「美味しんぼの鼻血」から学ぶ教訓

私たちの教会は、創世記から順番に学ぶ聖書通読による説教で礼拝を捧げています。今はヨブ記です。ある意味、教会こぞって、私たちの生きていることについて深く考えているのではないかと思います。

「矛盾」にある真理

考えさせられていることの一つは、自分の知識と現実の乖離です。現実は私たちが考えているように単純ではないということです。私たちは物事を自分の理解、把握の中に入れたいので、それに収まり切れない現実に原因を見出そうとし、責め立てていきます。しかし現実、いや神の真実自体が、人間には”矛盾”している真理を孕んでいることを知る必要があります。

美味しんぼの「鼻血」最近の時事問題で、「美味しんぼの鼻血」がありましたね。放射能によって鼻血が出てきたと描いた漫画美味しんぼについて、福島県当地から風評被害として抗議があっただけでなく、津波で被災した県からの廃棄物処理についても健康被害を受けたとする記述もあったために、大阪市からも抗議があり、ついには政府(環境大臣)までが苦情を述べ、公式の見解を環境省のホームページにも載せる、というところまで発展しました。そして、美味しんぼはビックコミックスピリッツから休載ということになりました。

この件について、次の記事が私を激しく頷かせました。私はこれまで、マスコミ全般に対して批判的でありましたが、マスコミの中にいる方々が通っていることを想像しながら書いた記事であり、これまでの姿勢を少し反省しました。ここ数年でマスコミによる報道がセンセーショナルにしてしまっているのは、私たち読者たちの読解力不足が一因であることを教えています。

鼻血を出した「美味しんぼ」の取り締まりは大間違い
福島に勤務する内科医が見たジャーナリズムの本質

この女医の方が書かれた文章は、一見矛盾しているのです。つまり、「鼻血漫画は罵倒したい気持ちがある。」けれども「「自主規制」は恐ろしい結果になる。」とのことです。彼女は、現実は単純ではなく二面性があると主張しています。だから、どちら側からも叩かれるそうです。そして、単純化された報道、分かり易い報道によって失われるものがある、という指摘は、まさにヨブ記の話につながる面があります。

私がかなり前に書いたクリスチャンのマスコミに対する批判は、今では違った視点で書き直さなければいけないと思っていますが、問題点は同じです。

クリスチャンのマスコミ 2002/05/19

ホームスクーリング運動にしても、メシアニック運動にしても、文脈があってこそキリストの御体の中で生かされるのですが、独り歩きしてしまっている傾向があります。弱い部分を知った上で関わるのではなく、それこそが唯一の正しい物差しとして、本来の目的から離れてしまうのです。そのためにアンチになる人もいれば、それにのめり込む人もいるという二極化が起こります。真実はどちらも正しいのです。しかし、どちらも間違っているのです。ヨブ記が描いている「矛盾にある神の真実」なのです。

「善意」の中にある悪

そして、この記者が引用している最後の文章が度肝を抜きました。一言でまとめると「善意の中にある悪」です。”善意”の中に「悪」?と思われるかもしれません。上の「美味しんぼ鼻血」記事について、私がフェイスブックで書いた記事をご紹介します。(一部変えました)

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報道の自由の無さは、特定秘密保護であるとか、政府の圧力や隠蔽であるとか言われるが、こちらのほうが実際に近いと思う。真偽を見分けるリテラシーの低下が自由な報道を妨げている、という指摘だ。マスコミの報道は情報を集める手段であるが、頼るべき存在ではない。政府も同じだ。原発事故後に「政府が信じられなくなった」という言葉を多く聞いたが、逆に私は、「政府をそんなに信じてたの?」と驚いた。神ではないものに頼り安心感を得る体質、神ではないものに神のような高い倫理観をぶつける体質、これが社会の安定した日本にできてしまったもので、いろいろな病巣を生み出しているような気がする。

したがって、政府内にしても、マスコミにしても、また企業にしても、責任を持つ者が、その職務において「これをやらないといけない」という使命感に突き動かされるのではなく、国民やの期待に応えるべく調整していく。善意という覆いは着けているが、何を言われるか分からないという恐れによって萎縮している。だから”真面目”なのだが、人に活力や命を失わせていくのだ。”善意”という歯車が、全体を破壊していくという悪循環に陥っている。

最後の言葉が意外だった。あの共産主義の父祖マルクスが言った言葉だそうだ。

地獄への道は善き意図で舗装されている

(注:しかし調べると、オリジナルは12世紀のフランス出身の神学者クレルヴォーのベルナルドゥスの言葉で、「地獄は良い意思や望みで満ち溢れている」というものだということ。)

話の内容は変わるが、健全な教えからの逸脱や、異端はそのほとんどが”善意”から始まっている。エホバの証人の創始者チャールズ・ラッセルの説明を読んでいただければ、いかに今の逸脱した教えや動きと類似しているかが驚くほどである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/チャールズ・テイズ・ラッセル

彼は地獄の教理の強調は神の善や愛に反する、再臨においては裁きではなく祝福だ、という、積極面、肯定的側面を強調したいという強い動機と情熱から、諸々の異端の教理を作り出した。なんと、今日はびこっている「新しい福音」の背後にある動機に類似していることか!

これまで、日本に入ってきている逸脱した教えを広めている人たちを眺めると、実に真面目な方々が多い。だから、その誠実さによって「これ、違うんじゃないの?」と言いにくくなる。「彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。(ローマ16:18)」は真実な言葉なのだ。

私たちは、常に鳩のように優しさを保っていなければいけない。どんな人に対しても、恵みとへりくだりを持って接しないといけない。しかし、蛇のようなさ狡猾さ、主から与えられたあらゆる霊的識別力と、御言葉に拠る成熟による善悪の判断によって、これらの偽りの教えを見分けなければいけないのだ。
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上に引用している「地獄への道は善き意図で舗装」という言葉は、本当に強烈でした。今、恵比寿バイブルスタディでルカによる福音書を読んでいますが、今の日本社会の中にパリサイ派や律法学者がいれば、逆に彼らの方が善人であり、いかにも「クリスチャンらしい」人たちであったと感じています。善を求める人々、正義を求める人々の中にある欺瞞が、完全な義であられるキリストによって炙り出されているのが、福音書なのではないかと感じています。

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