは歴然とした違いがあります。彼らは単純に福音を伝え、宣教に熱心なところが多いです。それゆえ教会が大衆性を持っているのです。日本は神学や教条的なものが前面に出ていて、私は時に「同じ日本語を話しているのか?」と難解になることさえあります。
福音派にあるエキュメニカルの傾向
ある人が、今の福音派の教職者が自分の好きな書籍に、福音派の著名な指導者のそれではなく、主流派のものであったり、カトリックのものであるように変わっているということを書いていました。福音に妥協するのではなく、福音の広がりを見るという話なのですが、その姿勢自体は同感です。私も、前ブログで言及しました聖霊論や終末論で、意見を異にする人々からも学んでいます。それぞれの説に、それなりの聖書的根拠があり、「なるほどそのように見ているのだ」と納得することがあります。それゆえ、自分の聖書理解と聖書そのものを区別することができ、なおのこと聖書の世界が広がり、聖書に対する信頼が増します。
主流派やカトリックにおいても、私は学ぶべきところがあると思います。根本的な違いはあるのですが、それらが存在してきた歴史と神学があります。使徒信条から始まり信仰告白、聖書正典の編纂など、これらはカトリックの歴史の一部であり、教会史の多くがカトリックなのです。主流派も同じように、重厚なプロテスタントの歴史を持っています。もちろん根本的な違いがあります。だからと言って、彼らに異端団体と同じようなアプローチで戦闘的に対抗するのはおかしいですし、そうした分離主義は新たに自分たちの中に教えや実践において歪みをもたらしかねません。(関連記事:「教会から分離する人々」)
けれども、一つの大きな懸念があります。信者の方々にとっては大きな打撃だ、ということです。その福音の広がり云々という話は、自分の机の上で思索するにとどめれば良いことですし、あるいは教役者の間で分かち合えばよいことでしょう。これを教会の羊に話すことは、どれだけの益をもたらすのだろうか?ましてや説教壇から話したら、混乱を引き起こしかねないだろうという懸念です。
主流派の中で受け入れられている自由主義神学や高等批評学は今でも歴然と残っています。なぜ私たちは聖書がすべて神の言葉であると信じているのか、それは心の信仰の問題だけでなく、歴史的にも正しいことを話していることがなぜ大事なのか、これをまず分かり易く伝えることが大事でしょう。(関連記事「自由主義神学(リベラル)について」「福音派は時流に乗るな!」)
カトリックも同じで、なぜ私たちが信仰によってのみの救いに立っているのか、それをきちんと教えなければいけません。教会の伝承ではなく聖書が最高権威であるのかを教えなければならず、牧師任せではなく、全ての人が祭司の務めが任されていることも教えなければいけません。
私はカトリックの人にこれまでお会いして、同じ兄弟姉妹としてよりも、救いの確信について尋ねるまでは伝道しなけれいけない対象だという意識を強めています。プロテスタントの教会の中でさえ、救いの確信を得ていないのに教会には通っているという人が結構おられるのですから、ましてや、教会組織に属しているというだけで兄弟姉妹とみなすのは、救いの真理についての誤りです。
神の御言葉を学び、カルバリーチャペルに出席することがあなたを救うのではありません。誤った安心感の中にいてほしくないのです。福音派教会にいるから、また、主に仕えようと求めて、ここに出席しているから救われるのではありません。あなたを救うのは、主に対する自分自身の個人的な決心なのです。
(ツイッター「チャック・スミスbot」)
このような基本的なことを踏まえた上での福音の広がりであります。つまり、一階に降りて、それから二階に上がらないといけないということです。
日本における漁の穴場
最後に、古川氏の他の著作を読んだ人のブログ記事の紹介をします。
書評:古屋安雄著『キリスト教新時代へのきざし―1パーセントの壁を超えて』(オリエンス宗教研究所)
以下の主張点だそうです。
********
①キリスト教が日本で広まらなかったのは、
明治期に庶民層からではなく、士族などの知識階級から入ったため、インテリ層にしか広がらなかった。
②戦時中、カトリック教会とプロテスタント各派は国家神道に屈し、戦争協力した。
③日本の礼拝は、喜びがない。
④福音派・聖霊派に見られるような「リバイバル」至上主義=個人の救いではなく、クリスチャンホームを築くことが大事。
⑤正統主義(オーソドキシー)から正しい実践(オーソプラクシー)へ? 憲法第9条を守る、積極的な社会貢献をするなどの実践が必要。
********
そして興味を引いたのは、ブログ主の④についての感想です。
********
④については、未だに、クリスチャンを増やす=トラクトを撒いたり、大規模な伝道集会を開く・・・というイメージが、教会指導者(特に福音派・聖霊派)に強くあります。韓国の教会のマネをしてみたら、24時間連続祈祷をすれば・・・
伝道を「保険の勧誘」のように考えてみればわかりやすいかもしれません。新規飛び込み営業をするよりは、既にある契約(既契約)を大事にして、新たな契約に結びつけた方が確実です。そういう顧客なら、新たな客を紹介してくれるかもしれません。
一方、キリスト教会(カトリック・プロテスタント)はどうでしょうか?カトリックの大半の教会のように、新参者に冷たい態度をとるところや(さすがに聖職者は別のようですが・・・)、福音派・聖霊派のように最初は「ラブシャワー」を浴びせて、洗礼を受けるや否や、あとはノルマのように「伝道、伝道!」とたたみかけてくる・・・いずれも、既に教会を離れた人に対しては冷たいものです。
ところで、道端で伝道するよりも確実にクリスチャン人口を増やすには、 既に教会を離れた人や、教会員の未信者の家族が教会に来るようになることです。たぶん、伝道のシフトを個人伝道から家族伝道に移すだけで、あっという間に何万人もの人が教会に集うようになるのではないでしょうか?
