私たちは、2016年にイスラエル・ヨルダン旅行を企画していますが(現在募集中です!)、今起こっている数々のテロ事件を見るにつけ、心が痛み、張り裂けそうになります。特にその中に、宗教的ユダヤ人の姿が出てきます。私たちも2008年のイスラエル旅行で会ったのことのある、第三神殿を祈り求めるラビ・グリックの暗殺未遂が10月末にあり、エルサレムの通りで車の突っ込みで弾かれて言った人たちに、正当派ユダヤ教徒がおり、そして18日、ユダヤ教超正統派のシナゴーグ襲撃がありました。彼らの祈祷書が血まみれになっているその凄惨な写真を見た時(写真1・写真2)、まるでホロコースト前から起こっていたヨーロッパの反ユダヤ主義、ユダヤ人に対する流血事件を想起させました。私の心の中で何かが抜けたような感じがしました。
事件の内容は、「オリーブ山便り」10月下旬辺りから読まれるとよいかと思います。襲撃事件は、11月18日の記事から始まっています。今朝、フェイスブックに掲載した記事をこちらにもご紹介します。
Politics Can’t Explain the Israeli Synagogue Attack. Only Hatred Can.
(政治はイスラエル人シナゴーグの襲撃を説明できない。憎悪だけができる。)
ユダヤ教礼拝所における襲撃は、死者が五人になりました。最初にかけつけた警官のうち一人がお亡くなりになったそうです。彼は、妻子のあるドルーズの方です。確か、この前の赤ん坊がなくなった車突っ込みテロにおいても、そこで死んだ国境警備隊はドルーズの方でした。
ドルーズというのは、宗教なのですがイスラム教からの亜流でイスラム教の人たちからは異端、あるいはイスラムではないと言われています。民族的にはアラブ人なのですが、この宗教の違いでイスラエルでは他の少数民族として数えられています。シリアとイスラエル北部に住んでいます。イスラエルではカルメル山のところと、ゴラン高原北部に多くいます。そしてドルーズ教には、自分の住む国に忠誠を誓う教えがあるそうです。ですから彼らは大方イスラエルに忠誠を誓っており、従軍もします。
数日前、ドルーズ人と他のアラブ人との間で、40人以上が重軽傷に発展した衝突がありました。元を正すと、今の衝突はパレスチナのガザ地区、西岸のパレスチナ人とイスラエルの間の衝突ではないのです。六日戦争後イスラエルが併合した東エルサレムからのもので、また、イスラエル北部にいる国籍を持っているアラブ人によって起こっているものです。
イスラエルという国は、あまりにも価値観の異なる、いろいろな人が複雑に入り組んだ、あのエルサレム旧市街の四つの地区が象徴しているモザイクのような国です。けれども、驚くように共存しているという印象を私はずっと持っていました。ユダヤ人の中でも超正統派は、福音書のパリサイ派を彷彿させる人たちですが、世俗派の中にはクリスチャンとして、いや日本人の一般的倫理観からしても、目の当てられないリベラルさを持っている人たちもいて、よくこんなにも違くなれるのかなあ、と不思議になります。
ですか今、アラブ人の間でも衝突があるほど、この差異の間に悲しみ、やるせなさ、不信感、そして憎悪が出てきました。
私は超正統派の人たちに対して、正直告白しますと、良い感情を持っていませんでした。町を歩いていて、世俗的な人は中国人だとか言って声をかけるのですが、私は気分が悪くならずむしろアジア人に興味を持ってくれることが嬉しいです。けれども、超正統派の人たちは、目の前にいるのにまるでいないかのように何かに集中しています。人との交流が見えません。律法を守るのにとても忙しいのかな?と思います。
けれども、今回の襲撃事件で、「ああそうなのだ」と彼らの、良い意味での宗教性を感じました。それは、ハアレツ紙という新聞記事に載っていましたが、彼らは悲しんでいるけれども、復讐心はないということです。警官が来て、何か暴動が起こるための備えをしていたそうですけれども、そんな雰囲気ではなかったとのことです。悲しみますが、復讐は神に任せるという姿勢です。街でデモを起こした人たちがいますが、彼らと超正統派の人たちは違います。日本人に伝わるように例えると、津波によって家族が死んだと言う時の悲しみに近く、原発事故による怒りを越えてしまっている、という感じでしょうか?
