キリストを主とする自由

先週、ツイートしたことをまとめて、こちらにも紹介します。

牧師の説教原稿を裁判所に提出?

Houston Mayor Annise Parker has become a lightning rod for criticism that she is trying to quell dissent against her pro-gay agenda by trying to intimidate pastors. (Facebook)
Houston Mayor Annise Parker has become a lightning rod for criticism that she is trying to quell dissent against her pro-gay agenda by trying to intimidate pastors. (Facebook)

今、米国テキサス州のヒューストン市長(同性愛者であることを公表)が、市内の牧師五名に、性問題や市長への批判等について、説教の中で語った原稿を提出するように召喚状を送付して、それが全米の教会と牧師たちの間で大きな反対運動となっている。日本でもそうだが、これは宗教と表現の自由を侵す深刻な動きだ。

宗教の自由を弾圧するヒューストンのレズ市長、悪法に抗議する牧師たちの説教原稿の提出を要請

米国合衆国憲法でこう定められている。

修正第1条
(信教・言論・出版・集会の自由、請願権)
合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない。

日本人の宗教観を反映する自民党改憲案

では、同じ分野について現日本国憲法ではどうなっているか?

第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

自民党の改憲案を見てみよう。

(信教の自由)
第二十条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

自民党の改憲案の特徴は、信教の自由を付与する主体が「国」であることだ。米国の憲法もそうだが、人権や自由というのは国から与えられるものではなく、神からの天賦のものであり、国がそれを侵害しないように厳しく定められている。そして、最もまずいのは第三項の但し書きだ、「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」その儀礼や習俗の中に神道行事が含まれているのは、地域の自治体の行事、会社やその他の団体の行事の中に組み込まれているとおり、明白なのだ。

日本の教会は、これを一度、歴史の中で辛酸を舐めた。神社参拝と宮廷遥拝、礼拝の中における君が代斉唱などを、国から義務づけられたのだ。しかし、日本人の宗教観において、「内心で信じていること」と「外側に表すこと」を区別する考えがあり、それをキリスト者と言えども、行っているという大きな霊的過ちがある。神社や寺で合掌したりするのは、形だけで、内心で神をあがめれば偶像礼拝ではない、という。

これは、聖書の神への信仰を根底から否定する行為である。キリストを信じる者は、内心と公の口での告白を分けないことを「信仰」と呼ぶのだ。旧約聖書では、神は言葉によって世界を造られ、イスラエルの民は言葉によって神を信じる告白をした。ダニエルの友人三人は、儀礼にしかすぎなかった像への遥拝を、神への信仰を表明して拒んだ。新約聖書では、人の前でイエスを認めないものは、イエスが父なる神の前でその人を認めない、という明確な言葉がある。口でイエスを主と告白して救われる。心にあることを口に出す。心と口や行動は切り離すことはできない。

自民党改憲案増補版にて、二十一条の補足として「内心の自由は、どこまでも自由ですが、それを社会的に表現する段階になれば、一定の制限を受けるのは当然です。」とある。これが日本人の宗教観と合っている面があるが、以上の理由からキリスト者の信仰を脅かす文面であることに気づく必要がある。
(参照ブログ:「キリスト者として、自民党の改憲草案に反対する」)

公に晒されている説教内容

私は教会で説教壇から語る言葉に、いつもリスクがあると思いながら話している。それは、すべての人に晒されていて、もちろん公安が見ることもできるものだ。現時点で何ら監視される内容は含まれていないと思うが、何らかの方法でいつ何時、監視されてもよい心の準備は片隅でしている。しかし、私にとって、いやキリスト者にとって辛いのは、国家権力によって弾圧を受けることではなく、世の考えに迎合して、迫害されている者から距離を取り、愛の手を差し伸べないキリスト教会の存在であろう。これが過去に起こった。

