牧者の喜び
昨日は無事に復活祭礼拝を捧げることができました。礼拝の後、初めて来た二十代の女性が、イエス様の復活の御業をご自分のものとして信仰告白をされました。
牧者にとって、何がやりがいなのか?と聞かれる時は、やはりこのような時でしょう。単に、口で告白したからという機械的なことを話しているのではありません。その人の人生、その苦しみや悩みを聞き、そこにキリストの十字架の血潮が注がれたこと、そこに注がれた御霊と新しくされた心を見る、それが喜びであります。
それだけではありません。むしろ信じた後が大事で、その信仰にあって本人が成長し、変えられる姿を見る時に、やっていて良かったと感じます。まだ本格的に牧会を始めて三年ちょっとです。聖書教師としては長い月日が経ちましたが、神が実質的に牧会の働きを与えられたのは、この開拓教会であります。されど、三年ちょっとです。神の畑で各人が、神を見つめ、その中で信仰によって近づいている姿を見ることができます。
次に喜びは、信者たちが互いに助け合い、祈り、そして他の信仰の若い人々を助けている姿を見る時です。私だけが伝道し、奉仕しているのではなく、私も彼らと同じ兄弟であり、共に教会を建て上げる一部になっていることを見る時に、喜びを感じます。まさにキリストが頭となっておられて、私たちが同じところに立っているその一部であることを見る時に嬉しくなります。
ところで、ずっと心に引っかかっている言葉があり、それは日本において、このことが克服できれば心が楽になるであろう、そして霊的刷新にもつながるだろうと、と思わされる言葉があります。それは「権威」であります。
権威には、牧会者のような霊的権威が与えられている職もあり、また、地上における権威は、妻にとっての夫、子にとっての親、会社における上司、学校の先生、そして納税などの行政機関、警官、そして国とその指導者がいます。クリスチャンにとって、一番身近な牧師という存在から説明します。
キリストの体を船に例えると
ブログ記事でも書いてきましたが、「牧師中心主義」という日本の教会にある課題がある一方で、「卒業信者」という名称ができているほど、教会から離れているという両極端になっている訳です。なぜ、このような二極化が起こるのかと言いますと、「権威」についての理解が、信者のみならず牧者であっても知らず知らずのうちに間違ってしまう、という課題があるからです。こちらのブログがとても分かり易い例えでしょう。
韓国のセウォル号沈没から「船長」「第一操縦士」「船員」「乗客」という言葉がニュース記事に出てきていますが、教会に当てはめると誰が誰になるのか?という例えです。
私が痛感するのは、まず牧者からですが、自分自身が「船長」だと思う事です。これは牧師中心主義の始まりです。しかし、これが「善意」とか「責任感」という、一見、良かれと思われる動機で始まっていきます。神から語られたこと、神から命じられたことに留まることのみが、神への奉仕の全てであるはずなのに、悪い意味で「世話好き」になり、その領域を越えてしまうのです。そして、心や体をすり減らしていき、家庭を壊していくという深刻な問題が出てくる、その危険と隣り合わせであります。
そして、もちろん肉の欲望もあります。これだけ教会が大きくなっているのは私のおかげなのだ、という驕り高ぶりです。これは論外な事ですが、意外に肉が刺激されます。この時はすぐに、「神が行われていることだ」と神に栄光を帰するように戒めます。
しかし船長は牧師ではないのです、「イエス・キリスト」なのです。 「カルバリー・チャペルの特徴」(チャック・スミス著)にはこう書いてあります。「私たちはイエス・キリストを教会のからだの頭として位置づけています。教会はキリストのものです。彼こそがすべての権限を持ち、責任を負っておられるのです。」
では、牧師はここで何を担っているのか?「第一操縦士」であります。続けて同著の続きを引用します。「ですからモーセが神に近づいたように、私たち牧師は、キリストに近づいて主が示す方向性や指導を受け取る必要があります。主が支配しておられることを人々がわかる方法で、私たち牧師は、常日頃からイエスとの接触を頻繁に重ねながら教会を導いていかなければなりません。私たちがそのようにしているなら、たとえ問題が来たとしても「それではその問題のために祈ります。」とか「この件に関して主の知恵を求めてみます。」または「ともに主の導きを探し求めてみましょう。」と言えるのです。」(第2章 教会を治める制度より)
そして、次に長老や執事、役員の問題を取り上げます。(ところで私たちの教会では、長老や執事という名称は使っていません。開拓の段階ですから時期尚早というものもありますし、それ以上に、実質的な「働き」に重きを置いているので、時に名称が邪魔をするので、つけないほうが良いと思っています。)
