左から右に揺れる教会

今晩は、皆さんは今日は教会の礼拝に出席されたでしょうか?私は毎週の礼拝をとても楽しみにしています。教会にこそ、イエスを主の主、王の王として宣言し、礼拝できる完全な自由があります。

ここ一・二か月の間、主が自分の心に語られて、そして修養会の時にはっきりと語られたことがあり、それは「教会に偽の教えが入っている」というものでした。それは、エホバの証人やモルモン教のような異端の教えを持っている組織ではなく、キリスト教会でありながら、イエス・キリストの福音のみを信じない、他の要素を取り入れることによって福音が異質なものにしている、それで福音に人を救う力がなくなってしまっている、という問題です。

その問題について、ここのブログでも取り上げてきた中の一つが「教会の政治化」です。政治の中で争点となっている事柄について教会がそれをあたかも神の命令であるかのように一つの争点を認知していくと、教会の中に混乱が生じ、信徒たちの心は信仰によって養われず、かえって心に傷を受けるという深い懸念でした。日本のキリスト教会では主流派と呼ばれるリベラルの教会では、急進的な政治運動に加担していく姿を見ます。

しかし、イエス・キリストの福音こそが人を救うという信仰を固持しているはずの「福音派」が、政治化している姿を見ることは心痛むことであり、憂うべきことです。表に出てくるマスコミの情報や、出版物でそうしたものが大半になってしまい、キリスト教書店でも見るに堪えない風景になっています。(参照ブログ:「山本太郎氏当選に思う」「福音派は時流に乗るな!」「秘密保護法案とキリスト者の迫害」「日本人の考える「平和」」「全共闘・反動・日本の誇り」など)

これは戦後日本が辿ってきた道そのものです。「日本は戦前、戦争をしたから誤っていた」という分析は、あまりにも現実を単純化しており真実な反省に立っていないと思っていました。その政治や思想の流れを教会がそのまま取り入れています。その平和主義に聖書の言葉を付けたすのですが、稚拙であると言わざるを得ず、正統な聖書釈義に基づくものではないことを、当ブログで説明しました。(参照ブログ:「『平和主義』で傷つき、悩むキリスト者たち」)

必ず来る反動

私の大きな懸念は、この政治化に対する反動が来ることでした。政治というのは、力の闘争によって均衡を保とうとします。左に傾けば、右による反動がきます。だから、教会の中でも必ず反動があると思っていました。その反動をついにブログ上で昨日、見ました。

日本を愛するキリスト者の会

この会の役員たちはキリスト教福音界で有名な面々です。主催者は、古代神道にユダヤ・キリスト教の起源を見る同祖論を展開、死後にも救われる機会があるとするセカンド・チャンス論を主張する人物であり、その人が関わっている団体の責任者の面々も並んでいます。

そして、イスラエル回復論者の主張が見えています。その回復論は、神の約束されている選びの民の約束に、キリストによって個々の異邦人が接ぎ木される祝福を説くのではなく、日本民族という単位でつながることを説く論です。イスラエルの回復に大和民族の回復を連動させています。

そして、カリスマ運動に関わる主流派教会の牧師の姿もあります。彼の主張は自由主義史観と自ら呼ぶ者たちの主張そのものであり、それだけでなく、教会成長論などで成功哲学を取り入れた教えを垂れています。

そして政治家の姿が二名並んでいます。どちらもキリスト信仰を政治活動の場でも大胆に告げる一見、福音的な人々であり、政治信条としては保守です。私は個人的に、二人の主張には共感するところがあり、一人には選挙でも投票したことがある程です。しかしキリスト者として見る場合、深刻な問題を持っていると感じました。お二人とも神社の行事に積極的に関わっていること、そして参拝さえしているのではないかと思われる言動があることです。その他、実業家が二名ほどいます。

そしてもう一人、私個人にとって、とても良さそうだなと思われる、聖書を丁寧に説いている牧師がいたので衝撃でした。知り合いに、その教会に通う中国人や韓国人の兄弟姉妹がいるのですが、このような会に顔を並べて大丈夫なのでしょうか?

この会の考えの背後にあるのは、神道に対する親和性です。神道に融和的、酷ければ摂取していることです。以前、当ブログでも、神社の中で「神への奉納」と称してキリストの神と神社のカミの区別をつけずコンサートしているゴスペル・グループについて話しましたが、それと同じ流れです。

そして新しい宣教学の流れとして、「贖いの賜物」という言葉を使っています。これは日本人だけでなく、世界宣教の中での流行の一つであり、私は警戒しています。(参照ビデオ)この根底にある問題は、「一般啓示」と「特別啓示」の混同です。もちろん神は日本の美を造られ、そこには神の指跡を見ることができます。しかしそれと、神の贖いは別物です。むしろ、文化には人の罪によって神の形が歪められ堕落してしまっており、そこに神の救いの恵みが入り込んだのです。呪われた地にキリストが血を流され、祝福となるのです。これが「贖い」であり、一般啓示では美しいものも、特別啓示では罪にまみれているのです。したがって正反対のもの、対立するものを一つに連結させているという意味で、危険な教えであります。(参照記事:「神道を摂取する宣教?」「日本人に対する伝道と弁証」「美しい日本、美しい血潮」)

