フェイスブックにおける投稿をこちらにもご紹介します。
*************
ある牧師さんが、FBでとてもすばらしい投稿をされていました。
牧師になると先生と呼ばれることが多くなりますが、それは同じ信仰者が尊敬を払っているわけでいちいち否定していくことを止めました。
日本人の良いところである謙遜と敬愛ですので「先生=さん」と思っています。さんと呼ばれるのが社会通念ですから当たり前のことです。先生と呼ばれる牧師は高慢になりますと堕落していくか、神様から手痛いお仕置きがありますので重々私は気をつけています。もともと職業的な犯罪者のヤクザでしたから本来、先生なんて呼ばれてはいけない存在です。ですがこうして勝手に皆さんが先生と呼んで下さることこそが神の仕業なのではないでしょうか。どこまで行ってもへりくだりです。
どこまでも聖書の精神で!
このことについて、「先生」と呼ばれることがマタイ23章8節でイエス様がしてはいけない、という戒めに反することなのかどうかを考えてみたいと思います。主はこう言われました。「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがはみな兄弟だからです。」そのまま読めば、確かに呼ばれてはいけない事になります。
しかし私は、そうではないと考えます。文脈が大事です。パリサイ人が教える立場にいて、人々から敬われることを好んでいることをイエス様は語られました。2節から語られていますが、7節だけ引用しますと「広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」つまり、人に持ち上げられることを好んでいるという態度について、「先生と呼ばれてはいけない」とイエス様は言われています。
呼称に拘っていては、この文意を見失しないかねません。日本で社会通念で使われている「先生」にはいろいろあり、どの意味合いで使っているかは場合に拠りけりだからです。「さん」にかなり近い場合もあるのです。そこに兄弟愛があれば、十分にイエス様の意図を汲み取っていると思います。
元々、日本語訳の「先生」の原語はユダヤ教の「ラビ」であり、ラビには「さん」に近いような意味合いはないのです。
しかしながら、「先生」は確かに日本の師弟制度にある上下関係の社会規範も反映しています。もし教会でその色彩が強くなれば不健全です。その場合、聖書的ではない人間関係を生みだしかねません。牧師は指導者であっても、キリストを唯一の教師とする兄弟であり、そこは愛の結びつきが主体であるべきです。
私個人は、いつまでも教会の人たちに兄弟だと思われたいです。確かに指導者であり、教える者でありますが、「愛」がすべての結び目です。愛され、愛す関係でいたいです。それを強調するためにも、「先生」という呼称より「さん」のほうが好ましいと思います。だから、そのように教会の兄弟姉妹にもお願します。しかし、それでも「先生」とお呼びになりたい方がいて、それが親愛の思いを込めて呼んでおられるなら、それは十分に兄弟愛の結びつきがあるのですから、無碍に拒む必要はないと思います。
これが私の立場です。
人に持ち上げられるのを好む誘惑は、必ずしも呼称だけではありません。たとえ「さん」と呼ばれていても、実際は人に良く思われたいとか、自分がいかに尊い存在であるとか、そういう自惚れや誇示があるならば、十分にイエス様が厳に戒めておられたことに該当するでしょう。絶えず「自分が神の恵みによって救われた、とんでもない罪人だけれども、その救いの喜びを分かち合っているのだ」という謙遜を身につけていることが、イエス様の「先生と呼ばれていけない」という本意です。
同じことが、例えば「誓い」にもあります。結婚の誓約もしてはいけないのでしょうか?それも、文脈によってイエス様の意図しておられることを汲み取り、それから解釈と適用をしなければいけないと思います。日本語訳の文面を教条化してはいけないと思います。
**********
上の投稿に対して、賛否両論の意見が出ています。上で引用した文言を投稿した牧師さんは、おそらく普段から「先生」と呼ばれることが多く、私は「さん」付けで呼ばれることが多いです。けれども、矛盾しているどころか、いっしょのことを二人とも話していると思います。要は、「へりくだらないといけない」ということです。そして愛をもって相手を尊敬し、兄弟愛で結ばれるということです。
この部分をイエス様は強調されていたわけで、パリサイ派や律法学者の挑発的な言葉、相手を裁く態度をイエス様は咎めておられます。なぜなら、そうしたことの裏側に「自分の教えていることにこそ権威がある」という動機があり、それを抉り出したのが「彼らはモーセの座を占めています。」と主の言われた、マタイ伝の該当箇所であります。
ですから、「先生と呼ばれてはいけない!」と他者に対して断言する人は、その語気を強めれば強めるほど、まさに相手に対して先生のようにふるまう自己矛盾に陥るのではないでしょうか?教師は唯一イエス様ご自身であり、私たちは兄弟、互いに尊重し、愛し合う仲です。もちろん「先生と呼ばれるべきだ」また「呼ばれることを好む」ことは論外です。ただ、私は自分自身が牧者なので、他者への物差しではなく、自分自身への強い戒めの言葉として受け入れています。
説明が欠けていると思ったので
ひとこと。
少なくとも当時のラビ(現在はシナゴーグにもよる)は、
信者の住まい、職業、結婚相手まで決めていて、それは人の自由を奪うため、主に相応しい行動ではなかった。つまり、「ラビ」と呼ばれてはいけない理由のポイントですな。
なるほど、ということは、ますます日本語の「先生」の訳とずれがあると言うことですね。英語でshepherdingというものがありますが、もしかしたらそれに近いのかもしれませんね。
光栄でございます。友人のシェアで引用を知りました。アーメンです。
日本人の良いところでもえりますね。私も自然に尊敬する人を先生と呼びます。