悪に対峙する勇気を - 幼児虐待から

衰弱死3歳児の腸からアルミ箔…捜査員も絶句した「育児放棄」の残酷 なぜ「予兆」は見逃されたのか

上のニュース記事について。幼児虐待の事件を聞く度に非常に心が痛みます。下の記事について、自分がちょっと平均的な日本人から離れているのでしょうか、このような事件の度に、どうしても怒りが混み上がってくることがあります。次のことです。

(虐待に気づいていた近隣住民が通報について)「「気にはなっていたが、通報までは考えなかった」と振り返り、「うちにも子供がいる。通報が知られて子供に危害を加えられたらと考えるとこわかった」とも打ち明けた。」(記事からの引用)

我々日本人の多くが、例えばアメリカで、暴力行為を働いていて、さらに危害を加えることが確証できる人に対して、警官などが射殺することに、生理的反発があります。ある程度、心情的には理解するのですが、道義的には決して同意できません。児童虐待のような弱者に対する暴力行為を見て、「無関与」や「恐れ」が、その悪を制止する行動にまさってしまうのに、非常に驚くのです。

参照ブログ:「日本人の考える平和

例えば、男が女を叩いている時、本来なら、近くに入る複数の男たちが申し合せて、一丸になってその男に対峙すればよいのです。力を持って制止、必要なら制圧すればよいのです。しかし、今の社会ではそれは望めない。(電車内痴漢では、ある程度、犯人を捕まえる意識が上がっていますが。)

こちらはアメリカでの社会実験。彼氏が彼女を叩いている時に、目撃者がどうするか?

最近、どこかの駅で、幼児を打ち叩いている母親を誰かがビデオに録って、しばらく経ってからネット上に勇気を出して掲載したら、本人である母親が警察に出頭したという事件がありました。そのネットへの掲載で、その行為をやめさせるべきだったかどうかという議論が起こっていましたが、その議論自体に私は呆れ果てました。母親が何か包丁か銃か、武器でも持っているのか?巨体な男ならまだしも・・と愕然としました。

今、もしこういう現場を見ている時には、法律上、警察や児童相談所に「通告する義務」が生じています。もはやこれは道義的な問題以上に、法律遵守の義務の問題になっています。

厚生労働省のサイトから:
「(1)  通告の対象となる子ども
子ども虐待の早期発見を図るためには、広く通告が行われることが望ましい。しかし、従来の児童虐待防止法では、通告の対象は「児童虐待を受けた児童」とされており、基本的には、子どもが虐待を受けているところを通告者が目の前で見た、あるいは子どもの体に虐待によるあざや傷があるのを見たといった児童虐待が行われていることが明白な場合が想定されていた。
このため平成16年児童虐待防止法改正法により、通告の対象が「児童虐待を受けた児童」から「児童虐待を受けたと思われる児童」に拡大された。これにより虐待の事実が必ずしも明らかでなくても、子どもの福祉に関わる専門家の知見によって児童虐待が疑われる場合はもちろんのこと、一般の人の目から見れば主観的に児童虐待があったと思うであろうという場合であれば、通告義務が生じることとなり、児童虐待の防止に資することが期待される。
なお、こうした通告については、児童虐待防止法の趣旨に基づくものであれば、それが結果として誤りであったとしても、そのことによって刑事上、民事上の責任を問われることは基本的には想定されないものと考えられる。 」

私たちはそろそろ、そのような受動的態度が神の前で悪、罪であることに気づかないといけません。神が、このような加害者に激しい怒りを持っておられることを知らないといけません。

すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。(出エジプト22:23-24)」

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