「狭き門」という開かれた戸

(前々記事「左から右に揺れる教会」前記事「教会は政府ではない」の続き)

今回のサイトの問題は、左から右に揺れる中での「教会の政治化」という問題だけでなく、信仰的、神学的な問題が横たわっています。前々回の記事で、「イスラエルという木に、個々の異邦人がキリストによって選びの民に接ぎ木されて霊的祝福を受けているという聖書的見方ではなく、民族として日本が接ぎ木されているという見方」としているという問題点を取り上げました。さらに、「「贖いの賜物」という、風土、文化、伝統や宗教の中に神が日本を贖われる素地があるのだ」という見方は誤りであるという話もしました。これが、彼らの右翼思想をキリスト教的に支える基盤になっているので、じっくりと考察したいと思います。

日本において、イスラエルやユダヤへ親和的な姿勢を持つキリスト教の流れには、二つの逸脱した、異なる強い流れもあります。一つは「ユダヤ人陰謀論」です。ユダヤ関連に興味を持つとネット上で出くわすのは、陰謀論者による情報です。フリーメイソン、ロスチャイルド、イルミナティなどを、ユダヤ関連で語っています。中にはユダヤに親近感をもって取り組む人もいるですが、その元は「シオンの議定書」に代表される、ユダヤ人世界制覇の脅威から発していますので、反ユダヤになります。もう一つは「日ユ同祖論」(その1その2)です。今回取り上げた団体の人々は、こちらの流れにある人々です。日本人が失われたイスラエル十部族の末裔であるという説を信じている人々で、ユダヤ教、また東方から伝来した景教が日本の古代神道の中に反映されている、という見方であります。

日本人キリスト教徒がこの二つの説に飛びつく動機は「欧米への劣等感」です。ユダヤ人陰謀説については、日本がアメリカに従属しているとしてよく思っておらず、そのアメリカ支配を論拠づけるためにユダヤのアメリカ支配を説きます。日ユ同祖論についても、欧米のキリスト教への反発の表れであり、欧米を素通りしてそのままユダヤにつながることができ、それで欧米キリスト教に対抗できると思っているからです。これは左傾化したキリスト教にも同じように見える傾向です。私はブログ上でもずっと、「反発は依存の裏返しだ」と論じてきました。本当に自立しているのなら、自分の分をわきまえて助けを得るべき所は得る、そして彼らに感謝し、彼らを愛し、共に働くということを自然にできる。その時に、初めて対等になれることを話しました。

話を戻して、改めて前々回の記事で取り上げたサイトを見ますと、この会の実質的な運営者は一人に絞られます。推薦する書籍には、彼の主管である雑誌記事へのリンクが数多く貼られており、諸団体には彼が深く関わり、あるいは支援しているものだからです。彼の一貫して語っていることを、一つの記事を引用しつつ、なぜこれが間違っているのかを説明したいと思います。

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日本とキリスト教

私もよく思うのですが、世界のどこを見回しても見られないほど、日本は本当にユダヤに似た国だなあ、と思います。最近もユダヤ人の女性が、日本に来て非常に大きな印象を覚えた、特に神道はユダヤのものに近いと思う、とインターネットに書きこんでいました。

本当に日本は不思議な国だと思います。教会に来ている人は旧約をあまり学ばない、極端な人は「いらない」、とまで言います。しかし、私は旧約のない新約は、1階のない2階のようなものだと思います。私は知人の国際政治ジャーナリストのことを思い出します。彼はクリスチャンではないのですが、彼はこんな文章のコピーをくれました。

「もし国民を、旧約聖書の民と新約聖書の民に分けられるとするならば、日本人は前者であろう。旧約聖書では、民は神を畏れ、神を喜ばすために神に従い、貢物を捧げた。そして人々と神の間には、運命の舵を握る指導者がいた。新約になると、人々と神の関係は、個人と神の対決へと変り、西洋の個人主義の根底をなす個人の良心が確立させるようになる。私は旧約の時代の方を好んでいる。日本人の精神風土には、神にすがるとか、神様任せ、という人生態度が強い。」云々…

