怒る者から、執り成す者へ

二週間、日本を離れていたのですが、戻って来たらイスラエルのガザ空爆のことで、賑わっているので驚きました。驚いたのは、その空爆ではなく、いつもはイスラエルとパレスチナの関係に無関心な日本人が、空爆の画像を見て「戦争はいけない」と口角泡を飛ばしていることです。以前、ネタニヤフ首相来日に無関心の日本の非常識をブログに書きました が、全く対照的な反応なのです。はたまたイスラエルの行動を擁護する少数の人々は、自衛隊派遣の正統性を補強するために語っているという・・。いつまでも限りなく内向きな姿にむしろ、現地の戦争よりも深刻な問題を感じます。

平和を掲げながらの戦争準備

私はその海外において、そこにいるクリスチャンたちに、マスコミ情報が国の思惑とも相働いて、その心が戦争の準備をさせていること、そのようにして悪魔が巧妙に働いていることをお話ししました。皆が日本の集団自衛権の是非を論じていますが、既に戦争は心の中で始まっているのです。マスコミのごく一部の見方によって心の中に、じわじわと漠然とした偏見が沁みこんでいます。

そして、いざ国が戦争行為を出動させる時、国民の支持が得られる必要があるのですが、長いことマスコミで操作された情報を受けていたので、容易に支持するようになるのです。これが戦争のからくりです。戦争反対あるいは支持を掲げる前に、自分が果たして公平に、冷静に状況を分析しているのか、知らないでやみくもに主張していやいないか、吟味する必要があります。

例えば私の身近には、中国人や韓国人の兄弟姉妹がいます。日本在住の中国人の方々には、いつも「私は中国が大好きです。」と話します。そうすると彼らは安心するのです。なぜなら、日本のマスコミからは、中国の悪いことばかり報道されているからです。けれども、彼らは政府がどうしたかによって、変わる訳ではありません。

日本の人たちは、中国や韓国が日本を誤解している、ごく一部の極端な人たちの意見を過大に報道して、反日感情を煽っていると思っていますね。事実その通りのことをしていると思います。しかし、実は全く同じことを日本のマスコミも中韓に対して行なっているのです。中国にも韓国にも、たくさん良いところがある。そして良い人々もたくさんいる。さらにキリスト者には、民族性が聖められて神の栄光を表す、神の賜物として生かされます。韓国と中国のキリスト教の歴史、特にその霊的復興の経緯を知ることは、私たちの霊に徳を与えます。

そうしたものを知るには、意識して関心を示し、何らかの形で関わり、生身の、日常の彼らを知らなければいけない。しかしそれをしない。これは無関心という罪です。そしていざ彼らの国についての報道がなされると、それで心が刺激され、漠然とした偏見を生身の彼らに向けるのです。「正義感」という仮面を被った怒りを積み上げているのです。

空爆の背後にある深い事情

今回のイスラエルのガザ地区に対する軍事作戦についても、同じであります。このことについては、六日戦争以後のイスラエルとエジプトの関係にさかのぼらないと分からない、深みを持っています。そして、9年前にイスラエルが撤退したところに発端があり、また、イスラム原理主義の拡がりと加速化という潮流を見ないと分かりません。そして、一枚岩では語れないパレスチナの内情も知る必要があるでしょう。私は、ガザ撤退という当時のシャロン首相の決断が、イスラエルとしては勇気ある、高貴なものであったのでありますが、もっと大きな紛争の種を作ると懸念していましたが、果たしてその通りになりました。

悲惨なガザ地区の様子 2014.7.13」(オリーブ山便り)

イスラエルを見てきている者としては当たり前になっていますが、ハマスは「人間の盾」という戦術を使っています。つまり、武器やミサイル発射台を学校や病院、モスクの地下に潜らせて、そこからイスラエル領域内に発射しているということです。さらに、そのミサイルは、イスラエルの一般市民殺傷が目的です。こちらのビデオをどうぞ、ガザ市民のハマスへの怒りが表れている、貴重な映像です。

イスラエルは民主的国家ですから、合法的防衛手段を取っています。つまり、攻撃する前にガザの一般市民に退避するよう呼びかけること、そしてピンポイントで攻撃しているため、その破壊力は凄まじいのですが、隣の民家は無傷であったりします。そして、「鉄のドーム」という迎撃ミサイル・システムは、ガザからのミサイル攻撃の90%を打ち落とすということで、かなりの安全が保障されています。しかしそれでも、人間の盾という非対称の戦争はイスラエルのアキレス腱になっていて、イスラエル軍が退避を呼びかけてもハマスが逃げるなと命じるので、そのままいる民間人が死傷します。それが一気に世界に写真や映像が流れ、とてつもない圧力となって返ってくるのです。

さらに、周辺アラブ諸国やパレスチナのファタハはどう考えているのか?こちらが大変役に立ちます。

「息をひそめる隣人たち」

イスラエルのしていることを、実は喜んでいるのです。ここら辺の複雑な事情(つまり、面子と仲間争いという内情)を察知できる人は、かなりの中東通です。

上の番組は、現地のアラブ語の放送をそのまま流しているものです。発言者は、アラブ語紙の元編集長。アラブ連盟が、なぜ会合を延期させているのか、それはイスラエルにハマスを除去してほしいと思っているからだ、と公言しています。

純粋であるがゆえの邪悪な心

私個人は、パレスチナの人たちには好感を持っています。実際、アラブ人のほうがユダヤ人よりも付き合いやすいのではないかと思うぐらいです。そして極端な話、ハマスの人たちのこともイスラムに対する傾注には、感心さえ抱きます。かつてブラザー・アンドリューの”Light Force“における、福音に対する彼らの敬意を読んだからだと思います。しかし、人間には純粋さまでが、悪魔の唆しと肉によって、最も邪悪なことをする原因にさえなるのです。

