とても読み応えのある連載記事がありました。
第一弾も読みましたが、第二弾「いま靖国から」は特に注目しました。次に問いかけに目が留まり、すべての記事を読み、果たしてその通りだと思いました。(注:記事を全て読むには会員登録をする必要がありますが、無料です。)
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「靖国」を支える今の空気は、靖国史観・戦前回帰・軍国主義といった視点ではとらえられないのではないか。21世紀の日本に新たな回路が根を張りつつある。その現場を歩いた。
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しっかりとした取材をしています。最近の神社や靖国回帰は、単なる右傾化では済まされない、八十年代以降の日本人の自信の喪失を補完するものであるという指摘ですが、今の日本人の深いところに流れているものを汲み取ったのではないかと感じています。ですから、この流れを単に批判で終わらせては、私たちがこの地に置かれている教会の使命、地の塩としての使命を全うしていないのではないかと思いました。
知識人に見下げられた人たち
教会や、聖書を教える現場において、以前、新興宗教を回ったことのある方々がおられます。また、自己啓発系のものに関わった方もいます。マスコミは大方こうしたものを見下げ、変種のものとして報道をしています。そして、知的活動に対しての報道をもっと多くします。いわゆる「リベラル」に偏っています。元々マスコミは、言論を仕事にしていますからある程度、仕方がありません。
しかし教会という現場にいますと、人間というのは知性では決して収まらない生活と現実があり、学校の教育やマスコミでは取り扱わないその現実に直接語りかける存在が必要であることが見えてきます。それが一部の人々には宗教だということです。そして、この毎日新聞の連載で優れているのは、最近は、新興ではなく既存の宗教に回帰していく、一般市民の精神的流れを浮かび上がらせていることです。すなわち「神社」です。
ある方が、この記事に書かれている内容に関連して、このような意見を言われていました。「日本の福音派キリスト教会は、政治的に批判はすれど、実際に右翼系の方々にどうやって伝道しているかが伝わってこないですね。きっとそういうクリスチャンもいらっしゃるのでしょうが、靖国に反対するのはいいとして、それならどうして神主さんや日本遺族会の方々と人間関係を築いて伝道しないのかな、・・右翼系の方っていろんな意味で信仰心があるので、むしろ宗教談義とか話しやすいのでは、と思いますが。」
私が、自分のブログで多くの記事を書いている原動力も、ここにあるように思えます。今日のキリスト教会が政治化しています。福音的立場から私も、神社参拝は偶像礼拝だとみなしていますし、靖国も反対ですが、それを前面に出してどうするのでしょうか?まず、その時点で福音に立脚していません。そして、右翼系の人たちも福音を必要としているのです。むしろ、近づくことのほうがイエス様の宣教ではなのではないか?と思うのです。ユダヤ人に嫌われているサマリヤ人の女に近づかれ、また取税人などと食事をされるイエス様が、私たちの内に見えているでしょうか。
極端に振れてしまった人
かつて、「キリスト教と天皇(制)」という題名の公開討論会が、行なわれました。私も参加していました。笹井大庸氏は、元右翼の方で「天皇制を否定してきたから宣教が進まなかったのだ」という立場を取っていました。私は全く違うと思っていましたし、今でもそうです。天皇制を受け入れれば宣教が広がるという発想自体、方法論による教会成長の考えと全く変わりません。そして神社は明らかに宗教であり、自然崇拝という、聖書に出てくる数多くの異邦人による偶像礼拝と変わらないと思っています。
しかし、笹井氏がそのような意見を出してしまう背景は、よく理解できるのです。キリスト教会が福音主義に立たずイデオロギーに偏っているので、そこから締め出されている人々のことを思って、対抗して出してきた考えだと思うからです。(こちらに興味深い記事があります。保守系の人たちに伝道どころか、対話さえできないエリート的、閉鎖的空間を垣間見ることができます。)
このように言っている私ですが、恥ずかしいことに、神主さんやお坊さんと親交を深めたり、キリスト教の弁証をすべきだと思うのですが、できていません。そして一般の人々にある、心の奥深いところにある求めに、どのように答えていけばよいのかを考えさせられます。
異なる福音
そしてこの連載記事に、某牧師、兼、ミュージシャンの活動が出ています。(6月10日から6月13日までの記事。)私は、彼に対する評価は笹井氏のそれと似ています。アーティストとして、日本の心の襞になっている部分を上手に汲み取っていると思います。また「和製ゴスペル」という言葉は、今のゴスペル・ブームと神道の流れを合体させた、ユニークな手法であると思います。しかし、それはあくまでも、文化的、心理学的手法としての評価です。福音宣教の観点では、霊的意義はほとんどないです。以下に、以前書いた記事が関連しているので、ご参考にしてください。
他に、牧師による以下のブログ記事があります。
命と性の日記~日々是命、日々是性
「毎日新聞の連載「戦後70年に向けて:いま靖国から」にI師のバンドが」
「日ユ同祖論について知っておくべき歴史的事実」
久保木牧師のきらきら探訪~ゆるりと生きる~
「とある和製ゴスペルバンドの奉納を知って思ったこと」
「I著『明けない夜はない』を読む」
彼の伝えているゴスペルが、聖書の語っているキリストの福音と異質であることは明らかです。単なる文化・芸術活動とみなしたほうがもっと自然でしょう。しかし、殊更に批判をしても、あまり益にならないと思います。むしろ教会が、日本にいるこうした人々にどこまで届いていたのか?という自問をしたいのです。その届いていないところに異なる福音をもって届いている姿を見て、自分自身がキリストによって人々の心に届いていないことを悔いるのです。
大衆に届く福音を
やはり「単純な信仰のススメ」で書きました、古屋安雄教授の言葉が私には大きな課題としてのしかかっています。
「日本のキリスト教はインテリのキリスト教となっていて、大衆の方を向いていない、日本にキリスト教が広まるためには、インテリ的というエリート意識を捨てて大衆の方を向かなければならない・・」
日本に、かつての賀川豊彦、また三浦綾子のような存在、つまり、大衆の中に入り、教会内のみならず教会外でもよく知られ、なおそれがキリストを信じ、動かされているからそうなっている姿であります。福音の性質を変えてブレイクスルー(突破)するのではなく、むしろキリストを本気で信じて、イエス様が言われたように行ないたいから、その突き動かされた行動が人々の心にまで深く浸透していくのです。