「牧師夫人を愛する」「牧師の告白する弱さ」に関連して、またもや自分自身にも関わる話ばかりで申し訳ないなあと思いつつ、書きとめます。今、キリスト教書店に行けば、積み上がっている本がありまして、藤掛明先生と言う臨床心理士による以下の本が売られています。
ちょっと長く信仰生活を送られている方は、日本また世界にある、精神医療や心理学とキリスト教との関わりにおいて、その変遷をご存知であろうと思います。この多元化した社会の中で、キリスト教会が福音宣教をしていく時に、それを聞いていく人々に、精神的な病あるいはその傾向がある人々が急増していきました。
その必要に応えるべく、牧者や教会関係者たちも精神医療や心理学の知識が必要であるという考えが始まりました。しかし、それがあたかも福音に代わるものとして受け入れられてきた時期(1980-90年代)があり、それは今も続いていると思います。「表層的な理解に基づくカウンセリングの技法を活用しようとして、うまくいかない事例も多く見られる」「カウンセリングに過剰な期待感があるのも事実」(本書10頁)という傾向がかなり強いです。下のブログシリーズにもその傾向、すなわち「心理学的信仰」が一世風靡したことが言及されています。
秋葉原無差別殺傷事件-自己愛の果てに 「聖書は何と言っているのか?」
私が1990年代にアメリカの教会にいて、受けていた牧会教育は「聖書カウンセリング」というものでした。そのような信仰の心理学化に対抗するものとして、処々の心の問題に対して、聖書の言葉のみでカウンセリングをしていくというものです。そして「自分を愛する」のではなく、むしろ「自分を捨てる(自己対峙)」ことによって解放されるという考えに基づいています。今でも、基本的な姿勢はこの考えに基づいています。
Biblical Counseling Foundation
しかし、そうした精神医療や心理学に対抗する兆候は反動も出てきました。鬱は不信仰の現われであるとか、薬物治療も不信仰だという考えが出てきました。確かに、現代の精神医療は問題や課題は多く指摘されており、これが万能ではないし、救いではありません。しかし、大きな怪我をしてその場で祈って、病院に行かせないことが神の御心でないのと同じように、治療を受けることが神によって用いられるのです。(このことについては、今、ブライアン・ブローダソンによるブログ記事「教会と精神的病」を紹介準備中です。)
このように、振り子のようにしてキリスト者の間では、この領域で賛否両論があります。その中で上に紹介した本書は、「過剰な期待」と「全面否定」の間に立つ慎重な姿勢で取り組むと、非常に有益な情報を提供してくれました。事実、初めのところに、あるクリスチャン精神科医師がこう例えを書いてくれています。
「それは、大海で溺れる人と浮き輪の例えである。浮き輪は神から提供されている救いである。人はこの浮き輪なしには溺れ死ぬ。だからこの浮き輪にしがみつくことが唯一の救いとなる。しかし、なかには、筋肉が麻痺していて、なかなかうまくしがみつけないような場合がある。そのときに、腕のマッサージをして浮き輪にしがみつきやすくするのがカウンセリングである」(10頁)
この「筋肉マッサージ」の位置づけが、私には一番すっきりしました。
本題:牧会者の友情関係
前置きが長くなりましたが、この著者は、牧会者が行なうカウンセリングの手助けをするのみならず、牧会者本人たちへのカウンセリングも行なっている方です。ブログがありますが、このような記事がありました。
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「信徒がかかわる、牧師のメンタルヘルス」
1 信徒の自由と責任が増す時代
現代では、牧師は、ある意味分断され、孤立させられている。老練牧師から若手牧師への世代的な知恵の継承もままならないし、また、個々の牧師の横のネットワークや友情関係もままならない場合が多くあるように思える。
一方で、信徒は飛躍的に自由と責任を得るようになっている。ネットを通して、瞬時、自在に、出席教会以外の超教派プログラム、多様な宗教書、ブログの意見など広範な情報に接することができ、信徒の持つ情報量が、牧師のそれと差がなくなりつつある。横のネットワークを得たいと願えば、いくらでも教会の外での交わりが保障され、すこし誇張すれば教会や牧師を選ぶことさえできるようになったと言えなくもない。このような変化のなか、個々の所属教会の意味が薄らぎかねない。しかし、忘れてはならないのは、信徒は交わりを広げていくことや、意見を広く主張することの特権を得たと同時に、だからこそ個々の教会を形作り、牧師を支えていくという点で大きな責任も担うようになっているということだ。今ほど信徒の責任が増している時代はないと感じさせられている。
2 今、起こっている牧師の燃え尽きの実際
(1)第一類型「教会の覇権争い」による疲弊。これは、教会のリーダーシップをめぐって、役員や信徒と対立してしまい、牧師が疲弊することをさす。信徒としては、聖書的価値観に沿い、牧師のリーダーシップ(伸びしろも含め)をいかに尊重し、従い、また援助していけるのかが問われているのだと思う。