ホーリネス弾圧事件(ウィキペディア)から

1934年1月大審院検事局が3教派の共通定義を行った。「神は近き将来に於いて「キリスト」を空中に臨ませ義の審判を開始し戦争その他災厄の充満せるいわゆる患難時代を現出せしめたる後「キリスト」を地上に再臨せしめて我国を含む世界各国の統治権を摂取せしめ「キリスト」を統治者、携挙せられたる聖徒を統治に参与する王、神の選民と称するイスラエル人を支配階級となす千年王国なる地上神の国を建設し次で新天新地と称する神の理想社会を顕現すべきものなりとし、天皇統治が右千年王国の建設に際して廃止せらるべきものなりと做す国体を否定すべき内容のものなり」

この告発は、まさにホーリネス系の聖協団等だけでなく、我々カルバリーチャペル、その他、再臨信仰を聖書から固持している人々と全く同じ教義内容に対してのものである。だから、「心の片隅には入れている」と話している。今の公安がそうなるとは思わないが、一応心に留めている。

戦前を彷彿させるのは教会のほう

それよりも、現時点でキリスト教会の中で、戦前を彷彿させる発言が多く見えることが危惧するのだ。ウィキペディアの続きを紹介する。

1943年4月、文部省は宗教団体法に基づき、第六部と第九部の、教会設立認可の取り消し処分と教師を辞任させるように、日本基督教団の富田満統理に通知した。これを受けて、日本基督教団は、獄中にある教師と家族に、教会設立認可の取り消しと、教師の自発的な辞職を求める通知を行った。そして、日本基督教団内のホーリネス系の教会は強制的に解散させられた。日本基督教団財務局長、松山常次郎は、「結社禁止は当然の処置であるとおもう。日本においてキリスト者が再臨問題をとりあげて説くことがそもそもの間違いである。」と述べた。富田統理はホーリネスの学的程度が低いからだといって弁明した。

いかがであろうか?今、キリストの再臨と千年王国が到来するという説教が、公の秩序を害する発言だとして制限をかけられるのであれば、あまり支障はないと感じる教会が意外に多いのではないだろうか?私は大いに、支障がでる。それでも聖書講解をしていて、猛烈に出てくる主題なので語り続けるが。そして戦前、再臨信仰を米国からの輸入品であり、敵視していたのもキリスト教会だ。このことも、「米国のディスペンセーション神学が宗教右翼とくっつき・・・」として、敵視している空気も私は感じる。そして反知性であるという意見も見てきた。

私は、靖国神社反対運動、特定秘密、反原発など、そうした動きに反対することが今のキリスト教会の課題ではないと思う。もっと深い部分、すなわち「キリスト」を「主」とし「王」としているのか?これに対する悔い改めが、戦後の日本の教会でほとんど見られなかったし、今にまで来ていると思う。

中国を見ても、イスラム諸国を見ても、迫害が教会の前進の阻害にはなっていない。むしろ、迫害を受けることによってなおのこと、神の国が激しく攻め入っている。実に山上の垂訓は、迫害下にあるキリスト者への慰めとして与えられた神の国の幻である。しかし、キリストを主としなかったら、教会は霊的に死んでいく。実際に国が信教の自由を制限し始めても、制限されていることさえ気づかないで普通の教会ができているのだと思う。これが私、いや多くのキリスト者仲間が最も憂えることではないだろうか?

