教会は政府ではない

(前記事「左から右に揺れる教会」の続き)

ブログ「教会の使命と福音の本質」で紹介した二つの冊子は、今の日本の教会にとって死活的な問題が提起されており、私はどの信者さんにも一読をぜひお薦めしたいものです。

必要なことはただ一つ ~多元社会を生きる教会の役割~

ただキリストを伝えよう ~教会が宣べ伝える唯一の福音~

著者は日本基督教団の教会を牧会しておられる方で、前記事で言及した「主流派」の中におられる方です。ですから、各所で私たち福音主義とは異なる見方も出てきます。しかし、むしろ主流派の中におられる方だからこそ、今、福音派が入り込んでしまっているその行き着くところの暗部、隘路を熟知しておられます。主流派の中から、むしろ福音派以上に福音を固持する姿勢を見ることができる良書です。

そこには、「政治」についても大きく取り上げています。とても重要なので長文引用させていただきます。(太字などの強調部分は私によるものです。)①の冊子から・・

教会は政府ではない

政治と教会

「政治と教会」というテーマは、非常に古いものです。西暦313年にミラノ勅令が発布され、それまで迫害されていた教会は、コンスタンティヌス帝の政策により、ローマ帝国の公認を受けることとなりました。迫害の時代が終わったと同時に、そこで教会が権力を握る時代が始まりました。西洋の中世は、「王権と教権」の衝突の繰り返しでした。カトリック教会の教皇は政治的にも非常に大きな力を持っていたのです。教皇が王を屈服させた「カノッサの屈辱」はあまりに有名です。

ところが、宗教改革が起こり、宗教が一つの要因になって戦争も起こりました。そうしたなかで、迫害も含めて非常に多くの血が流され、だんだんと宗教と政治を分離する、という方向に世界は動いていきました。特にアメリカでは信教の自由と同時に政教分離の思想が発達し、現代では多くの国でこれが実施されています。日本も政教分離を基本的には受け入れているのです。

政教分離は、「政府は宗教の事柄には関与しない」ということです。政府、行政としては宗教の事柄に関わらない。優遇も冷遇もしない。当然国教も定めない。もちろん、宗教に法人格を与える意味での宗教法人の法律などにおいては政府も宗教を規定してくるのですが、宗教的なことについては一切触れない、ということです。

政府がある宗教を特別に優遇したり、場合によっては国教化すると、その「国教」ではない宗教を信じている、もしくは信じたい国民は冷遇・迫害されたり、極端な場合には「非国民」的な扱いを受けることになります。こうしたことを回避するため、政府は宗教から自らを分離して、完全にこの世の事柄に自分を限定するのです。そうすることで、宗教については国民が自分の良心に従って自由に選択できる、という自由を与えることになります。これが信教の自由、政教分離の意味でしょう。

しかし、注意すべきは、これは政府の側の基本的な姿勢を規定している、ということです。政府が、「私は宗教には関与しない」と自分について言っているわけです。つまり、宗教の側がどうするかについてはなにも言っていません。政府としては、宗教の側が政治活動してもよいかどうかについては、規定していません。禁じているわけでもありません。だから、宗教が政治活動をすることそのものは、法律的には容認されています。

ここから、一つの問題が生まれます。教会は政治活動すべきでしょうか。してよいのでしょうか。それともすべきではないのでしょうか。

政治活動をする教会

現代の多くの教会が、政治的な活動に関与しています。国が定めた法律についての学習会を行うことがあります。また、特定の法律制定への反対の署名活動をすることがあります。また、原発ゼロを推進する活動をしている教会があります。基地反対の座り込みにみんなで出かけて行く教会もあります。貧困と戦う、ということで経済問題に取り組む教会もあります。こうした、様々な政治的な活動を教会がしている、という場合が多くあるのです。

これらの多くの政治的問題は、確かに教会が抱く世界観や価値観からして、積極的に声をあげていくべきテーマであることが多いものです。教会が貧困のなかで苦しむ人々を助けたい、と願うのは自然なことですし、「あらゆる貪欲を警戒しなさい」と言われた主イエスの精神で、原発に反対するというのも筋が通っているように思えます。また、例えば信教の自由を脅かすようなことが国会で議論されているときに、黙って静観するのも正しくないように思えます。

こうした色々な政治的テーマは、キリスト者の世界観からすれば、確かに積極的に関与すべきだ、という風に思えます。こうした課題を解決して、この世で証しを立てるのがキリスト者の使命だ、ということを考えるのは自然なことでしょう。かえって、政治活動をしないで礼拝だけしているという態度の方が、この世から置き去りにされた離れ小島で、この世ではなにも通用しない独りよがりな思いに耽っているだけだ、と批判すべき事柄のように思えてくるかもしれません。教会が政治のいろいろな側面について興味を持つのは、教会が主イエス・キリストにある価値観や世界観を伝えている側面がある以上、避けることができないことのように思えるのです。