(2)第二類型「信徒のお世話役」による疲弊。これは、信徒のリクエストにこたえるためにあくせくしてしまい、牧師が疲弊することをさす。信徒が牧師の下、いかに奉仕を担うのか、その奉仕観が問われているのだと思う。
(3)第三類型「牧師自身の資質の問題」による疲弊。これは、牧師個人の性格や心の傷、家族関係などが今の牧会に影を落とし、牧師が疲弊していることをさす。信徒としては、積極的な意味で、牧師の自己研鑽を推奨し、また牧師が他の専門家の援助が必要になったときにはそれを支援する心構えが問われているのだと思う。
3 信徒として教会としてできる第一歩
指導者は、私的な友情や絆をもたなければ、孤独な状況のなかで、いずれ支配的(覇権争い)になるか、従属的(お世話役)になる。だから、私たちは、牧師のために祈るにしろ、言葉をかけるにしろ、また様々な提言をするにしろ、その牧師が孤独な状況に追い込まれる(追い込まれている)かもしれないと絶えず意識しておくことがまず肝心だと思う。
また、教会として、牧師の研修参加を積極的に支援することは大切なポイントだと思っている。牧師が私的な友情を得るためのプログラムがあるわけではない。ただ教会の外の牧師向けプログラムに参加してもらうことで、結果的に息抜きの機会となるだけでなく、視野を広げたり、同業者との横の情報や連帯を味わう機会になるからである。
(以上、http://fujikake.jugem.jp/?eid=3966等から)
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この記事を引用したのは、今、信者の方々にこうしてほしいと要求しているのでもなく、ましてや私たちの教会の兄弟姉妹に訴えていることでもありません。教会の兄弟姉妹は、本当にしっかり主に従っておられると思います。決して私に従っているのではなく、だからといって私に反発しているのでもなく、もちろん個々人が課題を感じて、もっと主を求めなければと思っておられるでしょうが、教会を愛し、その頭なるキリストを愛しておられる人々です。私は、彼らと共に一緒にいる兄弟の一人です。
牧者たちの間にある絆
むしろ、牧会者には「私的な友情や絆」がいかに大切かを伝えたい、そして私個人はこの絆に恵まれているということを分かち合いたくて、お話ししています。
私がこのブログ上でしばしば、カルバリーチャペルの仲間のことを書きます。チャック・スミスのこともたくさん書きます。しかしこれは、決してカルバリーチャペルが優れているとか、チャック・スミスをあがめているとか、そういうことではありません。上のブログに指摘されている、弱さも明かすことのできるような横のつながり、私情も語ることのできる付き合いであります。霊的な守りと救いのために必要なのです。
私たちは2000年初頭から、毎年一月に開かれる宣教会議に出席しました。初めは、少し不安でした。日本において救われる魂が極少の中で劣等感を募らせるのではないかと思ったのですが、初めに参加した時の初頭のメッセージは、コリント第二であり、第一章をチャックが受け持ち、「苦しみにある慰め」を語り始めました。私は非常に驚きました。自分たちが宣教地でいかに成功したかという結果を報告する必要はなく、むしろ苦闘の中にいることを前提に慰めを与えること、宣教師たちに仕えることが主催者の主旨だったのです。
この時に、私はむしろ力を得ました。日本だけが宣教に困難なところではないことを悟りました。逆に言うと、聖霊の力強い働きは日本という文脈の中でも起こり得る、いや起こっているのだという認識に立てました。新たな宣教の手法を習うわけでもなく、もっぱらこうした神の恵みに浴することが会議の主旨であり、それが私たち夫婦を支えていると言っても過言ではありません。
そして、日本という現場では、カルバリーチャペルの仲間がいます。大きな集まりは年に二度あります。五月の日本カルバリーチャペル・カンファレンスがあり、十一月初頭には、牧者・宣教者の修養会があります。そこで行われるのは、「礼拝と御言葉の教え、そして何よりも交わり」です。自分たちは家族なのだ、だから受け入れられているのが前提、というもので、自分がいかにできているかを誇示しなくてよいのです。
それから、東京近辺の人々は、毎週早朝にファミレスでデボーションの時間があります。午前六時開始なので、私は体力的に毎週は出られませんが、なるべく行くようにしています。ゆっくりできる時なので、「こんなゆっくりしていいものなのか。」と一番初めは思ったものですが、いいや、ゆっくりしてどんな話題でも話して良いというゆとりこそが、神の求めておられることなのだと悟りました。
この交わりがあるので、何かある時は祈りあうことができるし、助け合うことができます。互いに知れば知るほど、主にあって励まし、ある時は戒めることができます。鉄が鉄を研ぐように、友もそうなのだという箴言の言葉通りのことができます。
その他にも、私は自身宣教者ということもあり、韓国や中国の兄弟姉妹とも付き合いがあることはとても助けになっています。私にとって息抜きは、ディスニーランドに行くことでも、沖縄の海に入ることでもなく、「友情の中で主の慰めを得る」ことかな?と思っています。