何をもってイスラム主義が危険なのか?

昨日、ツイッターで内藤正典氏のそれをリツイートし、それから私の見解を書きました。少し編集して書きます。彼の主張から、今、イスラム国の台頭を始めとするムスリムの論理を辿ることができます。そしてなぜそれが、私たちには理解しがたいもの、大きな問題を孕んでいるかを論じていきたいと思います。

イスラム国はムスリムの解?

内藤氏のツイート:
欧米諸国や日本では、イスラーム国が突然登場し、ヤズィーディ達を迫害し、人道の罪を犯した、その時点からしか見ていません。その前にどれだけの理不尽な死があり、遺体の山が築かれていたかを見ようとしません。イスラームの過激主義は、突然、涌いて出てくるのではありません。彼らの行為を人道の罪と断罪するなら、なぜ、ドローンで住民の生命を奪う米国への人道の罪を問わなかったのでしょう?民主的に選ばれた大統領を追放したのみならず、支持者に発砲し千人あまりを殺害し、ムスリム同胞団員を何百人も死刑とするエジプトの軍事政権を人道の罪に問わないのでしょう?ガザのこどもたち500人もの生命を奪ったイスラエルを人道の罪に問わないのでしょうか?国連事務総長は、今になってガザを訪問し砲撃で住民の生命が奪われたUNRWAの学校の悲劇を嘆くなら、なぜ数ヶ月も続いた攻撃を止めるためにアメリカと刺し違える覚悟を示さなかったのでしょう?

イスラーム国は人道の罪に問うべきです。しかし、それならば、過去半世紀、過去一世紀、何の悪意もなく家族と暮らしていた人びとの生命を理不尽に奪いながら、謝罪も賠償もせず口をつぐんできた全ての加害者を人道の罪に問わねばなりません。そうでなければ、イスラーム国を武力で叩き潰しても、それはリビアに、パキスタンに、イエメンに、イギリスに、フランスに、ドイツに、転移するだけです。イスラーム国は正解ではありませんが、こういう状況に置かれてきた中東のムスリムによる解の一つであることに疑いの余地はありません。それが彼ら自身の「解」であることさえ否定したいのなら否定すればよいでしょう。見たくない解を遺体も残らぬほどに粉砕したらよいのです。しかし、それはあまりにも愚かな世界の破壊をもたらすことになるでしょう。

・・以上ですが、次が私のツイートを基にして、私の見解を書きたいと思います。

殺されたムスリムの90%以上は同じムスリムに拠る

内藤正典氏はトルコ中心のイスラム世界を代弁する研究者だ。自身はムスリムではないが、ムスリムに同情、同調する主張を繰り返している。彼はイスラムを内在的に見ていこうとする研究姿勢があり、それは評価できることであるが、それゆえ客観的事実に基づかないイスラムの盲点の中に自ら陥っている。客観的事実というのは、1948年以降、約1100万人のムスリムが暴力的に殺されてきたのだが、90パーセント以上が、同胞ムスリムに殺害されているということだ。

1948年以降、中東で死んだムスリム

上の表は、次の日本語にも訳されている記事から作成されたもので、イスラエル・アラブ紛争で殺されたムスリムはわずが0.3%にしか満たない。→ 「イスラエル・アラブ紛争は上位49位」ムスリム自身によるムスリムの殺害がここ60年以上の趨勢なのに、それがなぜか、米国によるアフガニスタンでタリバン攻撃、イスラエルにによるガザ攻撃、エジプト軍事政権による同胞団の処罰などを取り上げ、それでイスラム国の人道の罪と相殺している。

これは、しばしば国際世論がイスラエルに対して不均衡な非難を向ける時にも使われる論法だが、ムスリムの論理には、はるかに根深いものがある。イスラム原理主義の中に、次のような世界観が埋め込まれている。

イスラム原理主義は、世界を「イスラムの家」「戦争の家」の2つにわけ、「イスラムの家」を防衛するための戦い(ジハード)は世界中のイスラム教徒の義務であるとする思想である。彼らにしてみれば「イスラムの家」とはシャリーア(イスラム法)に忠実な宗教国家を指す。「戦争の家」とはそれ以外の国。アメリカ、日本、中国、ロシア、欧州はもちろん、エジプトやトルコなどある程度政教分離を成し遂げているイスラム教国も含まれている。これら「戦争の家」の攻勢から「イスラムの家」の身を守るために率先して「戦争の家」を滅ぼすべしとする思想である。
イスラム原理主義」から