ということを書いています。これは、私も同感する部分がかなりあります。日本人は、旧約聖書的な民だと思います。私達は日本人のままでクリスチャンになることが大事だと思います。

西洋人になってから、クリスチャンになることはないのです。もともと聖書はヘブライズムです。ユダヤ人は過去の伝統を非常に重んじます。伝統を否定されると、決して信仰に入りません。日本人もそうでしょ。確かに日本は偶像的な面もあります。しかし、日本の伝統は真のキリスト教の敵ではないのです。むしろ、キリスト教を育てる為の「養育係」になり得るのです。神道でも仏教でも、そこにキリスト教を接ぎ木させるならば、全体がキリスト教になり得るのです。

ここに、渋柿があるとしますね。渋柿ばっかり実ってどうしようもない、と思って切り倒そうとするのが、西洋のキリスト教です。でも、もっと賢い方法があるのです。甘柿を接ぎ木するんですよ。すると翌年は全部、甘柿になってしまう。日本の伝統を渋柿みたいに思っても、そこに本当のキリスト教を接ぎ木すれば、全部甘柿に変えることが出来るんです。
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福音を拒むという点で似ている

著者は、まず、日本人とユダヤ人が似ていると話しています。興味深いことに、同じように似ているというコメントを残したユダヤ人クリスチャンと交わったことがあります。2010年のイスラエル旅行での出来事のことです。

ジョアンさんは、日本の自然の美しさ、人々の秩序正しさ、親切などに感動を受けましたが、非常に興味を持ったのは、「日本人とユダヤ人は信仰を持つことについて、同じ葛藤を通る。」ということでした。よく考えてみると、まったくその通りです。つまり、自分が日本人であることを信仰を持つことによって、なくしてしまうのではないかという懸念です。いつもは無宗教である人が、いざクリスチャンになるかどうか真剣に考えると、「先祖の墓はどうする?」など宗教的になります。これが、世俗的ユダヤ人がイエス様のことを考えると急に自分のユダヤ性を考え始め、心配するとのことです。似たような決意と献身が、信仰に必要です。

このジョアンさんの分かち合いには、私が前々記事で説明した「一般啓示」と「特別啓示」の違いを上手に説明しています。日本は本当に美しい国だということ、これは神の与えられた尊い賜物です。けれども、その自然啓示が神の贖いを全く保証してしないということ。むしろ、神の賜物に富んでいるがゆえに、神のものと思わずそれが自分のものであるという肉の誇りとなり、生ける神につながることを拒むという矛盾にぶち当たるのです。旧約聖書には、そうしたイスラエルの心の頑なさが一貫して描かれており、神から遣わされた預言者を受け入れず、迫害した先祖たちがいるのです。神の選びの民でさえ、神の一方的な慈しみがあって初めて救われるのだということを示し、それを成就させたのがイエスご自身であり、新約聖書に明示されているのです。旧約から一貫して、神が問題視されていたのは肉の誇りでした。

日本も同じです。その美しさのゆえに肉の誇りがあり、イエス様の言われた過激な言葉「心の貧しい者は幸いです」という福音の言葉の挑戦を受けるのです。(「心の貧しさ」とは、自分には全く良いものがない、もうだめだ、災いだ、という状態のことを指します。)自分自身がどうしようもなく罪人だ、神さま憐れんでください、と胸を打つ、ユダヤ人の取税人、この謙虚さと信仰が神に義とみなされます。これは、あらゆるメシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)がイエスをメシヤとして信じ、受け入れる時に通っていることであり、異邦人と全く変わりません。

ですから、一般啓示に神の贖いはありません。アダムの犯した罪によって、土地は呪われたものとなっているのです。日本人の民族性に、神に贖われるべき素質は何もないのです。善を行なう人は誰一人いないと旧約・新約聖書両者で明言されている通りです。贖いは特別啓示、すなわち、この世に来られ、十字架で死なれたキリストのみができることです。