彼らに起こりがちな問題は、牧師中心主義の場合は、はいはい、と、「イエス・マン」となることです。それは同じ問題、牧師が船長だと思ってしまっているからです。彼が第一操縦士であるならば、上ブログにあるように、自分自身が船長であられるイエス・キリストから共に指示を仰ぎながら、第一操縦士である牧師を尊重して、共に舵取りを運航するわけです。続けて、同著を引用します。「本物の長老はただ「はいはい」と言うイエスマンではありません。しかし彼らは、聖霊に自分に心を明け渡している人でなければなりません。」
その反対に、牧師に対して「彼には、こういう欠けがある。私たちが補わなければいけない。」と思って、自分が正しいことをしようとしたら、どうなるでしょうか?そして第一操縦士と違う方向に舵を切るならば、どうなるでしょうか?破船へと一直線に向かっています。けれども、意外にこのことを教会は行なっていきます。そして分裂という悲惨な状態に至るのです。
そして、会衆の問題に移りますと、船の中で誰になっているでしょうか?そうです、「船員」です。「乗客」ではないのです。全ての者が主に対する祭司ですから、互いに仕え、そして他者に対して仕える、神と人との仲介的働きを担っているのです。自分が神に近づき、神から恵みを受け、それを他者に与えることで恵みを分かち合います。その分かち合いこそが、教会に一致をもたらします。
「船員」ではなく「乗客」だと思っているので、教会をいつまでも自分の外に置き、「この教会は駄目だ。」「あの牧師は」と言っています。「この人がこんなことを私にした。」と、すべて「自分」が中心に回るのです。反対もあります。牧師の説教を、主体的に神から自分が聞くという姿勢ではなく、牧師を聖霊であるかのように持ち上げることです。つまり「この牧師は駄目だ、つまずいた」か、「牧師先生!」あるいは「牧師がこう言っているから」と持ち上げるかの、どちらかになってしまうのです。
権威の所在は神
これらの教会における秩序にある共通の課題は、「誰が権威者なのか?」に付きます。権威は神の所有であり、一人一人に付託されたものです。その所在を付託された者たちにある、とするから処々の問題が起きます。これからは、とても大事な話です。
「神が、牧師を立てておられる。」
という言葉を聞く時に、牧師が自分に対して神の代理者であるように聞いている人が実に多いです。そのようにみなしていくことによって、牧師中心主義や権威主義、酷くなるとカルト化が起こります。その反対に、牧師は神の次に無欠でなければいけないとみなし、欠陥を見る毎に失望し、不満を漏らし、反対し、最後は出ていくのです。そこで私は教会の人々に、次のように話したことがあります。
「神が、ロバを立てておられる。」
実際、バラムの乗っていたロバを主は用いられて、その口を開かれたのですが、神が教会にロバを立ててくださったら、そのロバを通して聖霊が語り、その御声に聞き従うのです。だれも、ロバに権威があるなどと思いません。たまたまそこにロバが置かれているだけであり、けれどもロバに聞かなければ、神から聞くこともできないという、これまた、神の選びにある権威を受け入れるのです。
では「ロバ」を「牧師」に戻してください。たまたま、神は恵みによって牧師をその教会に立てたのです。牧師が中心ではないのです、しかし、神は牧師を通して語るとお決めになったのです。だから、牧師の言うことを聞かないといけない。けれども飽くまでも、「神と自分」という縦軸の中に牧師が存在するのであって、牧師と自分と言う横軸にあるのではありません。
これが分かると、教会は神の教会であるとして、ハレルヤ!と主を喜んで教会に仕えることができ、そこに牧師を置いてくださった神をほめたたえることができるのです。したがって、そこには全き自由があり、かつ指導者に服従するという秩序もあり、平和なのです。
会衆によって完成する説教
ここから分かることは、牧師の説教は聞き手との共同作品であるということです。牧師の説教がすばらしい、そうではないと批評する時に、実はそこに信仰を働かせている自分がいるのです。その説教自体の良し悪し以上に、その説教から聞けるものがあるという期待あるいは信仰があるので、聖霊がその信仰に従って語られるのです。説教をする時に、もちろん話し手に信仰が必要ですが、実は聞き手も積極的に信仰を働かせることによって、慰め、励まし、建徳が与えられ、癒しも受けるのです。
日本の教会が、どうしても武士道的になってしまう、師匠関係になってしまうことを前述しましたが、礼拝の説教も、牧師がその知識を信徒たちに垂れるという構図になりがちです。違います、牧師よりも仮に自分が聖書知識が多くても、聖霊が、預言の言葉として語りかけてくださるので、イエス様から学ぶのです。ゆえに牧師に神の恵みが留まっているとして尊敬できるのです。知識の量でも、素質の優劣でもなく、恵みの賜物の付与なのです。
韓国民謡に「パンソリ」というのがあるのをご存知でしょうか?私は生でその演技を鑑賞したことがありますが、驚きました。日本の民謡は歌い手が聞かせる一方的なものですが、韓国は、相づちを打っていくことによって双方の交流があって、初めてその物語が進行していくのです。歌い手だけでは成り立たず、それを聞いている者たちもいて、パンソリは成り立ちます。(Youtube動画)
