映画「神は死んだのか」

今、クリスチャンたちの間で話題となっている映画「神は死んだのか(原題:God’s Not Dead)」を見にいきました。

公式サイト(godsnotdead.jp)

神は死んだのかこれから、という方は、ぜひ、この上のサイトをじっくり隅々まで読んでいかれることをお薦めします。特に識者や専門家のコメントが私には新鮮でした。映画紹介のために依頼されたから当たり前と言えば当たり前ですが、日本人の識者がアメリカや保守的キリスト教の事情を否定的ではなく、客観的、肯定的に論評し、かつ日本人に対しても「唯一神」がおられることを擁護するような文面も見受けられることです。例えば、一部を引用します。

この作品からは、キリスト教の神の強さが伝わってくる。日本で一般的な神道や仏教の神々や仏とは違う。大事な仕事や試験の前の願掛けや、冠婚葬祭の時だけ召喚される存在ではない。一神教の神はこの世のすべてを作りあげ、この世で起こるすべてのことをコントロールする全知全能の存在である。幸福な出来事だけを感謝すれば良い存在ではないのである。
親しい人の死、自分にふりかかる災難、すべてを神の意図したこととして受け止めなければならない。信仰をもって生きてきた人がなぜ早死にするのか、なぜ若い身空で不治の病にかかるのか。そして、なぜ他人ではなく、他ならぬ自分の家族や自分自身に、そうした悲劇が起きてしまうのか。
主人公と教授の対話、そして効果的に配置された他の登場人物たちが直面する出来事を通じて、この作品では、「なぜ神がいるのにこの世に悪があるのか」「悪があるにもかかわらず、なぜ、神を信じなければならないのか」という古典的な問いに正面から切り込んでゆく。
(東京大学 死生学・応用倫理センター 博士(文学)岡本亮輔)

その他のコメントも優れているので、ぜひ読んでみてください。そしてもちろん、イントロダクションとストーリーもお読みになってから映画館に行ってみてください。

私の個人的な感想としては、「こうしたアメリカ、いやキリスト教の事情を色濃く教えてくれる映画を、よく日本に上陸させてくれたものだ。」というものです。たった二時間強の時間で、いろいろな登場人物を出して、その一つ一つの至言のような言葉をつなぎ合わせている努力を見ることができました。同時に、凝縮しすぎたので、何度も観ないとその味が出てこない哲学的な深みもある、とも言えます。

存在しない神は憎めない

この映画で映し出してくれているのは、「無神論者」殊に今の無神論者にある傾向は、「憎神論者」であるということです。主人公の学生が教授に対して、「あなたは神を憎んでいますね。」と問いかけ、渾身を込めて「ああ、憎んでいる。」と教授が答えると、学生は「あなたは、存在していない神を憎んでいる。」という言葉で討論を終えます。神が本当に存在していないのなら、憎む必要がありません。つまり、「憎んでいること自体が、神の存在を認めている」ことに他なりません。神はいないと信じているのではなく、存在している神に反抗していると言ってよいでしょう。

徹底した無関心主義

これを日本人一般に問いかけなおしてみたいです。私は日本人は「無宗教」ましてや「無神論者」ではなく、「無関神論者」であると思います。(「心」と「神」を掛けてみました。)

映画の中に中国人の留学生が出てきますが、彼は母国で無神論教育を受けてきました。一般の中国人と日本人を比べれば、前者が徹底的な実用主義者(プラグマティスト)であるのに対して、後者が人知を超えた存在、神々を深く信じていることが分かります。神道というものがそれを可能にしているのですが、日本人の歴史、国の成り立ち、日常生活の隅々まで「日本」という名によって、その多神教的、自然崇拝的信仰が強固にあります。しかし、それを教義や組織のように意識の上に挙げてくることはなく、それさえもする必要はないという(悪く言えば)怠惰に陥っているのです。そうした自分の死生観や宗教観さえ、俎上に上げようとしない「無関心」が特徴です。

だいたい、こんな会話になります。「死んだ後、どうなると思いますか?」「そんなこと、考えたことがありません。」「でも、人生、必ずその時がきますよね?」「死んだら終わりでしょう。」「でも、死後は永遠に続くんですよ。」「そんな深いこと考えるのは大変です、今を楽しく生きていけばよいのです。」

これは、まさに「神道の死生観」そのものなのです。神道においては、「死」そのものを否定します。肉体の終わりは死を意味せず、そのままカミとなります。そして神道の葬儀は、死を悼み悲しむのではなく、まだ生きているカミとの祭りになります。仏教とは違って善悪を決める道徳というものは存在せず、「楽しむ(祭り)」がその信仰の主体です。ですから、神道の死生観と世界観をただ信じているに過ぎません。しかし、自分は無宗教だと言ってしまっているのです。(参照ブログ:「伝道の時に知らなければいけない日本人の死生観」「日本人に対する伝道と弁証」)

論客が勢ぞろい

そして「おお、やってくれるな」と関心したのは、今話題の、無神論者と有神論者の科学畑の論客を出してくれていることです。出てきた名は、リチャード・ドーキンス氏とスティーブン・ホーキング氏です。どちらも、日本では著書が数多く出ており、知る人は良く知っていますが、お二人は強烈な無神論者です。(というより、映画にも出てきましたが、キリスト教の環境に育っていたため、神とキリストから脱却するというのが目的なので、「反キリスト教論者」と呼んだほうが良いでしょう。)

しかし、日本に知られていないのは、同じくイギリス人のジョン・レノックス(John Lennox)氏です。ドーキンス教授と同じくオックスフォード大学で教鞭をとっていますが、彼は有神論者でありキリスト者であります。彼についての日本語の記事は稀少ですが、その中でも次のは、無神論に対する反駁として短くまとめられています。

よくある無神論者の10の主張とそれに対する答え方(1)

彼と、ドーキンス氏の討論の様子を報告する日本語記事が下にあります。

 科学と宗教: ジョン・レノックス vs. リチャード・ドーキンスの対論を味わう

著名なクリスチャンも、本人まで!

