前記事「牧師夫人を愛する」で予告していた記事について紹介します。
牧師が公に認めたくない十の事
10 Things Pastors Hate To Admit Publicly
1.あなたが教会を離れる時、個人的に受けとめます。
2.週ごとに何かしなければいけないと駆り立てられます。
3.教会奉仕から自分の価値を見つけようとしてしまいます。
4.辞めようかと日頃から考えています。
5.透明だと言っていますが、実際はオブラートに包んでいます。
6.教会の人数によって自分を推し量っています。
7.励まされるより落胆することに多くの時間を割いています。
8.あなたが何を考えているかについて、心配しています。
9.競争や妬みに悩んでいます。
10.あなたを手助けしたと感じるよりも、失敗させてしまったと感じています。
以上のことは、この筆者の牧師さんは、いわゆる教会成長論が浸透している米国キリスト教会の中で、自分の心の内の弱さを有体に話しているものです。そしてこれらのことを明かした目的をこのように告げています。
・教会が、牧師が受けている挑戦を理解することで、もっと祈るように。
・実に多くの牧師が、自分の恐れ、傷、葛藤があるにも関わらず仕事に取り組んでいることに、倍の感謝を教会ができるように。
・教会の人々が、その指導者の魂の深みに沈む込むようなことに関わる前に、再考することができるように。
私自身のことを考えますと、基本的にアメリカにあるような教会成長の背景があまりないので、そのような心理的圧力は受けていません。大海原のように福音を知らない世界が広がっているので、教会間の競争の誘惑はアメリカよりは少ないと思います。けれども、違った意味で挑戦を受けています。
1.についてですが、基本的に教会の人々には魂を込めています。単なる訪問ではなく教会につながろうとしていく人には、その通りです。そこには一種の情感が伴います。それは顔を見る毎に、抱きしめてあげたいというような思いです。
そして、いかにキリストご自身にその人を導き、この方のうちに建て上げられるのはどうすればよいかという情熱が生まれます。そして遅々として進んでいないように見える時に、内で悶えているし、時には落ち込んでいるし、けれども一歩だけでも御言葉に従っている姿を見ると、「主よ、私はしもべとして行ないました。」という、イエス様に対して報告するような思いになります。
以前は人が去るとがっかりしていましたが、この頃は「その人が教会に合っていなかったのだろう、仕方がない。」という思いに変わっています。ただ、私たちの教会に合っていなかったというよりも、どこの教会にもきちんとつながれないのではないかという心配もある時にはします。
2.については日曜日は毎回、戦いです。人が多くなれば、それだけ各人にかける時間が少なくなってしまいます。説教をした後で、どこまで声をかけてあげられるか、祈ってあげられるか、相談にのってあげることができるのか、そわそわしている自分がいます。自分を二等分、三等分して切り分けて、同時に奉仕したい思いにもなります。
ですから、自分に代わって互いに励まし、慰め、祈り、助言を与えることができるよう、整えてあげなければいけないと思いつつも、その時間を取ってあげられていないという焦りがあります。
3.についてはありますね。主が豊かに祝福してくださったら、むしろあります。ちょうどエリヤがバアルとの対決の後で落ち込んだような、あの思いです。何もしなくても主との交わりがあって満足しなければいけないことが分かっていても、目に見えることがどんどん起こりますと、それで心が疲れてしまうのでしょう。これではいけないな、とよく思います。
4.については、腹を括ったので辞めるという選択肢は今のところ誘惑になっていません。教会を始める以前はものすごくありましたね、自信喪失でした。
5.は、あります!なるべく正直になろう、自分の弱さを兄弟たちにも知ってもらおうとしていますが、すべてを明かしている訳ではありません。
6.は、違った意味であります。まるで自分が出席数を数えている学校の先生のようになっているみたいで、嫌になることが時々あります。それは、人数が多いことを誇りたいというよりも、顔を見ることでほっとするところがあるからです。心配しているお母さんみたいな気持ちかな?
7.については、基本的にそうです。先に話したように、主が働いてくださったことを見ると、なぜか、理由もなく落ち込むことがあります。
8.については、正直ありますね。一番大きい誘惑は、1.にある「魂を込めている」人々にはっきり言ったら、辛くなってしまうだろうなという恐れが出てきます。
9.については、どうだろうか?カルバリーチャペルの仲間にいるから、守られているのかもしれません。友達感覚や家族の感覚でいればいるほど守られているような気がします。
10.については、あります、あります!「きちんと導けてなくて、ごめんなさい」という気持ちがあります。もちろん本人と神との関係だから、というのは分かっているのですが、やはり申し訳なくなります。
こんな感じです。「しょうもないな」ということは分かっているのですが、感情として出てきます。そうした感情が、蚊が飛ぶようにうるさいなと思いながら、信仰で払いながら一歩、一歩進んでいます。
他の牧師たちも、それぞれのストーリーがあると思います。牧師夫人の時に話しましたが、最もできる愛の行為は、祈りです。たくさん祈られている牧師は幸せです。執り成して祈ったら、すぐに手ごたえがあることが分かりますよ。牧師が元気であれば、教会全体が元気になるので、自分に帰ってきますから。