今、私は上のサイトに登場する、イスラーム原理主義の思想的父、サイイド・クトュブ著「道しるべ」を読んでいる。彼らが世界をどう見ているか把握することは非常に大事だ。キリスト者に分かり易く話すなら、「エデンの園において人が罪を犯したので堕落したこの世界を神のみが支配する国に取り戻す」といった感じだ。彼らはイスラムが出てくる前の状態を「無明時代」とする。偶像や物を拝んでいた時代だ。そこから、アッラーが使者ムハンマドに啓示を与え、クルアーンとしてシャリーアが与えられたことにより、この世界が開化するのだ。しかし、オスマン・トルコ時代のカリフを最後にして、欧米列強による近代国家が入ることによって、そして社会主義革命も含めて、そのイスラム時代がかつての無明状態に戻ってしまった。キリスト教圏の欧米諸国やそれに連なる、日本も含めた自由主義の国はもちろんのこと、他宗教の国、また政教分離を取り入れたイスラム国でさえ、無明状態として見る。

まず、彼らはアッラーが全世界を既にイスラムの国として立てておられると信じている。それが「平和の家」だ。しかし、そこにその秩序に反逆している「戦争の家」が入り込んでいるとみなしている。したがって、彼らの信仰の中では自分たちの行なう戦闘行為や残虐行為、強制的改宗というのは、あくまでも平和の家を蹂躙している敵を攻めるという自衛行為にしか見えていない。例えば、家に帰ってきたらいつの間にか他人が自分の家を我が物のように使っている状態だ。そのような見方で、まだイスラム法によって支配されていない人々や領域が戦争状態にあるとみなすのだ。

ハマスにとって、全イスラエルがイスラム

内藤氏が例としてあげているガザ戦争を取り上げてみたい。私はブログ上で、ガザ戦争における状況を実況中継してきた。イスラエルに同情的な人も、ガザの子どもたちが死んでいったのは心が裂かれるように痛かった。彼らに罪はない。しかし、この云わば「汚い仕事」をしなければいけないように強いるハマスの戦略に対して、内藤氏は目をつぶっている。イスラエル、そしてユダヤ人が、自己の存在自体を残滅すると言っている隣人に向き合っているという現実に対して、どう答えるのだろうか?

今説明したように、イスラムは、イスラムが世界を支配するという中で初めて「平和」であるという意識を持つ。したがって、イスラムに支配させない別の主体がある時に、それが「戦争」であると見なす。ユダヤ人を主体とする国家はまさしくこれに該当する。したがって彼らの言う「平和」はイスラエルの国そのものの消滅であり、したがってイスラエルがガザから完全撤退しようが、ハマスはそれでも戦争状態だとみなす。ハマスが行ってきた自爆テロ、ロケット発射、地下トンネル網はあくまでも、彼らにとっては、自分たち(すでにイスラエル全土が自分たちのもの)を襲ってきた敵に対する「自衛行為」なのだ。イスラエル人にとっては、ガザ地区から完全撤退しパレスチナ自治政府に任せ、自分たちは平和に生活しようとしているところにロケット砲が落ちてくるのであるが、ハマスにとっては、そのイスラエル人たちがムスリムになり、シャリアーに従うことが「平和」であり、それを拒んでいるので武力の手段を選んでいる、ということになる。

ハマス創始者の一人の息子、「ハマスの息子」の著者モサブ・ユーセフ氏は、ハマスの目標はイスラエルの全滅に終わるのではなく、すべての文明をカリフ制の支配の下に置くことであると話している。

もちろん、我々非ムスリムには、こんな論理は通用するはずがない。分かり易くするために例えてみよう、仮に中国の人が日本列島が中国のものだと考え、日本人がそれを「占拠」して戦争しているから、我々に攻撃をしてきて「自衛」していると言ったら、どうするか?これと同じことをハマスはイスラエルに対してしているのだ。したがって、イスラム原理主義に妥協点というのは見いだせない。土地と平和の原理も通用しない。だから国家としては戦うしかない、しかも民間人を殺さないように注意しながら。しかし、ハマスは人間の盾戦術をいつものように取った。それゆえの子供たちの死なのだ。

