私にとってのキリストの死と甦り

今日は、キリストが死んで葬られている日、明日が復活でありますが、主は、死んで、「葬られ」、三日目に甦られました。

私たちには、常に「死」という現実に直面します。韓国での船の沈没で、行方不明の若い子たちはどうなるのか?行方が分からず泣き叫ぶ、ご家族の姿を見て胸が張り裂けそうです。一人でも多く助かることを切に祈ります。死が、これだけの嗚咽と泣き叫びをもたらすものなのに、確実に、暴力的に迫ってきます。

死と陰府(死後の世界)は、いつも大量の魂を飲み込む、ブラック・ホールのような存在です。こんなに無残で残酷な現実なのに、無慈悲に迫ってくるのです。

思い出すと、私はキリストの十字架について、涙を流すことはありませんでした。イエス様の映画については、今は「パッション」が一番知られていますが、私が救われた当時は「ジーザス」が主流でした。救われて間もない時、もちろん私は、イエス様に、こんな罪人のために身代わりとして、進んで十字架の道を進まれるお姿に神の愛を知って信じる決心をしましたが、そこで涙を流すことはありませんでした。

しかし、自分の大学の学園祭で、大学内のキリスト者留学生会が催していた映画会に立ち寄りました。ジーザスの映画を見た、初めての機会でした。私が見たイエス様は、上に書いた無残で、何の甲斐もなく死んでいかれた方でした。ガリラヤで、その湖のそよ風が肌で感じられるぐらい、その恵みの言葉、また人を救う奇跡があったのに、エルサレム城外の、大通りにすぐ面したしゃれこうべでの死刑場で他に極刑を受ける数多くの者たちと変わりなく、無残な死を遂げられました。

そこに横たわる遺体は、他の者たちの遺体と何ら変わることはありませんでした。辛うじて、獣に食い殺されることなく、アリマタヤのヨセフという富者の用意した墓に葬られましたが、激しい鞭打ちによる傷と、十字架に磔刑にされた体はあまりにも無残な死に体を晒していたことでしょう。そして当時のユダヤ人の埋葬方法は、その洞穴に遺体をそのまま腐乱させます。香料や没薬などで異臭を抑えることはしますが、白骨化させることが目的です。そして白骨化させた後に骨箱にいれるのが習慣です。

日本人は火葬なので、この死の現実に触れることはあまりできません。けれども、それでも火葬場において、火葬された後のお骨には出会えます。私は、人の死の姿を見る時、身が引き締まる思いがします。その方の全人生を支えたご遺体がそこにあり、その方には神、キリストがおられたというその人生が置かれているからです。そこに霊が宿っているとか、そういう話ではなく、私は神に対する畏敬の念に包まれます。

しかし、お骨を見る時、人というものが、これだけはかない、霧のような存在なのだ、という現実を見つめます。イエス様の場合は、その遺体には、超人的な姿、いわゆる「神がかった」お姿は何一つなく、目もとびぬけそうな状態になっていたかもしれませんし、肌はとても人のものだと思えないような黄ばんだ状態だったかもしれません。

ところで日本は、毎年約三万人が自殺している国です。それでも、自殺という現実を見せないようにタブーにされていきます。今は、右派政権で戦争の悲惨を知らないという議論がたくさんされていますが、といっても日本人の誰もが七十年ぐらい誰もその悲惨を知らないのです。神風特攻隊の議論をしなくとも、自殺というものは現在進行形で進んでおり、しかも、すぐ間近で起こっており、この悲惨をもっと知らなければいけないはずなのですが、覆い隠そうとしていく強い力が働いています。

今から言うことは決して、絶対にお勧めしません。最も健全なのは文章で読むことだと思いますが、自殺の悲惨さを知るために、自殺した後の写真を見たことがあります。ホーラー映画よりも、はるかに凄惨な姿です。これが人間の肉体なのか?と思われるほど体が変形し、一部が飛び散り、実に暴力的です。もう一度言いますが、興味本位で絶対に調べたりしないでください、人によれば心的外傷を受ける可能性もあります。しかし私は、写真を見たので、自殺の悲惨、その幻想や夢想を完全に除去するのに助けになりました。

しかし自殺でお亡くなりになった方のご遺族は、こうした無残な姿を実際に見なければならないのです。実物で、しかも自分の間近にいた愛する者の実物を見るとは、なんと人生は残酷なのでしょうか!

