フェイスブックで昨日、二つの記事を投稿したところ反響がありました。こちらにもご紹介します。
一つ目:
今日図書館に行ったついでに、池内恵准教授の次の寄稿を読んで、複写してきました。
【寄稿】『文藝春秋』12月号にて「イスラーム国」をめぐる日本思想の問題を
着眼点がなんでこんなに同じなのだろう?と不思議になるほど、私の指摘したことと符号しています。この前の北大生イスラム国渡航未遂事件が、世界規模のジハード運動の余波という位置づけ、しかし、そうした見方をしている人々が日本でとても少ないということ。そして中田考氏と内藤正典教授のツイートを取り上げて、若者がその影響を受けている点。引用した具体的なツイートも、私が下で取り上げたものと同じでした。
北大生のイスラム国参加未遂事件
改めてイスラム教の紹介
何をもってイスラム主義が危険なのか?
それから、知識人たちがイスラムの一側面を取り上げ、現体制を全否定する傾向を取り上げ、そのために日本社会の片隅で不満や破壊衝動を持て余している人々が、過激派の一方的な肩入れをして暴発する事態を予測できる、との指摘があります。
そこで、これをキリスト教界に当てはめると、特に最後の点で同じものを見ます。知識人は現体制を否定するために、まったく思想も違う、その知識人たちの拠り所とする自由そのものを破壊するイスラム主義に共鳴している、そのために影響を受けて、実行に移す人々が出てくるのと同じように、キリスト教の指導者が、日本のあり方や現体制に不満を持っているために、聖書に基づく平和や正義ではなく、元来の政治運動や市民活動に依拠している点です。
このために、普通の信者たちや若者が影響を受けて、一般社会が見てもかなり思想的に偏っている市民活動に深く関わったり、信仰から離れていくという現象を見ます。さらに、そのように考えない信者をキリストの体からちぎり取るような圧力をかけ、思想的に対立するところにいる人々が福音を聞き、教会に来ることのできない大きな壁を作っている、という現状です。これは憂うべき流れだと思います。
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以上が一つ目ですが、現役のクリスチャン大学生から、最後の二段落は今若者キリスト者の間でありつつある動きなので心配している、とのこと。そこで次の投稿もしました。
二つ目:
日本のキリスト教の指導者の間で定着してしまっている考えは、「平和」=「国が武器を取らない」ということです。そこで「右の頬を打たれたら・・」というイエスの御言葉「剣をさやに収めなさい」という御言葉を取り上げて、それで武力の放棄、不使用を唱えます。
これは聖書釈義としてかなり脆弱であり、その悪影響は大きいと感じています。それが間違っていることは、「イエスご自身がどうされていたか」を見れば明らかです。イエスは、武力と専制によって平和と秩序を保っていたローマ社会の中で宣教活動をされていました。その中にいて、イエスはローマ兵に武器を捨てよと言われませんでした。バプテスマのヨハネは、その兵役の中で人に優しくすることを説きましたが、イエス、また使徒たちはむしろ、百人隊長が信仰へと導かれていくことを喜び、神に栄光を帰していました。パウロは、ローマの親衛隊に伝道していました。
そして、その剣を持つローマに対して「権威に従いなさい」とパウロも、ペテロも勧めたのです。
イエスの言われた、右の頬を・・というのは、国に対する命令ではなく、キリスト者が福音のため、主のために生きている中で受ける迫害において、復讐するなという意味で使われています。つまり、「教会に対する」命令です。教会が剣を取ってはならぬのです。ピラトの前で、わたしの国はこの世のものではない、だから弟子たちはわたしのために戦わないのだ(ヨハネ18:36)、ということを言われたのです。
しかし国は、剣をもっていても、それはすべて神から立てられたものであることをイエスは、同じピラトに教えられました。十字架刑の権限を持っているピラトに対して、それは神の与えておられることであると教えました(ヨハネ19:11)。教会に対する命令を、国に対して使っているという現状を見ています。
もう一つは、そうした聖書釈義は日本固有のものに留まり、教会として世界に通じる普遍性を持たないことです。もしイエスの命令が国の命ずる剣を取るな、ということであれば、韓国の兄弟たちはみな主の命令に違反していることになります。徴兵制を彼らは守っているからです。同じように中国の兄弟は、短期間ながらも軍事教練を学校で必須になっています。彼らもイエスの命令に違反していることになります。シンガポールの兄弟、イスラエルの兄弟姉妹、みなが違反し、また、志願制ですが、米兵にもキリスト者が多くいますが彼らも違反していることになります。(参照:ウィキペディア)
そして国内に戻りますと、自衛隊にはコルネリオ会というキリスト者の集まりがあります。彼らを直接的に疎外する解釈です。
また、そのような現場におられる人々、異なった考えをもった人々が「武器を捨てよ、不使用が神の御心」ということで福音に近づけない、教会にも来られないということになればどうなるでしょうか?いや、実際にすでに起こっているような気がします。
以上のことを犠牲にしてまで、精密な聖書釈義をしている自信が、それを唱えているキリスト教指導者にはあるのでしょうか?私たち牧者また教師は、神の聖なる言葉を取り次ぐというとてつもない重責を負っています。
参照ブログ:日本人の考える「平和」
この投稿の後、沖縄のクリスチャンからのコメントがあり、説教壇から基地反対の説教がされており、米軍の人たちが辛い思いをしており、子弟がどうすればよいか分からず混乱している、ということを書いておられました。そこで次に私が以下のように書きました。↓
沖縄のクリスチャンの方々が、反戦、反米軍の一色ではないということは、実際、個人的に伺っていました。いや、そういう問題自体を教会が、説教壇から語るような内容ではないのでは?というのが、私たちキリスト者の呻きだろうというのが私の意見です。
むしろ、米軍と隣り合わせで生きている中で、なおのことその状況と生活の真ん中に生きておられ、神を愛し、人を愛されているイエス様を伝えることが、説教壇からすべきことだと私は思います。
イエス様は、ローマ兵と隣り合わせで生きているユダヤ人たちに、心を貧しくし、憐れみ、敵を愛することを教え、信仰を持つローマ兵にはその信仰をほめるなど、兵士たちにも福音を伝えられたのが私たちの主、イエスです。
戦争は、人の欲望から出てきたものであり(ヤコブ4:1)、それを終結するためにイエスは再び来られます。しかし、悪を抑制する力として剣も存在するこの世の中(ローマ13:1‐2)に主は来られて、その限界の中で平和を宣べ伝えられました。
国々の思惑に翻弄されながら生きる私たちですが、その国々をも凌駕し、なおのこと拡がる神の国が、その翻弄される生活の中で生きるキリスト者を通して実現するというのが、神の御心であると思っています。
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この前の二つの修養会で主が強く語られたのは、神の救いのご計画から離れた議論や教え(1テモテ1:4)は、キリストの体に歪みをもたらし、傷も与えるということでした。そしてメッセージを聞いている時に、個人的に主が「お前は、どうして他の目を気にしているのか?」と語られました。以上はブログでは既出の内容であったのですが、フェイスブック上で書いてみたところ、多くの人の感じていたことであったようです。けれどもこれまで、牧師という立場の人が語ると一般の信者の方々は話せなくなっていたのではないか?と思います。大勢の人々が心にしまい込み、傷だけ負っていたような気がします。だから、同じ牧者また教師がはっきり語らなければいけない、その責任を感じた次第です。
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