律法主義の弊害

今朝、妻と共にデボーションをしていて、読んだ箇所の一部が次です。

しかし、王の娘エホシェバが、殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、彼とそのうばとを寝具をしまう小部屋に入れた。こうして、ヨラムの王の娘、祭司エホヤダの妻、エホシェバは、・・彼女がアハズヤの妹であったので・・ヨアシュをアタルヤから隠した。アタルヤはこの子を殺さなかった。こうして、彼はこの人々とともに、神の宮に六年の間、身を隠していた。その間、アタルヤがこの国の王であった。(2歴代誌22:11-12)」

アタルヤから守るために、ヨアシュを神の宮の中に隠しておきました。けれども、ヨアシュは王族であって神の宮の中にいてはならない人物であるということです。神殿は祭壇から聖所のほうは、基本的に祭司の奉仕の場であり、聖所の中は厳しく、祭司のみしか仕えることができません。

事実、ウジヤは聖所の中で香の壇で香を焚こうとして、らい病に冒されました。

ではヨアシュは、なぜ主に打たれることはなかったのか?幼いヨアシュに、祭司の務めをさせることはなかったということはありますが、おそらく他の祭司の家の幼子といっしょに敷地内で遊んだり、祭司の子として紛れていたのではないかと思われます。

ここから分かることは、聖なる所とは物理的な場所というよりも、主がそこが聖なる場所だと命じられて、それを信仰によって聞き入れるという真理であります。ヨアシュをかくまったエホシェバの行為は、ダビデの家をとこしえに残すと約束された主の御心にかなったことであり、その信仰によって、ヨアシュは聖められていました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。 」(ヘブル11:6)
信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)

同じことをイエス様が、安息日論争で語られました。ダビデが、祭司以外の者は誰も食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べて、供の者にも与えたことを伝えておられます。(ルカ4:6)

そこで考えなければいけないのは、私たちはしばしば、「主の命令と信仰による従順」ではなく、主の命令の結果の「場所」や「物」に拘泥することです。そうすると、ヨアシュは匿うことはできませんでした。ダビデは聖なるパンを食べることはできませんでした。

キリスト教会にも律法主義が入り込みます。これが入り込むと、非常にやっかいです。愛の一致を壊します。喜びをなくさせます。混乱を生じさせます。イエス様がその教えを、「パン種に気をつけなさい」と警戒された理由が、それなのです。

私たちが、「これは大切な教えである」と主から示されていると思っている中で、いつの間にか次のようになっていないか気をつけたいものです。

1)教条化

聖書に出てくる文面だけを見て、その前後関係の文脈を無視して、文意を読み取らないで、教条化してしまう。命令の背後にある神への愛、信仰、希望が大事であって、それ自体が大事なのではない。けれども、そうした憐れみや正義という大義を忘れて、「ぶよをこして飲むが、らくだを飲み込む(マタイ23:24)」という自己矛盾に陥る。

2)排斥

その教えを奉じていない人々を、排除する。いかに逸脱し堕落しているか、あるいは背教した者たちであるかと断じる。愛によって仕えることを忘れ、相手に自分の信じていることを迫り、心理的圧力をかける。

3)分離と分派

自分と同じ考えの中だけで、周囲に壁を作って「交わる」。しかし、それが感情的にいかに気分が良くても、交わりでも何でもなく、「分派」であると聖書は定義している。交わりは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれる」ことである(エペソ4:2‐3)。

では、律法主義から守られるにはどうすればよいでしょうか?

1.自分の心の中で守る

「日を守る人は、主のために守っています。(ローマ14:6)」自分が、「これは正しいことだ」としていることは、基本的に、自分自身に語られたことなのです。自分が示された神の真理について、周囲を見てそれを行っていないことに憤慨するのではなく、まさに自分自身がそれができていなかった、欠けていたから神がそれを示されたのです。

まず、自分自身がその命令を守ることに専念します。そして、そのことが主の似姿に近づくことにどう役に立ったかを他の人に見てもらいます。それで初めて、その行ないの正しさが証明されるのです。イエス様が言われました。「だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。(ルカ7:35)」

2.心が汚されていないか調べる

「これは間違っている」と憤慨して、義憤に燃えている時に、自分が必要以上に他者に攻撃的になっていやしないか、制御できない程の怒りになっていないか心を調べる必要があります。「正しい」と主張することがかえって、正しくないことがあるのです。それはその心の態度が間違っているからです。心の中が「怒り、憤り、憎しみ」「苦み」「自己憐憫」「妬み」「嫉み」などの不純な動機で汚されていないか、気をつけます。

私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。(詩篇26:1‐2)」

「律法主義の弊害」への1件のフィードバック

  1. はじめまして。
    読ませていただきました。

    通っていた教会が
    かなりの律法主義な教会です。

    牧師が、不安と恐れを煽り、支配とコントロールによって教会の羊たちを縛っています。

    主人も律法主義で、頭がおかしくなり
    DVやモラハラをされてきました。

    牧師絶対!な考えから抜け出せず
    未だに気が狂っています。

    色々とおかしいと
    牧師と主人に抗議したところ
    私が悪霊にとりつかれていると騒ぎ立てられて家に住んでいられなくなるほどに追い込まれました。

    イエス様は、
    二年半の結婚生活、0歳と1歳の子どもがいますが、
    子育てが
    大変な状況の中で悪霊にとりつかれていると脅かされて
    家に住めなくなるクリスチャンホームをどう思われているか、、、

    何度も自殺を考えましたが、
    いよいよ、我慢の限界で、子どもを連れて別居をしています。

    主人はまともな会話ができず、
    正しい判断力もありません。
    不安と恐怖心をあおられていて
    主人は牧師の指示なく生きられません。

    牧師に献金をしたら成功できると言われ、
    主人は毎月20万ほどたまにそれ以上、
    献金をしておさめています。

    正しさをおしつける
    主人に大切なことに気づいてほしいです。

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