このような所に神はいない、絶望だ、と思うかもしれません。しかし、その絶望の中に、あの無残な死に体を晒したイエスのご遺体はやはり、神が共におられることをまざまざと示しておられます。

先のジーザスの映画に戻ります。女たちが墓に行きます。その石が動かされていました。そして二人の青年が光り輝くその姿で、「なぜ死人の中に、生きている者を捜すのですか?この方はここにおられません。甦られたのです。」と言いました。

私は、魂の奥底から、涙の泉からその川が流れ出されました。それは、この死というものの完全な敗北の始まりでした。死とその悲しみ、泣き叫び、これらの絶望をさらにブラック・ホールのように、いやホワイト・ホールのようにして、その陰府というブラック・ホールを飲み尽くす勝利の始まりでした。

女たちに現われ、ペテロに現われ、エマオ途上の二人の弟子に現われ、十一人の使徒の真ん中に現われてくださいました。ここで大事なのは、刺された釘の跡、裂かれた腹の跡が、そのまま残されていたということです。つまり、イエスの復活は、その死と連続しているということです。「悲惨なことは忘れて、次に新しいことをしましょうよ。」ではなかったのです。私たちキリスト者は復活する時は、栄光の姿であり、何一つ傷のない体を受け取りますが、イエスのそれは違うのです。この方のみは、罪から来るその死を身にまとわれ、その痕跡を残して甦られました。

ここに希望があるのです。自己実現的な「今の自分は忘れて、新しい希望をもって」という希望ではないのです。「絶望というトンネルの向こうにある希望」であります。あるいは、絶望というド真ん中から始まる希望であります。今の自分はキリストと共に十字架につけられているという、自分の絶望と隣り合わせで生きる、その希望を私たちは持っています。

私の涙は、甦られたイエス様の姿を映像で見て、溢れて溢れて止まりませんでした。もう他の人たちは帰ったのに、私はその場から離れず泣き続きました。留学生の方々は私が新しく信じたのだろうと思っておられましたが、既に信仰を持っていることを告げました。しかし、新しく知ったといっても良かったかもしれません。イエスの復活にこそ福音があることを知りました。

イエスは生きておられるのです。事実、生きておられるのです。この「事実」が大事です。人は、心の安寧のためにイエスが生きているというのだろう、と言います。希望を持つために、イエスの復活という概念があることが必要なのだろう、と言います。いいえ、事実、甦られたのです。

元々、死は罪から始まりました。アダムが犯した罪によって、死という全世界を覆い尽くす大洪水が始まりました。神は罪をキリストの十字架に釘つけにされ、そして私の罪を釘づけにされ、根こそぎ抉り出してくださいました。そして罪をイエスの死と共に葬り去ってくださり、私に、この生きておられるイエス様を下さったのです。

イエスが生きておられるというのは、気休めではないのです。ちょっと感情が生きておられるという類いの安価なものではないのです。現実であり、実体であり、私の命そのものなのです。私がここで呼吸をしている、という以上の事実なのです。

そして、新しく始まったその命は、死の大洪水を凌駕する勢いをもって世界を覆い尽くします。洪水のような大量の水も、核爆発のような大きな勢いのある火で飲み尽くすがごとく、死は、世界的に、宇宙的に、命によって飲み干されるのです。まずは、御霊によってキリストを信じる者たちに来ます。そして、キリストが地上に来られた時に全世界に及びます。そしてこの天地の万象が崩れ去り、同じ復活の力をもって新しい天と新しい地に変えられるのです。

これが、イエスが墓から出てこられたことの行先です。パウロが、新しく生まれた者として、「すべてが新しくなった」と言わせる、全世界の新創造という収穫の初穂なのです。

He is Risen

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