だから、政治に対してどんどん発言し、積極的に関与し、国を正しい方向に導く責任がキリスト者にある、ということである以上、政治的活動をすることは正しいと考えてもまったくおかしくはありません。事実、そうした考えで政治に関わる多くの教会があるのです。

キリスト者の政治的信条の多様さ

しかし、キリスト者個人に目を向けてみたとき、キリスト者の政治的な信条はどうでしょうか。ある傾向性があるのでしょうか。それとも、かなり多様なのでしょうか。それを考えてみると、キリスト者の政治的な思想や信条は、かなり多様なものがある、ということに気づくのです。キリスト者であっても、非常に保守的な人もいれば、進歩的な人もいます。右寄りの人も左寄りの人もいるのです。個々の政治的課題について意見を聞いたら、「すべてのキリスト者はこの課題についてこう考えるのだ」と画一的に規定できる部分もある程度はあるでしょうけれども、しかし多くの課題についてキリスト者の政治的見解は一致しません。信仰においては一致していても、政治のことを議論したら、場合によっては大きな対立が出てくることもあります。「キリスト者」は、キリストにおける信仰において一致しているのですが、しかし政治的には個性が豊かで、多様です。このことをしっかりと受け止める必要があります。政治的課題について「キリスト者はこう考えるべきだし、こう考えているのだ」という風に画一的に言うことができるものはそんなに多くはないのです。

「教会として」の政治活動?

すると、教会はかなりの程度、個々ばらばらな政治的見解を持った人々から成り立っているのです。そこには画一性ではなく、多様性があります。

もしそうであれば、教会の役員会や総会で政治的課題についてある特定の見解を出し、それを「教会として」という形で主体的に行っていくと、教会のなかにはだれかが、役員会や総会で決められた政治的見解には賛同できない人が出てきます。すると、信仰ではない部分で、そうした人々をつまずかせたり、ひどい場合には教会の分裂にまで発展する危険があります。

教会は歴史的に、信仰の面ではある意味分裂を繰り返してきました。ある信仰的な信条において一致できないときには、分裂することで自らの信じるところを貫く、という形でプロテスタントには多様な教派が形成されてきたのです。それは、プロテスタントの性質として避けることができない面があったのです。しかし、教会が政治的問題で分裂するという場合には、その政治的問題に教会が関与しなければまったく存在しなかった分裂です。つまり、分裂する必要がないのに分裂してしまう、そういう意味で徹底的に悲劇的で非建設的な分裂です。

これは、教会を壊す意味しか持たないものなのです。

教会が教会として政治活動を行うときには、このような危険がつきまとってくるのです。個々のキリスト者の政治的見解の多様性を無視したところから、このような危険が生じてきます。

更なる危険

そればかりか、更に致命的な危険があります。それは、礼拝がおろそかになる、という危険です。社会活動を推し進めるとき、それに加わる人に避けることができない形で起こって来るのは、「日々政治問題のことばかり考えてしまう」ということです。普段の考えが政治のこと、この世のことで占められてしまいます。すると、主イエスの救いの御業や、聖書の御言葉、説教のこと、教会形成、神学、こういったすべてがだんだん遠くに霞んでくるのです。こうした信仰に関わることの重要度が、だんだん知らないうちに落ちてきます。そして国家をなんとかする働きの方が、主イエスの事柄に関わるよりもエキサイティングで、やりがいのある仕事のように思えてきます。すると、礼拝や祈り、といったことに対する熱意も失われてきます。こうして、政治活動に深く関与すればするほど、多くの場合この世の力に影響されて、信仰が薄れてきてしまうのです

政治と宗教

政治と宗教の本質的な役割の違いはなんなのでしょうか。政治も宗教も、「秩序を認識してそれを守り、安定を求める」という働きの面では、実はよく似ています。政治は基本的に社会の状況に向き合いながら法律を定め、それを実施することで国家を無秩序から守ろうとします。宗教は人格や心の面にある秩序を理解し、個人がその秩序に即して生きることで人格的に安定して生きることができるようにします。政治は目に見える地上に属する事柄に秩序形成をしていきますが、宗教は人格・心の世界の秩序形成をしていくのです。

このように、両者はそれぞれ、取り組む領域が完全に異なっています。そして、そのことによって政治と宗教は秩序形成の仕方に大きな違いが出てきます。

政治のやり方

政治では地上の事柄に秩序を形成し、国家の安定をはかろうとします。秩序を作って行くには、必ずそこになんらかの力が必要です。政府に人を強制できるなんらかの力がなければ、秩序形成は最初から不可能です。そして、政治は地上の秩序形成に関与していますので、政治で用いられる力は物質を動かすことができる力になります。