趣意書から見える深刻さ

その主張の中身は、ホームページを立ち上げたばかりなので、これから明らかにされてくるのでしょうが、設立趣意書を読んでその深刻さを感じました。

一つは、安倍現首相の主張する「戦後レジームからの脱却」をバビロン捕囚の七十年によって神的意義付けをしていることです。バビロン捕囚解放は、実に神の救いのご計画の中核になっている部分なのに、それを勝手に政治主張の正当化のために使用していることです。

バビロン捕囚からの七十年後の解放とは、エレミヤに対して「わたしは引き抜き、そして植える」と言われた、古い契約の限界、ゆえに新しい契約を約束するという、神の救いのご計画を表す重要な出来事です。それを戦後レジームからの脱却という一つの政治改革的動きに当てはめるとは、まるでイエス様が「剣をさやに収めなさい。」と言われた言葉を、非武装中立論に当てはめるのと同様の適用の過ちを犯しています。

二つ目は、キリスト教のジャーナリズムと朝日新聞の流れを重ね合わせることです。これは、上で論じたように私も懸念していることです。しかし最後の文がどうしようもなく不同意であります。これを、「今日のキリスト教が低迷している理由の一端」だとしていることです。

確かに教会が福音を捨てて政治化させたことは、まことの神の福音が伝わらなかったということで、低迷を招いたとい得るの”かも”しれませんが、その代替が、同じく一つの政治思想の宣伝であれば、全く意味がなく、単に教会にさらなる混乱と不一致をもたらすだけです。これは薬の過剰投与で副作用が出てきて、そこに副作用を抑えるためにさらに薬を投与し、薬物依存になる患者に似ています。キリストの体をさらに病ませてしまいます。

教会の霊的復興は、その国の政治体制や思想に関わりなく起こっています。かつて軍事独裁国家であった韓国は、その政権の中でリバイバルが興っていました。そして共産党の支配する中国でも、その政権の中で大リバイバルが起こっています。右翼であろうが左翼であろうが、神の国にとっては「知ったことか!」なのです。政治的自由とキリスト者の自由は別物であり、むしろ、政治的束縛の中でなおのことキリスト者の自由は輝くのです。神の国が攻められる時に、むしろこの世に攻め入るのです。

だから、戦後日本の精神的束縛など、キリスト教会の霊的停滞には関係のないことであり、反対に日本の右傾化も霊的衰退に全然つながりません。どちらも霊的復興する機会はあるのですが、キリストのみを主としていないから、世の価値観を福音の中に取り込むから、世と同じになって霊的復興しないのです。(参照ブログ「キリストを主とする自由」)

私は、福音を政治的にするのは大嫌いです。けれども政治家のために感謝して、執り成して祈ることは大好きです。民主党の菅首相のためにも感謝して祈りましたし、今の自民党の安倍首相のためにも感謝して、執り成して祈っています。そして、どのような政治信条であっても、その為政者のために執り成すこと。これが、キリスト者に命じられた使徒たちの教えであり、私たちに与えられたキリストの権威を世の権威に行使することであり、神の救いが広がっていく手段となっていきます。

三つ目は、新しい宣教方法として「贖いの賜物」というものを挙げていますが、これは上述したとおりです。

「偽の教え」という強い言葉を使う理由

ジャーナリズムや出版物、各種イベントに出てくる福音派の動きには、以上のような左傾化の問題がありますが、その一方で、日ユ同祖論、神道のユダヤ・キリスト教起源説、セカンド・チャンス論、大和民族復興論など、福音とは異質の民族主義的・異教的感情が入り混じっています。

私が深刻に感じているのは、教会の指導者、しかも影響力のある指導的役割についている人々から出ていることです。本来なら御言葉と祈りで養わなければいけない、神に任された羊を傷つけることになります。一般の、日々の生活で奮闘して戦っている純粋な信者から、こんな突飛な考えは出てこないのです。教えられないかぎり、言い始めることはないでしょう。

ですから私たちは、大きな裁きを受けることになります(ヤコブ4:1)。教会の人々は、戦後レジームの脱却などと言う言葉を説教壇の牧師の言葉から、聞きたくありません!もちろん、米軍基地反対、原発反対、特定秘密法反対という政治的言辞も説教壇から聞きたくありません。聞きたいのは純粋な御言葉、出会いたいのは、復活されたイエス・キリストご自身であります。戦前も、罪を犯したのは教会の指導者でした。戦後七十年に近づき、罪を犯すのは一般の聖徒以上に、我々牧者や教師たちなのです。

次の記事で、ブログ「教会の使命と福音の本質」で取り上げた冊子の一部を紹介したいと思います。

次記事:「教会は政府ではない

「左から右に揺れる教会」への4件のフィードバック

  1. 日本を愛するクリスチャンが「日ユ同祖論」ってのは、頭がくらくらします。正直言って「電波系」としか思えません。中には西岡先生のような尊敬する人もいるけれど、ちょっと胡散臭い人が多いですね。ほんとうの意味で日本を愛しているのかな。キリスト教を抜いたところで、日本を尊び、日本を愛しているか、を問いたいですね。私はキリスト者である以前に日本人ですので。戦争についても日本には日本の言い分があると思うけれど、やはり敗戦という事実は、民族的なおごりや日本的な精神を逸脱したための「神の鉄槌」という意味があると思います。折口信夫の「神敗れたもう」のような見方に、宗教は違えど信仰者としての真摯な捉え方があるように思います。

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