黒人の教会では、説教者に対して会衆が「アーメン!」と相づちを打って、それで説教が進行しますね。事実、パンソリのある韓国では、教会では牧師の説教は「アーメン」という相づちで進行していきます。こうして生きた神の交わりを、説教という預言の言葉によって行なっているのです。
癒される者の賜物
私は福音書の中で、いつも不思議に思っていたことがありました。誰かがイエス様に触れる時に、「あなたの信仰があなたを直した(あるいは、救った)のです」という言葉です。そうじゃなくて、イエス様ご自身に力があるから癒されたのでは?と首を傾げることが多かったのですが、そうではないのです。どんなにイエス様に触れても何の変化も起きないのですが、「この方の着物にさえ触れることができれば」という、攻撃的に能動的に信仰を働かせていた人が、その癒しを受け取ることができたのです。
それゆえに、神の御子であられるのですが、人となられたイエス様は、「わたしに触れたから直ったのだ。」と言われずに、「あなたの信仰が、あなたを直したのだ。」と言われたのです。
「癒しの賜物」がコリント第一14章に列挙されていますが、しばしば「あの先生は、癒しの賜物がある」という言葉を聞きます。手を置いて祈ると、多くの人が癒されるというものですが、私はその反対がもっと正しいと思います。つまり、癒しを受けた人に、神の癒しの賜物が与えられたのです。長老たちに祈ってもらいなさいという勧めがヤコブ書にありますが、祈ってもらうことによって癒されるという信仰が働いて、それで癒しの賜物を受けるのです。主体はその仲介する長老たちではなく、癒しを受ける本人です。
キリスト者の自由
だんだん、権威についてお分かりになったでしょうか?ここが非常に大切です。権威に従うとは、自分がその権威に従属しているから従うのではありません。神に従属しているから、従うのです。神に従属しているから、神がその権威を立てられたという理由だけで、従うのです。しかも、積極的に、能動的に従うのです。極端な話、相手が従うなと言っても、神に言われたのだからと言って従うのです。ここまで自由にされているのが、キリスト者の特権なのです。
キリスト者は、あらゆる権威から自由にされています。「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。(ガラテヤ書4:7)」神の子がいかに地位の高いもので、権力のある者であるかは、キリストが神の国を立てられたら、キリストと共にこの世界を共同統治するよう神が召しておられる、と言えばお分かりになると思います。ペテロが、神殿税の徴収に来た人にどう答えるべきか聞いた時に、イエス様は、「子供たちには、その義務がないのです。」と言われました。けれども、つまずかせるといけないから、釣りをして硬貨を魚の口にあるからそれを渡しなさい、と言われました。
権威に反発する時、それは、まだ権威に従属しているからだ、という、神の子どもとしての権利の確信が、実は、信仰の中で希薄だから反発するのです。私たちは教会の牧師のみならず、この世の権威に対して、実にこの国の首相に対しても自由にされています。私たちはいずれ、首相を従わせる、王の王から全権を担わされた行政長官として、キリストより任命を受けるのですから。(牧師の権威の場合は本人は兄弟なので、共に御国を治める聖徒たちですが。)
キリストが神の身分であるにも関わらず、それに固執せず、人の形を取られて、仕える者となられました。そして十字架の死に至るまで仕えられました。同じように、キリストによって呼ばれた私たちは、神の子という大きな権利が与えられているのに、その力を、この地上において、神の下さった権威の下に置くことによって行使します。キリストが、ローマ総督ピラトの判決に、神から来たものとして服したようにです。
そして死に至るまで服されたから、神はキリストを死者の中からよみがえらせ、天に引き上げ、ご自分の右の座に着かせたのです。同じように、私たちがこの世において、神が立てられた権威にいかに服して、仕えるかによって、到来する神の国において、キリストから与えられる支配の領域が決まります。イエス様が語られた、十ミナの例えのように、一ミナから十ミナをもうけた僕に、十の町をイエス様が任されたようになります。
権威に服する者が、最終的には、この世の権威に打ち勝ち、制圧し、余裕をもって支配するのです。
国に対してもそうですし、夫に対しても妻はそうですし、学校では先生に対してそうですし、誰に対してもそうであり、ゆえに全ての人を敬うのです。(1ペテロ2:13‐17)
「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。(1コリント9:19)」
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)」
神への愛、そして人への愛のために、服従し、仕えます。
キリスト教雑誌の編集長との議論
先日、ツイッターで、あるキリスト教雑誌の編集長が、安倍首相のことを下ネタを使ってこきおろしているのを見て、驚いたコメントを置いたところ、ちょっとした議論となりました。彼の返答はこうでした。
