“普遍教会”にある誤謬

(「民衆という”深海”を見よう」の続き)次に「日本のキリスト教」で取り上げたいのは、内村鑑三によって始まった無教会のことです。これまで無教会について詳しく知らなかったのですが、現在の問題に直結しており、日本のキリスト教特有の問題としても顕在しています。古屋氏は、実際の無教会に長いこと触れてきたので、その実情を知っている方です。日本のキリスト者の病を抉り出しています。

1.「便利」な信仰

「それに、「無教会」と自称する人々はかなり居るのではないだろうか、と思われるのである。というのは、わが国には、教会に対する批判と不満を公然と表明できる自覚的な無教会の人々のほかに、いわゆる「隠れキリスト者」的な「無教会」信者がかなり居るからである。「無教会」というのは、自分のアイデンティティをはっきりしないのに都合が良いし、わが国に多いいわゆる「卒業信者」受洗後まもなく教会に行かなくなる人々が自称するのに便利だからである。」洗礼を受けているということで風当りが強くなるけれども、「この意味でも無教会というのは、わが国の精神風土に適合したキリスト教ではないか、と思われるのである。」

以前、ヤロブアムがダンとベテルに金の子牛を造って北イスラエルの住民に拝ませたところから、「コンビニ礼拝」という題名で説教をしたことがあります。(原稿音声)。自分に都合のよいように信じていくことは、たとえそれがイエスの名を使っていても、偶像になってしまっている、という話です。日本人が自分の都合で神々を選べるのと同じように選んでいけることを表しています。

2.「無制度」という名の強い制度

無教会では、教会批判が強く行われます。それは、洗礼とか聖餐が儀式になっているという「神秘主義」という言葉を使っていますが、つまり、本質だけ、霊的なことだけを求めて形式を排除するという、そういう根拠から教会を批判します。そしてこう言っています。「しかし実際には、無教会にも儀式、しかも教会の儀式よりももっと厳格な「礼典」があるのではなかろうか。」

制度を批判するのですが、批判しながら、実は目に見えない規則を、規則を作る以上に強固に持っており、排他性を帯びているのです。これは、分離主義的な行動を取る個人、団体、集会の人々の中に共通して見える傾向です。本人たちは「教会は世的になっている」「堕落した」「私たちはイエスだけを求める」と言うのですが、本人たちの間で互いに裁き合っています。なぜなら、客観的な規則がない代わりに、自分たちで主観的な規則をそれぞれ作るものですから自分自身が物差しとなり、現実はさらに厳しくなっているのです。(参照エッセイ:「教会から分離する人々」)

そしてこうあります。「無教会は教会の牧師のような専門職あるいは教職者のいない、いわゆる信徒伝道の運動だといわれる。・・しかし、無教会の「先生中心主義」は教会の「牧師中心主義」以上のものではなかろうか。その権威たやるや、牧師はもちろん、カトリック教会の教皇以上に絶対的だからである。」これもまた事実です。取りまとめている人が、牧師中心は嫌だと言っている人が、牧師以上に、自分のしていることに賛成しない人々を排除していきます。

そしてこう言っています。「無教会の「先生中心主義」は、聖書の真理は人格的である、といいながら実は、きわめて日本的な旧い師弟関係からきているものではないだろうか。そこにおいては教師は絶対的な権威をもって教えるものであり、子弟はその言うことに絶対的に服従していくものである。私が思うに、教会の「牧師中心主義」にしても、無教会の「先生中心主義」にしても、それはみな明治以来の武士階級と結び付いたわが国独特のプロテスタント・キリスト教の特徴である。」

無教会は、牧師中心主義を否定して信徒伝道を強調するのだそうですが、権威は何にしてもそれ自体を「否定」してしまったら、なおのこと権威が出てきて、悪い形で出てくるとと私は思っています。そして「人格的である」と言うのもその通りで、実に、教会から離れて動いていく人々の教えは”立派”です。しかし、その教えとは裏腹に、いつの間にか師弟関係のようなものができあがって、人々を縛っていきます。

こうも話しています。「あれだけ聖書を重んじて正統的な贖罪論を認めながら、教会制度や洗礼と聖餐を認めない、という非正統的な聖書観を持っているからである。」

そうなのです、私はこの点で無教会的な考えの人に大きな疑問を抱きます。ある時に相談を受けたのですが、教会に行けていない理由として「一般の教会での教え、神学が合わない」ということです。私は、「神の定めは、聖書の教えだけではない。交わりもある。教えの一部に同意できなくとも、キリストにある交わりのために教会に集うべきだ。」聖書的な事を追及しているのに、聖書に書かれている交わり、パンを裂くこと、共に集まることの大切さがどこかに行ってしまっています。そして牧者の働きにを、「人間の要素が入っている」とする批判を聞いたことがありますが、確かに内面的なイエス様との関係においては実に聖書的で正論なのに、聖書に「キリストが牧者また教師を立てた、そして彼が聖徒を奉仕の働きのために整え、キリストのからだが建て上げられるとしている」ということについては、置き去られているのです。

3.牧会的配慮の不在

そして古屋氏は、牧師は説教のほかに「魂の看取り=配慮」という働きがあることに言及しています。それが無教会にとっては「最も苦手な課題」となってきているとのことです。そして古屋氏は言います。「この問題はエクレシアというのは、ただの聖書研究集会ではないことを示してはいないだろうか。」例えば結婚式や葬儀の時は、無教会の人々は教会に来るのだそうです。そして、高齢になって病床にあるときに、訪問してくれたのが牧師であったりします。