最も政治に関わりの深い力は、「暴力」です。つまり、軍隊や警察、武器や兵器です。人類の歴史は戦争の歴史でもありましたが、支配者がなぜ人を支配できるのかといえば、軍隊を持っていることで大きな暴力を行使できるからです。これにより、外敵の侵略から国を守り、内乱が起これば鎮圧することで国を安定させようとします。また、この力によって法律を犯した人を罰するのです。これが政治の秩序形成の最も基本に当たるのです。政府は公認された暴力を行使することで、秩序を保つ働きをするのです。パウロの記したローマの信徒への手紙第13章4節以下にこうあります。「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」政治の最も基本の部分には、暴力があるのです。公認された暴力なしに政府はありえません。

また政治の力として「お金」があります。つまり、国民から税金を取り立てることによって、そのお金を使って秩序を維持し、国を安定させる働きをするのです。絶対に必要だけれども、政府がしないとだれもしないような事業がこの世にはあります。そうした、民間ではすることができないような事業を、政府がすることが必要になります。それらをするには人材・教育・設備などいろいろなものが必要ですから、税金を徴収することでそれらをしていくのです。

最後に、政治の力として「言葉」があります。つまり、政治は言葉をもってある特定の思想やイデオロギー、情報などを発信することで秩序形成をしようとします。政治における言葉は、それだけでも巨大なテーマですので、ここで深入りすることはできませんが、政治は言葉の力を行使することで、選挙でも、国会でも、あらゆる場面で議論を通じて秩序を模索し、形成し、国の安定化をもたらそうとするのです。討論したり、批判し合ったり、場合によっては攻撃し合ったり、そういったことをくり返しながら、全体としてよりよい方向を模索していくのです。

以上の力を使いながら政治は秩序形成に関わるのですが、しかしこうした力の性格上、政治は必ず「終わりのない戦い」という形になります。暴力でも、お金でも、言葉でも、あらゆる面で国家と国家が、政党と政党が、政治家と政治家が、また国民と政治とが戦いながら、そのぶつかり合いのなかで秩序を生みだしていく、ということになるのです。

宗教のやり方

こうした政治に対して、宗教はどんなやり方で秩序形成をするのでしょうか。ここでは一応「宗教」をキリスト教信仰に限りますけれども、キリスト教信仰では地上に属している部分といったら、土地や会堂、聖書や賛美歌くらいかもしれません。この信仰において大切なのは、こうしたものではなく、むしろ礼拝に出席する人々の内面・人格・心に活力が満たされ、生きる筋道や生き方についてよい理解が与えられることです。こうした目には見えない部分こそが最も大切であって、目に見える部分はそれを実現するための道具に過ぎません。

キリスト教信仰においても、礼拝出席者の人格や心に秩序が生まれて安定していくためには、「力」が必要になります。こうした力に満ちた礼拝がよい礼拝であるのですが、この力とは「神の力・信仰の力」です。目に見えないので特定することはできないのですが、聖書の御言葉、祈り、讃美歌、説教、こうしたすべてが礼拝でなされていくとき、会衆の心が確かに神の働きによって、神の力・信仰の力で満たされていくのです。こうして神からの力を受けることで元気になって、神によって教えられている生き方を身に着け、神が示しておられる道に進んでいく。こうした形で、一人ひとりの人生に神による秩序が形成されて、人生が神によって安定させられていく。これにより、神と人に喜ばれる歩みをすることができるようにされていく。これがキリスト教信仰です。

この「神の力・信仰の力」は礼拝のリアリティーのなかで、「言葉」を通して与えられます。しかし、この言葉は政治における言葉とはまったく性質が違います。政治の言葉は人間同士が交わす戦いと交渉の言葉ですが、信仰の言葉は神と人の間で交わされる平和の言葉なのです。キリスト教信仰は、聖書の言葉、信仰の言葉、祈りの言葉に集中することで成り立ちます。これらの言葉が信仰のすべての基本をなしているのです。こうした言葉が神の恵みによって輝いていることが、キリスト教信仰の命そのものなのです。

二つの原理

政治は「闘争・交渉」を通して地上の秩序をもたらします。政治は、政府を運営するうえでの特定の主義主張をめぐって政党や政治家が闘争・交渉をくり返し、最良の政策を求め、実施します。また他国との外交的な闘争・交渉をすることで、国益をはかっていきます。政治においては、あくまで国益優先になります。自らの国家の秩序と安定のための働きなのです。これは、ある意味では国家による自己愛に通じるものであって、聖書の隣人愛の精神とは別の原理です。各国の政治は、どこまでも国家による自己愛を貫いていかざるをえません。しかし、ただあまりに貫いていたら戦争になるだけですので、他国との交渉をすることで、互いに妥協を重ねながら、互いに共存する道を探って行くことになります。しかし、根本において政治の目的は国益以外のものではありません。

