北海道での伝道集会が、間もなく行われます(北海道・希望のフェスティバル)。フランクリン・グラハムが自分の伝道協会のウェブサイトで大会の直前に、一つエッセイを書いています。そのタイトルは、”Will He Find Us Faithful?”というもので、訳すと「主は私たちを忠実な者であると見られるだろうか?」です。
そこに、一人の残留日本兵の話が出てきます。「小野田寛郎」氏です。今年一月に死去しました。戦争終結から30年後に、フィリピンにおいて投降し、日本に帰還を果たしました。
彼は情報将校として従軍しゲリラ戦を展開します。配置された第八師団の横山静雄陸軍中将、つまり直属の司令官から、こういう訓示を受けていました。「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」の訓示を受けている」
敗戦での混乱の中で、陸軍は小野田氏との連絡系統が途絶えてしまいました。それで30年間、この兵士は戦い続けました。直属の司令官、といってもはるか前に退役した横山氏が任務解除と帰国の命令を出し、そこで彼はフィリピン軍司令官に軍刀を渡して、降伏意思を示した、とのことです。
詳しくは、ウィキペディアの「小野田寛郎」のページをお読みください。
上を読めば、かつては敵国であった米軍も、また小野田氏による戦後の殺戮によって自国民の被害を受けたフィリピン軍も、彼の忠誠心をたたえました。フランクリン氏は、これを例話として、キリストに忠誠を誓う者として我々が生きているか?という問いかけをしている、というのが上のエッセイの内容です。
私は複雑な思いになりました。
忠誠心そのものは、私も高く評価すべきだと思っています。キリスト者があまりにも、イエス・キリストへの忠誠からずれていく、「自分のいのちさえ憎まなければ、わたしの弟子となれない」と言われた主のお言葉をないがしろにしていると思います。しかし、上のウィキペディアのページにある説明を読みながら、私は大きな疑問を抱きました。
小野田氏の忠誠は、なぜ直属の司令官だけになっているのか?
皇族をないがしろにする日本兵
読み進めますと、彼は情報将校としてかなりの情報を収集していました。駐屯している米軍やフィリピン軍の情報も得ていたし、捜索隊が残していった新聞や雑誌を読みました。日本がとっくの昔に敗戦になり、復興して経済的に急成長していること、「皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、昭和39年(1964年)の東京オリンピック、東海道新幹線開業等」の記事も載っています。しかし彼は、それらの情報を「日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権がある」と解釈します。
つまり私の疑問は、「彼は直属の司令官以上に、日本国への忠誠を誓っていたはずではないか?そして皇太子のご成婚の写真まで見ている。」ということです。彼は帰国の際「天皇陛下万歳」と叫んでいます。彼の最高司令官は天皇のはずです。その息子皇太子をも押しのけて、自らの勝手な解釈で直接の訓示に忠実だったのです。
私はここに、日本人の忠誠心の課題を見ます。以前、「権威に対する取り組み」と題するエッセイを記事で書きました。権威は神から来ており、神は人にその権威を委託します。人に従うのですが、あくまでも、とことんまで「主にあって」従うのであり、その人に従属しているのではないのです。
命令系統は遵守しなければなりません。しかし、その頭はキリストであられ、その下にいる者の命令がキリストご自身の命令と相矛盾する時に、私たちは、その直接の命令から手を離し、キリストご自身の命令に従うのです。
聖書の命令に従い、命令の主をないがしろにする
しかし、いつまでも直の命令にしがみつくことが起こります。これは、パリサイ人たちの中で起こっていました。安息日を守ることは神の至上命令です。しかし、彼らはそれを守るための掟をさらに口伝律法によって作り出し、そしてそのことに熱心であるために、本来の主ご自身を忘れていました。主ご自身が現われて、主ご自身が定められた安息日を守られていた時に、それに非常に腹を立て、主ご自身を殺してしまったのです。
これは、直属の訓示に従うために、日本国という最高権威に抗する行動を三十年間行ってきた日本兵とあまり変わりません。
私たちに、神はいろいろな権威を与えておられます。使徒たちの手紙にはそれらの権威に従いなさいと勧められています。まずは兄弟姉妹として互いに仕えます。それぞれがキリストに愛された尊い人々です。そして教会の指導者に従います。家庭では妻が夫に従います。子は親に従います。職場では、上司に部下が従います。市民は、国の指導者や行政機関にも従います。
その中間にある権威を、神から来たものとして従いながら、神がどのように動かれているのか、私たちそれぞれに御霊を与えてくださったのですから、しっかりと御霊の導きに敏感になり、その全体にある調和を見分けていかねばなりません。そうです、「見分け」が必要なのです。そして見分けのためには、霊的成熟が必要です。「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(ヘブル5:14)」
私たちは一度、自分が何に忠誠を誓っているかを確かめないといけません。家庭のこと、教会のこと、職場など、その人間関係において誰に忠誠を持っているか確かめてみましょう。例えば、牧者・聖書教師としての私個人の課題は、例えば教会の群れです。私はチャック・スミスの霊的遺産を継ぐことに忠誠を感じていますし、カルバリーチャペルの群れに忠誠を持っています。ある特定の聖書理解や神学をしっかりと守っています。しかし、イエスご自身が主です。主が御霊によって行われていることに敏感になり、もし仮に、チャック・スミスの行なっていたことが理にかなっていなかったり、今の時代や状況に当てはまらないのであれば、勇気を出して手放す必要があります。自分の特定の聖書理解でさえ、もし聖書はそう言ってはいなかったということが分かれば、その時点で手放す考えを、頭の中の片隅に置いておかねばならぬのです。
牧会においても、目の前の必要はたくさんあります。必要に応えていくことは、聖書にも書いてある命令であります。しかし、その字義に忠実であろうとするあまり、その命令を出された主ご自身の意図しておられることから外れ、御霊によって何を語っておられるかをないがしろにしてはならないのです。
誰に仕えているのか?主イエス・キリストご自身です。
私たちが周りにある人々に忠誠を尽くしていながら、いとも簡単にキリストご自身の命令をないがしろにしていることが多々あります。人々のことは気にするのに、なぜ主イエスが語られたことは気にしないのか?私はしばしば言いますが、「主が大したことはない、と思われていることにくよくよして、自分があまり気にしていないことを、実は主は深刻に考えておられる。」ということがよくあるのです。
そして、なぜ中間の権威に忠誠を尽くせるのに、主ご自身を忘れてしまうのかと言いますと、根っこは「自分のいのち」です。イエスは、「自分のいのちさえ憎む」と私たちに命じられています。主に仕えているはずだったのが、そうではないところに逸れていってしまうのは、自分のいのち、あるいは自分の義、あるいは自分のプライド(自尊心)を持ったまま仕えているからです。それで、神の名を使いながら、神の命じたことと反することを行なってしまっているのです。
フランクリンが小野田将校を例に出してくれたことによって、私はかえって反面教師として学ぶことができました。その忠誠はすばらしい、しかし絶えず、元々、誰に忠誠を誓っていたのかを思い出す必要があります。
フランクリン氏は、米国の右翼思想家で、軍国主義、国家主義、反イスラム教徒の立場なので、上官に忠実な兵士の姿を喜んで例に出すのだと思います。そういう人と協力していいのでしょうか。
私はそのようには思いません。フランクリン氏のみならず、福音のためならば兵士とも関わられたイエス様ご自身がおられます。下の記事にフランクリン氏のことを書いています。
等身大で見るキリスト者