幸福な結婚、幸福な家庭生活・・・こういったものを、聖書から学ぶようにし、実際に実践している夫妻・家族を紹介する。人は神学に大して興味を抱きませんが、具体的な目に見える幸福には心動かされるはずです。
*********
私もだいたい同じことを感じていました。私は、家庭という現場において、教えられたことを実践している証しを兄弟姉妹から聞く時、心が喜び踊ります。そして、ロゴス・ミニストリーのウェブサイトを通して教会に行ってみよう、あるいは戻ってみようと奮起する人が起こされる時、主の御名をほめたたえています。(関連記事「兄弟愛のすばらしさ」「教会へ通っていない方へ」)
チャック・スミスは、1970年前後における「イエス革命」の渦中にいた人ですが、いわゆる団塊の世代(アメリカではベビーブーマーと呼ばれますが)になっている人々がまだ十代、二十代の若者でしたが、「大きな池で釣りをしたい」と言っていました。
その池は日本では意外にも、道端で歩いている人々以上に、かつて日曜学校に通っていた人であるとか、教会からしばらく離れていた人であるとか、家族の中にクリスチャンがいる人であるとか、そのような身近な人たちなのではないか?と感じるようになりました。もちろん従来の伝道方法やその他の努力は惜しむべきではありませんが、今、神が動かしておられる時代性を見極めていく必要があるように感じます。大事なのは、方法論ではなく、常に聖霊に拠り頼むことです。
古谷氏の著作への書評の中に、再び良いコメントを見つけました。これが福音派の問題だと思います。
「今日のプロテスタント教会の現状はすべてにおいてその活動が後手後手に回っている。教育活動においても組織存続が危うくなると、建学の趣旨を捨てて営利主義に走り、運営が行き詰まると売却するか閉鎖する。残念だがキリスト教精神の良いものまでも捨てられることになる。心あるキリスト者が立ち上がらなければならない。私は標語を掲げて現状を打破しなければならないと考えている。魅力あるキリスト教を取り戻すために『愛なくして教育なし。聖霊なくして成長なし。信仰なくして成果なし。』との言葉を掲げたい。」
「古屋先生は米国留学の際牧師である父上からPhDを取るよりはクリスチャンホームを学んで来るように言われたと記している。」
「聖霊とは神の働きそのものである。人間の努力によってすべての事柄が成立するのではなく、神への信頼によって希望の内に努力することが未来を今に近づけることとなる。閉鎖的な人間の思考が全てを決めるのではない。新しい可能性は聖霊のはたらきと共に始まる。そこに神が関与し、キリストが共に立ち会われることにおいて成就するのである。新しい目標を掲げて努力することが大切であるが、それと共に成長持続させる力は人の成果ではなく神の成果である。神の成果は信仰によって評価される。制度は朽ち果て、組織はやがて崩壊するが、生き生きした成果は信仰の賜物であり持続するものである。神にあって一人一人が輝くことにおいて組織が生かされる。教会はそれを生み出す社会のモデルであると言っても良い。」
http://church.sakura.ne.jp/monthly_2013_10.html
「歴史が薄いので他のを見てすぐに手を出す。」「そのことによって、自分たちの持っている良い部分(聖霊に導かれることなど)を簡単に捨ててしまう。」ということです。自分たちに与えられた単純性をしっかり保っていることこそが、先に進むことのできる鍵だと思います。
もう一つは、いつでも聖霊の導きがあれば、学校(でなくとも)閉鎖をする勇気と決断だと、思います。リベラルに走ったりノンクリスチャンに頼る事は、教育方針が曲げられこの世と同化する道だと思います。