加筆:世俗の自由と混同するキリスト教会

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31)」

イエス様が私たちに約束された自由は、この世の政治や社会が与える自由のそれと違う。罪から自由にされた自由、そして何よりもキリストを主とする自由だ。本来ならば、この世において表現や思想の自由が制限されるような圧力を受けたところで、制約されるところのない自由であり、自由が制限されるのは、キリストを主としないで妥協している所から入り込んでくる。

こちらのブログでも話題にしている、イスラムのジハード主義を掲げる中田考氏について、ある人がこんな感想を漏らしていた。「私戦予備罪なんかでしょっぴくのは秘密保護法の予行演習みたいで日本社会はどんどん自由がなくなっていく、みたいな話の流れになったとき、中田先生が、”それは自由主義者である皆さん方の問題ですね。私は自由主義者ではありませんので” とニコニコしながら言ったのに僕は衝撃を感じると同時に、自由とイスラム教(あるいは宗教)の問題の奥深さに目眩がしそうになった。」

いかがであろうか?私はこの中田氏の発言から、今日の日本のキリスト教会の動きが浮き彫りにされるし、聖書にある真実な自由も浮き彫りにされたような気がする。不信者であり、キリスト教に対峙するイスラム信仰から出てきた発言ほうが、キリスト教会がしばしば行っている反対声明より、キリスト者の自由により似たものを感じてしまうのは、どうしてなのだろう?私の気が狂っているのか、それとも日本のキリスト教会が大事なものを見失っているだろうか?

「キリストを主とする自由」への1件のフィードバック

  1. 新来者、調べてみれば、公安警察?

    上のような記事については、本文で書かせていただいたように、「もっと違うところ、深いところに問題があるのでは?」というのが私の感想です。公安に監視されることを警戒し、例えば、特定秘密法に反対するよりも、1)果たして公安に監視されるほど、きちんと聖書の真理を教会が説いているのか?2)イエスが王の王、主の主として生きておられることを、教会体が影響力を持って証しをしているのか?が問われると思います。

    まじで心を貧しくし、罪に悲しみ、へりくだり、義に飢え渇き、人を憐れみ、心を清くして、そして平和を造っているのであれば、確かに義のゆえに、イエス様のゆえに迫害されます。けれども、そこまでの内的真実がないまま反対するなら、政治的な理由で捕まるかもしれませんが、イエス様のため、福音のために捕まるのではないと思います。

    反対のための反対運動になっていないでしょうか?何か、ものすごく大事なことを、特に戦前のことを殊更に話す教会や指導者の中で見失われているのではないか?と呻いています。

    おそらく教職者の方々の中で、私の意見に多少なりとも反発を感じられる方がおられるかもしれません。けれども、私は過去の経緯から、迫害されている国々に強い関心があり、そこにいる宣教師やキリスト者の信仰について学びたいと願っています。その状態と過去の日本の教会、また今の日本の教会とを比べると、後者は本当の意味で、聖書的な「自由」に立っていないと見えてしまうのです。

    明後日(11月9日)は、IDOP(迫害されている教会のための国際祈祷の日)です。キリスト者の迫害について重荷を持って働きかけている、Open Doorsというキリスト教団体は、祈りの課題としてその政府や政権が変わるように、思想的・政治的自由が与えられるようにとは祈りません。むしろ、その苦しみの中で憐れみを受け、その中にあってもキリストの福音を大胆に語り、信仰が強められるようにという課題になっています。事実、国の締め付けが強くなったからこそ、霊的な飢え渇きが民の中に広がり、それで教会が清められ、霊的覚醒が世界の様々な国で起こっています。

    政治的な働きかけが間違っているとは言いません。確かに信教の自由は、歴史によって勝ち取った尊い神からの賜物でしょう。けれども、キリストにある自由は、アメリカのような自由な国でも、サウジアラビアのような禁教の国でも、全く同じなのです。なぜなら、自由は外から与えられるものではなく、「キリストの命令に従順になる」という内実から出てくるものだからです。要は、その自由を得るために、犠牲と苦しみを負う覚悟ができているかどうか、なのです。

    IDOPのため、Open Doors USAに招かれたNik Ripkenが書いた、”The Insanity of God“(気が狂いそうにさせる神)という本をアマゾンで注文しました。自身、ソマリアの宣教師で、その後、迫害されている国々のキリスト者にインタビューして書いた本だそうです。アメリカとサウジアラビアの対比は、彼の使った例です。

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