ハマスにある邪悪さは、私たちの心の中にある「正義感にある悪」にもあるとは言えないでしょうか?それが私が冒頭で話した、「現場の戦争よりも深刻」といった理由です。むしろ彼らの方が、戦争が日常化したところから生まれる強かさがあって、冷静さを保っています。何も知らず、外部者が善悪二元論で語っていることに私は異常さを感じるのです。(参照ブログ

キリスト者は善悪を判断せず、執り成そう

キリスト者は、ここで戦争反対を唱えるべきか?いいえ、平和を祈り、執り成すべきです。イスラエルとパレスチナにいる、それぞれユダヤ人とアラブ人のクリスチャンは、このように互いのために祈っています。次の記事が、私は最も福音的で、平和を求める真実の姿であると感じました。多くを教えられます。

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エルサレムの講壇から 2014.7.13

エルサレムもミサイル攻撃の下にあるが、今日安息日は午前中、サイレンも鳴らず、エルサレムアッセンブリーはじめ、各地のメシアニックの教会では、いつものように礼拝することができた。エルサレムアッセンブリーの今日の出席者は300人ほど。

礼拝前に、メノー牧師が、もしサイレンが鳴ったときはどうするかの指示をおもしろおかしく語った。こうした場合、恐れておたおたする人が、一番、周囲の人間にとって危険なのだとか。サイレンがなったら”Be Happy”というのが第一の指示だった。

命の長さは主が決めておられる。私たちはそれを長くも短くもできない。だから慌てる必要はないと教える。

<モーセのとりなし>

メノー牧師は、今回、イスラエル人が、町で「アラブ人を殺せ」「ガザをけちらしてしまえ」といった会話が普通に交わされていると、非常に懸念していた。

創世記18章には、モーセがソドムとゴモラを破壊しようとしている主の前にとりなしたことが書かれている。

モーセ(注:アブラハムの間違いであろう)は、自分の親族であるロトを助けてほしいとは祈らなかった。「町に正しい人が何人いたら、滅ぼさないでいてくださいますか」と、町の救いのために主に交渉したのである。最終的には”10人”までと、モーセは”値切る”ことに成功した。

また、ガザ市には、メノー牧師の知り合いの福音派のパレスチナ人クリスチャンがいて、こんな中でもイスラエルのためにとりなしているという。彼らのためにも、ガザの救いを祈るべきだと教えた。

エルサレムの教会では、双方の市民に犠牲者が出ないよう、ネタニヤフ首相のために、また、なによりも双方の人々の上に主の救いが与えられるようにと祈った。
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このクリスチャンたちの姿勢に、私は御霊の聖さを感じます。

‐命は神の主権の中にある。だから恐れず、ユーモアを持って危機に対処する。
‐仲間のイスラエル人への懸念。怒りや憎悪が出てくることへの警戒。
‐ガザ全体への平和の願い。しかしそれは、彼らのしていることを是認するのではなく、アブラハムのような執り成しの思いから出てくるもの。
‐敵対する国や民族のため互いのクリスチャンが執り成して祈る。これこそ、キリスト者だからこそできる特権。
‐霊の救いの祈り。
‐指導者のため知恵が与えられるように祈る。

なんとキリストの恵みはすばらしいのでしょうか!世の中が騒がしくなっている時に、すべての違いを超えて真実な平和のために動くことができるのですから。

感謝。


今回のイスラエル空爆について、以下の記事に後記を加えました。

イスラエルを祝福するとは?

「怒る者から、執り成す者へ」への1件のフィードバック

  1. 圧倒的なハイテクの兵器を持つイスラエルと、貧弱なミサイルを大量に持つハマス。この非対称性は、むしろハマスに有利に働いていること、そしてイスラエル人を心理的に苦しめていることを伝える、現場からの貴重な報道です。(毎日新聞は、ネタニヤフ氏の来日の時も単独インタビューをしたりと、かなり熱心に取材している姿を伺えます。)

    発信箱:非対称の恐怖=大治朋子

     イスラエルとの戦闘が本格化しているパレスチナ自治区ガザ地区で取材している。

     この原稿を書いている間も、ホテルの窓からはガザ地区を拠点にするイスラム原理主義組織ハマスがロケット弾を発射する火炎が見えたり、近くでイスラエルの攻撃ヘリが機関銃を撃つのが聞こえたりしている。

     それでも何とかやっていられるのは、超ハイテクのイスラエル軍の照準がよほどそれない限り、あるいはその標的にたまたまタイミング悪く近づいて巻き込まれることでもない限りは安全だという漠然とした感覚があるからだろう。

     安全という意味では、エルサレムの自宅にいても今や確かさは感じられない。ハマスのロケット弾の多くは、精密ではないので着弾場所は想定できない。その意味では、精密兵器とそうでない兵器が「受ける側」に与える恐怖の違いは大きい。

     ガザにいると、2009年春に1カ月を過ごしたアフガニスタンを思い出す。米軍への従軍取材だったが、基地には反政府勢力タリバンの放つ迫撃弾が飛来した。テントで「今日こそ当たるかもしれない」と思いながらうとうとと眠った。

     イスラエル市民はこのところ連日、ガザからのロケット弾攻撃を浴びている。迎撃システムで一部は撃ち落としているが、民家を直撃したこともある。威力も精巧さでも劣る兵器だが、その不確かさが生み出す恐怖はむしろ大きく、イスラエルが過剰な反撃を繰り返す悪循環につながっている。

     圧倒的に兵器や戦力で勝っていても、それで恐怖がなくなるわけではない。非対称の戦争が生み出す非対称の恐怖。これこそが現代の戦争を泥沼化させるものの正体だろう。(エルサレム支局)

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