次の日には同じところで、再び朝の祈祷を始めたそうです。
ちなみに、超正統派の人たちは現代世俗国家イスラエルを信じていません。メシヤの到来がイスラエルを回復させると信じているからです。神殿の丘で祈りを捧げるという人々はユダヤ教の中では、ちょっと変じゃない?と思われています。なぜなら、神殿回復はメシヤの到来によってもたらされるというのがその教えだからです。神殿の丘には、間違って聖所に立ち入ってそこを踏みつけてしまうかもしれないと考えるから入ってはならないと教えます。そして超正統派は、政府からの免除で、兵役にもついていません。さらに、この超正統派の住んでいる地域はエルサレムでの西の端、小高い丘のところに位置します。東エルサレムの反対側にあるのです。ですから、シェア元の記事にあるように、彼らはパレスチナの大義のために死ななければならない人から、最も遠い人のはずです。
ところが、この黒ずくめの祈っている格好が”象徴的に”テロの対象となりました。
「神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。(詩篇61:1‐2)」
ネタニヤフ首相など指導者が、いろいろな対策を講じようとしています。けれども、単にテロリストの家を破壊するというような物理的な手段は、基本的には対アラブに対する実際的効力を持ってきたのでしょうが、それも通用しなくなっているのではないか?あるいは対話するとか、交渉するとか、そういった政治的な手段も説得力がなくなっています。そうしたリソース(人間のできる可能性)が尽きているのではないか、と思います。神が介在されなければ、いけないのではないかと思います。自分たちの及びがたいほどの高い岩に、主なる神が私たちを導かれる時に来ているのではないかと思います。
私たちの教会の兄弟姉妹が、間もなくイスラエル旅行に旅立ちます。そのことも含めて、エルサレムの平和のために祈っています。
ユダヤ教会堂襲撃事件で、殺された四人のラビの遺族が、次の嘆願の手紙を書いています。心を打ちます。(涙)
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私たちの家族のかしら、聖なる人たちの流された血のことを思って、心が裂かれ、涙に浸されております。
私たちの兄弟たちに、どこにいようとも、天からの慈しみがあるように、個々の間に、それぞれの共同体に、愛と善意の増加を自らに受け入れるよう、一致団結しようではありませんか。
この安息日の前夜(2014年11月21‐22日)、その安息日を無条件の愛の日として、不同意や分裂の言葉を控える日、陰口や中傷の言葉を控える日として、別とうではありませんか。
このことが、神の御名を聖め別ちつつ、惨殺された私たちの夫、父の魂が引き上げられることにつながりますように。
神が天から見下ろし、私たちの苦しみを見、涙を拭い去り、私たちの患難を終わらせてくださいますように。
メシヤの速やかな到来を私たちの時代に見るに預かることができますように。アーメン。
引き裂かれた心で署名いたします、
Mrs. Chaya Levin and family
Mrs. Bryna Goldberg and family
Mrs. Yaacova Kupensky and family
Mrs. Bashy Twersky and family
http://unitedwithisrael.org/a-plea-from-the-families-of-the-four-slain-rabbis/
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私も祈ります。
ご遺族に神の慰めがありますように。その祈りを聞いてください。私たちの心からも陰口、中傷、分裂の心を取り去ってくださいますように、どうか平和の君キリストによって私たちの心を清めてください。
あなたのメシヤを求めている、あなたの愛された、この選ばれた民に憐れみを示し、へりくだり、死に至るまで神に忠実で、無条件の愛を十字架で示したイェシュアを知ることができますように。彼らに報いてください。