私たちは、教会で新しい信者の学びをしています。それで、この前の日曜日は「霊の戦い」を学びました。代表的な御言葉は、エペソ6章10‐18節です。
10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、15足には平和の福音の備えをはきなさい。16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
パウロがこの言葉を書いたのは、ローマにて牢獄にいた時です。彼をつないでいたのはローマ兵であり、兵士の武具を見ながらこのことを書いていることでしょう。彼は鎖につながれていましたが、かえって看守のローマ兵のほうが、パウロの語る福音につながれていました。そしてピリピ書1章によると、ローマの親衛隊が次々とイエス様を信じていったのです。
新約聖書の手紙には「私たち」という主語が数多く出てきますが、上の言葉もその通りです。私たちはしばしば、信仰生活を個人のものだけで考えてしまいがちで、ややもすると個人修養のように考えます。それで試練や霊の攻撃を受ける時に、それは自分の霊的な力が弱いからだと思ってしまうのです。しかし、パウロが上の言葉を話した時、読んでいるエペソの人々はそのように考えませんでした。戦いにおいて、ローマ兵が個人プレーでやっている姿など一度も見ていなかったからです。ローマ兵は絶えず隊形を組んでおり、完全に一致した行動によって戦いに臨んでいました。霊の戦いも同じなのです。「私たち」とあるように戦闘において隊形を組んで前進します。次のビデオをご覧ください。
これは、テストゥド(ラテン語で「亀」という意味)という、ローマの歩兵戦術で有名な隊形です。
上の動画では矢が盾を突き抜いていますが実際は御言葉にあるように、打ち消すことができる堅いものだそうです。盾を自分の身を守るためだけに用いるのではなく、隊形によって亀の甲羅のように一団を守り、その中にいて安全なのです。ビデオゲームになりますが、如何に敵陣にこの隊形で近づいていくか、はっきりと分かると思います。
こちらは映画「復活」の最初のほうの場面で出てくるものです。
https://youtu.be/KIAJGAylpoI
もう一つ、ギリシヤの戦いも参考にしましょう。
https://youtu.be/HdNn5TZu6R8
上の動画は、これまた有名なスパルタ人のテルモピュライの戦いであります。ファランクスという隊形です。映画化に二度されており、映像を使いながら戦史家が、いかに三百人の精鋭スパルタ兵が、クセルクセス率いるペルシヤ軍三十万人を食い止めたかを説明しています。(ちなみにこの戦いは、エステル記1章と2章の間で起こっており、アハシュエロス(クセルクセス)は盛大な宴会をペルシヤ人たちを統一させギリシヤ遠征させるために開いたとされ、それで大きな敗退を強いられて、失墜している時に王妃がいないことを思い出し、それでエステルが選ばれたということになります。)こちらも重装備であり、その盾によって互いをかばい、大軍に対して勇猛に戦っているのです。
このようなイメージを、我々キリスト者はもたなければなりません。ここに必要なのは御霊の一致です。そして自分は独りでは弱く、皆で隊形を組むから強いことを知ることです。そして教会はキリストの体であり、一部が痛めば他も痛み、一部が喜べば自分も喜びます。それぞれに部分があるので、有機的であり多様です。しかし軍隊のように、秩序があり、ゆえに強く平和なのです。ですから、私たちは一にも二にも兄弟の交わりが大事であり、時間を共に過ごし、たくさん祈り、みことばを分かち合い、共に伝道し、それで初めて神に仕えることができます。
以前、もっと可愛いバージョンで、兄弟の交わりによる霊の戦いを紹介したブログを書きました。:)
地域教会に、使徒、預言者、教師、牧師、伝道師、霊の見分け手等が揃い、
Fantasy に流れる事のないように、祈りましょう。
重要です。
使徒と預言者が、それに準じる働きや賜物はあっても、職として現在あるのかは私は疑問です。また霊の見分け手も、賜物はあっても職や務めではないと思います。