旧約聖書も個人的

そして、旧約聖書と違って新約聖書は個人主義的であるという点についてですが、聖書本文の基本的な読み間違えです。旧約聖書も一貫して、集団に対して抗う個々人の信仰が描かれています。ヘブル11章の注釈を読めば自ずと分かります、アベルから始まり、エノク、ノア、そしてアブラハム、イサク、ヤコブ、彼らはみな、厳しい、神との出会いを単独でしています。そしてヨセフは、「兄たちから拒まれた」という苦渋を味わいます。その後、神はモーセを立て上げられました。彼もまた、「イスラエル人」から認められないという痛みを受けます。ヨシュアもそう、士師たちもそう、そしてダビデは主君サウルに迫害されて、追われる身となりました。彼の書いた詩篇は、「我が神」「我が巌」「神は私の味方」と、これほど徹底して個人的な神との関わりを激しく表しているものはありません。(使徒7章のステパノの説教も参照)

むしろ、イスラエルの民全体に抗うようにして、神との関係を持たねばならなかった辛さを旧約聖書は描いています。西洋の個人主義はそのようなものがありません。西洋では「私は私、あなたはあなた」という個人が尊重されるからです。しかし、それは聖書には個が強調されていないということではなく、むしろ「全体の中にあなたがいるからこそ、そこから出ていきなさい」という、もっと厳しい個の確立を迫っているのです。ですから西洋人に理解できぬ「憎しむ」という言葉が、イエスを愛する弟子たちに使われるのです。父、母、兄弟、子を憎んで、自分の命さえ憎まなければ、わたしの弟子になることはできないという言葉です。そして、イエスの言葉を聞き、それを保つ者こそが、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだと、肉の家族に対抗する霊の家族という共同体につながる献身をします。

これもまた、ユダヤ人や他の非西洋人に共通する課題でしょう。イエスを信じると、家族から共同体から村八分にされるのです。

いのちを失う者が、それを救う

イエス様は「狭い門」から入りなさい、と言われました。それは、その言葉の与える偏狭的な意味合いとは異なり、それこそが恵みの現れなのです。イエスこそが神の国に入る門であり、それ以外に救いはないという意味です。自分は全くダメなのだと分かっている者に、イエスが「だから、わたしを信じなさい。わたしのところに来なさい。あなたの罪は赦された。立ち上がりなさい。」と声をかけてくださるのです。狭い門とは人を締めだしている門ではありません、自分で心を窮屈にしている狭さなのです。子供のようにへりくだって近づくことができず、自分の内にある何かによって、自分の可能性や潜在性によって、自分の行為によって救われたいとする意思がその人を門に近づかせないようにしています。

しかし、自分には何ら救われるべき良いものが残されていないことが分かって、初めて「私のための、イエスが付けられた十字架」があり、「罪に死んだ私が、よみがえられたキリストと共によみがえる」という復活の恵みにあずかるのです。矛盾するのですが、自分に死んだ者がかえって生きるというのが福音であり、肉の誇りとなっているところに接ぎ木するのではないのです。

したがって、イエス様の過激にも思える排他性のある言葉が、むしろ人々を引きつける力となりました。イエス様のところに大勢の弟子たちが付いていき、群衆も付いていきました。しかし、十字架では誰もイエスに付いてくる者はいませんでしたが、その後、イエスだけが救いの名であると宣べ伝える弟子たちに、むしろその言葉を信じるユダヤ人たちが大勢、現われたのです。「狭き門」は、実は誰でも生ける水を飲む者は、飲んで飲みなさいという、広く開かれた呼びかけそのものなのです。

「狭い」からこそ「広い」のです。これが福音です。十字架と復活という奥義がその矛盾を解消しています。妥協しないからこそ、福音が広く、多くの人々に伝わります。

「民族」という単位

このようにして、キリストにだけある個が確立すると、だからこそ初めて、神が私たちを日本人として生まれさせてくださった、その賜物と使命を全うすることができます。これまた矛盾するのですが、私たちは日本人である前に「キリスト者」です。そしてキリスト者であるという個を確立すると、むしろ、「日本人という民族性」が清められ神の栄光を輝かせます。例えば、美しい自然は、それを祭るのではなく創造主への礼拝に向けるから、この風土が輝きます。先祖供養を個人で拒むからこそ、真実に、自分を生んでくれた先祖を敬うことができるのです。日本人にある(どの国の人にもありますが)肉の誇りを捨てるからこそ、かえって日本人として生まれてきたことを神に感謝し、誇りに思うことができるのです。