キリスト教徒がイスラム教国より世俗権力を望む理由

そして内藤氏のような意見には、シリアやエジプト、イラクのキリスト教徒が、ムスリム同胞団やその他のイスラム勢力より、なぜその抑圧的な世俗権力を無言で支持しているのか、その考察が一切ない。シリアのキリスト教とはアッサド政権のままでいてくれていたらと密かに願っていた。エジプトのコプト教徒は、ムルシ政権になってからは今までしなかったこと、つまり公に反対するようになった。イラクのキリスト教徒は言わずもがなであり、今のイスラム国によってその存在が激減し、フセイン政権下のほうがもっと自由があったのだ。そして統計でも、世界の75%が宗教の自由が制限されているところに人々は住んでいるが、その制限というのはキリスト者に対する制限であり、制限しているのは北朝鮮を除けばほぼ全てがイスラム教国なのだ。(参照サイト

いくら世俗勢力が抑圧的でも、キリスト者にとっては神から来た権威だとして甘受する。しかし、イスラムが支配するときは「ムスリムになれ」というのが前提だ。これは、あらゆる苦しみよりも耐え難いのだ。改宗という意味が、イスラム教とキリスト教では真逆のように違う。我々キリスト教会の中では信仰を捨てた人がいたとして、それは非常に悲しいことであり、執り成しの祈りを捧げる。しかしイスラムでは、棄教をしたらその時点で「死」を意味する。キリスト者の信仰は本人の自由意志が尊重されるが、イスラムにはない。

そしてキリスト者にとって、キリストの御国はこの世のものではなく、神がご自分の権威によって立てられるものであって、自分たちの関与するものではないことを知っている。しかしイスラムでは、カリフ制にしても、棄教にしても、この地上に属しているものと考える。だからキリスト者は、天から来られるイエスの口から出る剣で世界の軍隊を滅ぼされると信じるが、イスラムは自ら手にする剣で異教徒を殺す。背教者についても、キリスト教では神が死後に裁かれると信じているが、イスラムでは棄教者は今、この地上で死んで裁かれなければいけないのだ。

しかし、信仰的なことを言わせていだくと、それでもムスリムがキリストに出会い、キリスト者となって生きる人々が、たくさん起こされている。たとえそれが死の脅迫を受けても、だ。キリストの復活を信じているゆえに他ならない。

国家をなくし、イスラム法で世界支配

それでは次に内藤氏の意見から外れて、カリフ制再興について考えてみたい。イスラムのカリフ制では世界がイスラムの中に置かれていることが平和だと考えるから、近代国家の存在こそが戦争を引き起こしている要因と考える。例えば、先ほどの例を取って中国が日本列島を、そこは中国なのに日本人が占拠しているとして「自衛」のために戦っているとしよう。日本国としては、当然ながら自衛権を発動して中国と戦争する(あくまでも「例え」であることに注意)。しかし、この例であっても実は正確な描写ではない。なぜなら、カリフ制においては国家が存在しない、国境もない。英国の有名な原理主義者は、「カリフ制において、イスラムは国境はないので、中国からヨーロッパまで自由に往来できるのだ。」と説く。つまり、日本国憲法も廃棄、中華人民共和国憲法も廃棄、イスラム法によってのみ、アッラーの支配する全世界がある。そこで完全な自由を、ムスリムは約束されている。先のブログで紹介した中田考氏も、同じ主張なのだ(ツイート)。

「国境があるせいで、戦争が起こっている。また国家に属しているせいで、人間性や自由が疎外されている。」そういう思いを漠然と持っている人が、こうしたカリフ制再興者の言説に魅かれて、「アッラーに服するからこそ自由がある」とし、ムスリムに改宗している人もいるのだ。

これを反キリストの霊と呼ばずして何と呼べばよいだろうか?「第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。 」(ダニエル7:23-25)

我々キリスト者は、ローマという世俗権力によって殺された方、キリストをあがめている。この方にならって、世俗権力の下に自分を置くことを選ぶ。そしてその中で、キリストの命の力が働くと信じている。神の国は、剣を持つものではなく、むしろ剣に身を任せる者たちによって受け継がれると信じている。これが、被迫害者の大多数がキリスト者で、迫害者の大多数がムスリムであることの違いなのだ。キリストこそ私たちの王、主であられる!

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