信仰は「礼拝」を通して人格の秩序をもたらします。信仰は、礼拝を通して神の恵みにあずかり、心に神への愛と隣人愛を受けます。そして、この神からの力に基づいて、考え方・生き方を形成していきます。これによって、生きる基盤と意味が与えられ、与えられた生涯がより確固としたものされ、人格が形成されていくのです。

政治と信仰の両者は、扱っている領域が違うため、互いに接することはなく、平行線をたどるものです。政治が信仰に口出しすれば、自らの分をわきまえない間違いとなりますし、信仰も政治にのめり込めば、自らの本分を忘れて神への不忠実になります。基本的に、政治は「国家としてどうあるべきか」という問題を扱い、信仰は「個人としてどうあるべきか」を問題としています。

本当に政治において国を動かそうと思ったら、それは宗教の原理ではできません。信仰が語っているような「愛」や「赦し」や「平和」という事柄と、政治の本質とは矛盾しているところが多くあるからです。政治は、時に愛や平和に完全に背くようなことをしてでも、地上に秩序をもたらそうとする性格を持っているのです。人類が罪に染まっている以上、罪ある人間達の間に地上の秩序をもたらそうとすれば、愛や赦しだけでは政治はできないのです。下手に隣人愛の精神を表面的な形で政治に持ち込めば、政治はかえって混乱します。

また、宗教を政治的にしていったら、宗教は本質を失って行きます。教会が政治的になればなるほど、礼拝による人格形成と神の平和、ということとは反対の性質のなかに落ち込んでいってしまうのです。

だから、この両者はまったく区別して、両者は別の原理に従って動いているものであることを承認する必要があります。政治を宗教的にするのも、宗教を政治的にするのも、自らの本質への背信行為になるのです。政治は政治的にしなくてはなりませんし、宗教は宗教的にしてこそ、両者の本質に即した役割を果たすことができるのです。

教会の政治への発言

現代では教会は政治に対して、いろいろな意見を言っています。教会として、キリスト者として政治を批判したり、政府の政策や国会での議論について意見したりするのです。これを、そうした発言をする人々は「預言者的働き・見張りの務め」という形で自らのしていることを理解しています。政治の動きに目を光らせて、悪いところがあったのなら積極的に批判していくことがキリスト者の義務である、というのです。

これをするのには、不当な時と、正当な時があります。

不当な時というのは、宗教的価値観・世界観を押し付ける形で政治を批判する時です。キリスト教的な価値観・世界観から政治を見たら、多くの部分で合致していなくて当然なのです。宗教の目で政治を見たら、おかしく見えるのは当たり前です。この両者は別の原理で動いているからです。政治の世界を宗教的に見たら、赦しも隣人愛も世界平和も人類の幸せも、場合によってはまったく踏みにじられ、まったく否定されているように見えるでしょう。だから、腹が立って批判してしまうのです。しかし、それはこの二つがまったく違う原理に立っているところからくるもので、政治を見るときには、もっと政治的に理解し、政治的に批判しないとほとんど意味をなしませんし、本当に建設的な批判にはなりません。これは、宗教の方が自らの分を越えてしまっている例です。

正当な時というのは、政府が宗教のことに口出ししたり、宗教を圧迫したり、宗教に介入しようとしてきた時です。こうした時には、積極的に批判を展開していく必要があります。これは政府が自らの分を越えてしまっていることなのです。この場合には、キリスト者の政治的意見は、政府に自らの分を守らせるということで一致しています。政府は、宗教からは自らを完全に隔てておく責任があります。ところが、時に政府は宗教に良きにつけ悪しきにつけ、介入してこようとする時があるのです。ある宗教を優遇したり、ひどい時には国教化したり、また別の宗教を冷遇し、迫害したりしてきた歴史があります。だから、政府が自らのところに引かれた一線を踏み越えようとしている時には、教会はどんどん批判し、発言していく責任があるのです。もちろん、礼拝を第一に重んじるという態度のもとにおいてですが、政府には政府の領分を守らせるように、宗教のところに入ってこないように、発言していくべきです。

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以上ですが、いかがでしたでしょうか?②の冊子には、さらに具体的に教会で語られる説教そのものに、政治が入り込むときの危険性について述べられています。

次に、前記事で取り上げた会の背後にある、根底の流れ、つまり「日本民族と神道に贖いの可能性を見出そう」とする誤謬について論じられたら、と願います。

(次記事:「狭き門」という開かれた戸

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