「神の被造物である人間の尊厳を踏みにじる行為には、たとえ相手が「権威ある者」であっても「NO!!」というのが私たちの務めと肝に銘じております。」
その他、「世の権威に唯々諾々と付き従っている」とか、権威に対して対抗する発言、そうした類いのリンクが大半になっています。
私は本人に対する返信としてではなく、心から沸々と沸き起こる言葉として連続ツイートをしました。上に書いてあることと内容は重なりますが、掲載します。
「この世の権力に打ち勝つ方法は、この世の権力の下で徹底的に福音に生きることである。イエスがピラトの下す判決を、神から来たものとして、徹底的に服されたように。」
「最後まで僕であったからこそ、神はイエスをよみがえらせ、天に引き上げ、ご自分の右の座に着かせた。キリスト者は、神ゆえに徹底的に服従する者たちである。」
「ローマの権力に反抗したユダヤ人は、紀元70年にエルサレムも神殿も失った。対してキリスト者はローマの迫害を甘んじて受け、ローマを凌駕する力となった。」
「権威はいろいろある。国の権威、夫婦における夫の権威、親子における親の権威、学校における先生の権威、キリストがみなお立てになった。ゆえに服するのだ!」
「服するからこそ、御国が到来する時に、よみがえられた主が世界を支配するのと同じように、この方と共に治め、王となるのである。権威に服することを知っている者が、権威が任されるである。」
「十字架を通らない復活はない。そもそも「復活」とは呼ばない。復活するには死ぬしかないのだ。」
「偽りの福音とは、繁栄にしろ、思想にしろ、「死ぬからこそよみがえる」という原則を無視する者たちだ。」
「なぜ中国には10%ものキリスト者がいるのか?彼らは無神論の共産党に服した。神から来ているものとした。批判しなかった、むしろ執り成した。しかし共産党指導部は、キリスト教の役割を公に認めざるを得なくなるほど教会の力は大きくなった。その愛と奉仕が、政治権力を凌駕したのだ。」
「いつ日本の教会が、多神教の指導勢力を、主なる神から来たものとしたことがあるか?批判しないで執り成したことがあるか?結果、教会の反対声明は、政治権力から無視されているだけなのだ。」
権威に服する生活は、キリストの死を身にまとう生活です。ゆえに、権威に服する生活はそのまま復活の力を得ます。イースターは服従から始まるのです。そこで、愛と奉仕による勝利が与えられ、勝利のみならず、支配までできるのです。
当局もあきらめた釈放
これは、もちろん権威に従属することではありません。服従と従属は違います。つまり、キリストを否めと命じられてそれに従うことではありません。もちろん偶像を拝むことではありません。最後に、中国で実際に起こったことの証しを思い出します。ビデオ「十字架-イエスは中国におられる-」にあった、家の教会の指導者の話です。
確か十年以上も、その人は投獄されていました。それは唯一、主イエス・キリストに対する信仰を否むことでした。それを自白さえすれば、釈放されるのです。しかし、彼は拒みました。あまりにも善良であり、何一つ悪いことをしていないことは、当局が一番知っていました。それで憐れみをかけて、勝手に本人が自白したことを調書に書き、それで釈放することにしたのです。
本人は驚きました。そして、なぜ釈放されるのか問い質したところ、自白したことにされていたのを知り、怒り心頭したのです。その後、彼は何をしたか分かりますか?その刑務所の隣に住む部屋を借りて、ずっとそこに死ぬまで居続けたのです!私は、主イエス・キリストを否んでいないのだから、私はまだ投獄の身にあるのだ、という意思表明のためです。
ここまですると頑固親父にさえ感じますが、彼の投獄は、看守から鎖につながれていたのではないのです、イエス・キリストご自身によって鎖つながれていたのです。これこそ、キリスト者の自由であり、これこそキリスト者の勝利であり、ゆえに世の権力がキリストの告白に屈服したのです!!
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷になりません。なぜなら、神によって生まれた者は、世に打ち勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に打ち勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(1ヨハネ5:3‐5)
下のブログ記事が、とても参考になると思います。
「牧師はえらい」
題名に驚いたかと思います。けれども、「えらい」という意味を本文で説明していますので、ぜひお読みください。
ちなみに例として取り上げられているカトリック教会の人気の神父についてですが、私は少ししか彼の説教を聞いたことがありませんが、基本的に救いは全ての者に与えられる、たとえ信仰を持たずとも救われる意味合いのことを話しているところで、私の救いの理解と根本的に違います。イエスを信じない者は既に神の裁きの中にいます(ヨハネ3:17)。