いざという時に、その人生の分岐点を迎える時に、聖書の学びだけでは決して補うことのできない、牧会配慮があります。

そして大事なことを話しています。「教会に不満な人は絶えないであろうから、無教会は今後も存続すると私自身は思っている。しかし教会というのは、初代教会の時代から、イエス・キリストの言葉で言えば、「毒麦」が入っているところなのである。そのことは、新約聖書に含まれた使徒パウロの初代教会への手紙に明らかである。けれどもそのような教会を、彼は「キリストのからだ」と呼んでいるのである。」

無教会的な考えを持っている人は必ず「教会にはパン種がある」とします。呼称はいろいろ変わるのですが、「私たちは普遍教会に属している」と言ってみたり、「エクレシアに属している」とか、「キリスト教ではなく、イエスのみ」と言ってみたりします。けれども、それは上述しましたように、神のご計画とデザインそのものから離れたことであり、必ず自己矛盾と霊的窒息状態をもたらすものと私は見ます。

「パン種がある」と言われる方へ:ご自身がパン種になっている可能性は考えたことはないでしょうか?

「地域教会ではなく普遍教会に属している」と言われている方へ:普遍教会は目に見えない教会のことです。しかし、あなたは目に見えます。集まったらそこが目に見える教会=地域教会になるのです。しかし、そこには神に立てられた牧会者が不在です。ですから牧会配慮なしの、霊的に痛めつけられる状態です。教えはありますが、自分の生活全体が網羅されていないのです。

「エクレシアに属している」と言う方へ:地域教会なきエクレシアは、家庭内離婚、戸籍上だけの結婚と同じです。目で見えない御霊によるつながりを、目で見える形で実践しなければエクレシアの目的を達成できません。

「キリスト教ではなく、イエスのみ」と言われている方へ:キリスト教というのは「キリストの教え」という意味があります。教えから離れたイエスって何でしょうか?そうなると、聖書について独自解釈になっていき、ついに福音の骨格からさまよい出ることになります。

そして、次の古屋氏の指摘も大事です。「忘れてはならないのは、たとえ無教会の先生になるほどの、信仰と知識の力量が十分にあっても、教会員として年若い牧師の説教を謙虚に聞き、教会と社会において奉仕し証をしている信徒が教会には居るということである。」

教会のすごさは、ここにあります。牧者の説教は、知っている者が知らない者に教えを垂れることではありません。語る者だけでなく聞く者との共同作品です。牧者を通して神が語られるという信仰と期待があるからこそ、神の声が聞こえます。そこでは聖霊が御言葉によって教会全体を支配し、神に栄光が帰されるのです。ですから、自身に仮に聖書知識が多くあっても、まだ経験の浅い説教者によっても霊的充足を得られる不思議な神秘体なのです。

4.相互補完の働き

ここまで古屋氏は話していますが、最後にこう締めくくっています。「教会も無教会もエクレシアの一つの類型であるならば、おのれを絶対化するのではなく、おのれの相対性を認めつつ、互いに補完しあうということが必要であろう。」

もし無教会的な動きをしておられる方が、この補完的役割に徹することができたら、実に麗しいエクレシアの姿を見ます。地域教会だけでは決して補うことのできない、神の救いのご計画の全体像があります。自身も教会に仕えている身なのだということを自覚して、教会の欠けたところを批判するのではなく、助け、支えなければいけないと思えれば幸いです。

私が教会の者だから話をしているのではありません。仲間として話しています。実は昔は、いや今もですが、無教会的な働きをしていました。この「ロゴス・ミニストリー」です。教会なしの聖書を教える働きはあり得ません。あくまでも補完するために存在します(論考:「ロゴス・ミニストリーと日本の教会」)

「“普遍教会”にある誤謬」への4件のフィードバック

  1. シリーズひと通り読ませていただきましたが、要点を(勝手に)まとめさせていただくと、クリスチャンが「みことばを実践していない」という点に問題があると思います。
    パウロが「キリストのようになってください」と言わずに、「私のようになってください」と言った点に注目する必要を感じます。すなわち、「キリストの言葉を実践して模範を示している私を真似して、みなさんも実践してください」という点です。
    確かに御言葉を実践するのは大変ですが、実践して初めて「生きた信仰」になるはずです。「知識や口先だけの信仰」では、クリスチャンに対しても未信者に対しても、何の力にもならないでしょう。
    牧師の説教でも、その後に、「今日語られた御言葉を実行しましょう」と言うのはほとんど聞いたことがありません。話してオシマイ。信徒も聞いてオシマイ。強制させることはできませんが、もっと「実行すること」の必要が説かれるべきだと思います。
    ・・・ふと思いましたが、「日本人の英会話」に似ているような気がします。「知識はあるけれど、失敗を恐れて話そうとしない」みたいな。「恥の文化」と関係あるのでしょうかね?

  2. 「御言葉の実践」-簡潔なまとめで良いですね。「私のようになってください」つまり、自分自身がキリストのようになっている、というほど、大きく、高い召命はないと思います。東アジア青年キリスト者大会でも、「キリストのようになる」という祈りと召命を受けた賀川豊彦のことが紹介されましたが、「日本のキリスト教」の中にも彼のことが取り上げられていました。福音書を何とか理解しようというのが私の姿勢でしたが、賀川の場合は、「聖書を何とか実行しよう」あるいは「キリスト実行」という生涯だったと思います。私も逃げないで、この召命に果敢に応答しなければいけないと思いました。

    そして武士道的な教会というよりも、まさに「英会話教室のような教会」のほうが、今の人々にはぴったり分かる、すばらしい例えだと思います!

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