私個人の話をしますと、クリスチャンになる時、まだ19歳と若いのに親を裏切るのではないか、先祖の墓をどうするのか?という疑問が生まれました。それを拒み、イエス様だけを主にしました。そして両親は十数年前に救われ、実家に戻った時、一年前でしょうか父から救いの証しを聞きました。前からも聞いていましたが、父が早く亡くした両親(つまり私の祖父母)の話をしてくれ、私はそのルーツにある神の憐れみを思い、涙が少し出てきました。先祖の墓を守ると思った時の思いは、ただ「伝統」だけを守らなければいう面子に近いものでした。しかし、父も心を割ることがき、私もそれを聞く余裕ができたのは共にキリストを主と受け入れたからであり、それで初めて、写真だけしか見たことのない祖父母のことを心から偲ぶことができたのです。本当に伝統や歴史を敬えるのは、神に愛され、すべてのことを益に変えておられるという信仰があるからこそできることなのではないでしょうか?伝統や歴史を敬ったらキリストに出会えるのではありません、その反対です。

聖書によれば、私たちは、すべての民族、国、言語、部族から、キリストの血潮の贖いによって神の民とされた者たちです。しかし、その一つの民とされた者たちは、かの世においてもそれぞれの民族という単位は存在するのです。(黙示5:9、21:24など)ちなみに、ユダヤ人は言わずもがなで、新しいエルサレムの都には、イスラエル十二部族の名が記されています。

接ぎ木するのは「キリスト教」ではない

最も違和感のあったのは、最後の「接ぎ木」の喩えです。接ぎ木されるのは反対でしょう、と言いたい。キリストに個々人がつながるからこそ、神道や仏教の中で本来求めていたこと、すなわち神道であれば、「身の清め、祭りの喜び、人々との一体感」、仏教であれば「物欲からの解脱、涅槃」、こういったものがキリストにあって満ち足ります。神道も仏教もたしかに、神を求めているその飢え渇きを表しています。しかし、それはキリストのあってのみ完成するのです。

そもそも、私たちが接ぎ木するのは「キリスト」なのでしょうか?西洋のキリスト教を批判しながら、実は自らもキリストご自身ではなく、また新たな宗教体を押し付けようとしているのではないでしょうか?「十字架につけられたキリスト」という人格神ではなく、従来の仏教や神道に埋没した形での、もやもやとした精神像になってしまってはいないでしょうか?

キリストに接ぎ木されるからこそ、私たちに与えられた贖いが始まります。個がつながっているからこそ、全体が清められます。イエスにつながっているから、実が結ばれるのです。

先日、あるご夫婦からとても尊い証しを聞けました。先祖から受け継いでいる大きな伝統的家屋があるのですが、そこにあった仏壇など、数多くの異教の要素を取り除くことができました。そこは霊的にとてもすっきりしているとのことです。では、私たちはそれを洋風の家屋に改修工事するのでしょうか?いいえ、その場所をキリストをあがめるために用いられる器にしたいと願っており、西洋化する必要はまったくありません。むしろ、そのままで神の栄光を表すのです。

多彩な天国・千年王国

私は、主が戻ってこられた時の贖われた地を見るのが楽しみです。それはもはや、私たちの想像する欧米式の教会堂ではないでしょう。それぞれの贖われた、民族性も持ち合わせた構成員が、そのままキリストの御座まで来て、ひれ伏す光景であります。今でも、二か国以上のキリスト者が相集まって主を賛美し、礼拝する時に、なんと麗しいでしょうか、「多様性の中の一致」を見ることができるのです。天に近づく特別な体験をします。再臨後の神の国においても、多彩な色を出している姿を見ることができるしょう。そして、エルサレムでは、贖われたイスラエルがへりくだった姿で神に、そして人々に仕え、世界の人々がキリストを文字通り王として礼拝し、賛美するのです。

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