そして、論客ではないですが、アメリカで有名な人で、リアリティー・ショー(人の日常生活を取材する番組のジャンル)のダック・ダイナスティー(Duck Dynasty)のウィリー・ロバートソン氏(Willie Robertson)本人が出てきました!彼の父、フィル・ロバートソンは、その同性愛についての発言で全米を巻き込む論争になったニュースで、当時はずっと持ちきりでした(記事)。

ちょっと考えていただきたいのですが、一般のエンタテの番組で、はっきりとイエス様への信仰を話し、イエスの名前で祈る姿を、映しているのです。アメリカでは、公の場でキリスト教信仰を、ある意味で日本以上に言わせない流れが今日あるのですが、この家族はそれに真っ向から反対の「信仰を公に言い表す」人々として注目されており、それが主人公の授業でのキリスト教の弁明にもつながっています。

さらに驚いたのは、最後にクリスチャンのバンドのコンサートの場面が出てくることです。ニューズボイズ(Newsboys)の本人たちが登場したことです(記事)。癌宣告を受けたニュース記者が、アポなしでコンサート直前の楽屋に押しかけ、一人が、「取材ではなく、自分にとって何か大切なものを求めてきたのだろう。」と言い当てる場面は圧巻です。

妥協するクリスチャン&ムスリムへの配慮

そして、映画の話の中で腹が立った場面があります。それは、主人公の彼女が、授業で教授に反証を並べることを絶対にやめろと阻止しようとする場面が出てきます。彼のロースクールへの道を閉ざしかねないとして、結婚前提で付き合っているのに、両親も反対している・・、として「誰が一番大切なの?」と詰め寄り、ついに関係破棄までしてしまいました。おいおい、クリスチャンなのに「誰が一番大切なの?」って、自分でなくて神でしょう!ここで関係が切れて、主人公によってさぞかしよかったと思いました。

けれども意外に、「常識の中で信仰を守ろう」とする妥協に、我々クリスチャンは陥りがちです。神を一番にしなければ、優先してしまっている自分の求めているものまでも、失われるというのが、イエス様がお語りになっていることです。

さらに、ムスリムの大学生の姿に、私は、もっと配慮が必要なのでは?と思いました。父親に車で学校まで連れていかれ、顔を覆うヴェールの着用を強く言いつけられている彼女は、肝心の「体を隠す」ということをしていないのです。薄い、半袖のシャツを着用していますが、これは穏健なムスリムでもしないこと。これでは伝道目的でムスリムの人に、この映画を見せることはできないな、と思いました。一般の人、クリスチャンにとっても、彼女の服装は穏やかなものでしょうが、ムスリムの人たちにとってはあれでも肌を露出しています。

けれども、彼女が隠れて、フランクリン・グラハムの伝道メッセージを聞いていたこと、そして父にそれがばれて、「私の信じている方は、神の独り子イエス・キリストです」と言った場面はよかった。そして父は、「神には息子はいない、子をお産みなさらない」というコーランの言葉を持って、彼女を勘当する場面も圧巻です。これは、実際に起こることで大袈裟なことではありません。(関連ブログ:「改めてイスラム教の紹介」

その他、苦言としては、「イエスがあなたのために十字架で死なれた」と英語でいっているところを、「神は愛しておられる」と訳している部分もあり、肝心なところはぜひ省略しないで訳してほしかった、と思うセリフもありました。

実情に即した映画

そして、映画の紹介にあるように、これは数々の大学における訴訟という事実に基づいたものです。(関連記事)キャンパスの中で、路傍伝道をしているのをやめさせられた、という類いのものであり、やはり「信仰を公にする」という課題が、この映画の主題になっています。アメリカの大学における、急進リベラル、反キリスト教の動きは、アメリカの教会では若者への伝道の中で大きな課題になっています。

あの大学教授の高圧的な態度は、実際に大学でクリスチャンが受けてもおかしくない実情を、ちょっと大げさではありますが、よく表しています。「講義室の中では私が神なのだ。お前は、この科目の落第だけでなく、専攻への道も閉ざしてやる。」という脅迫は、起こっているかも?という有り得る話です。自分の学術的主張では自由や平和、正義を唱えているのに、内部では高圧的、自由をわが物にしているという二重基準も実情を反映したものでしょう。

原作が邦訳、来年三月の予定

この原作の本、God’s Not Dead: Evidence for God in an Age of Uncertainty(神は死んでいない:不確実な時代における神の確証)が、来年三月いのちのことば社から出るとのこと。そして、本場アメリカでは、Do You Believe?(あなたは信じるか)という題名で、続編を撮影中とのことです。

 

「映画「神は死んだのか」」への5件のフィードバック

  1. Wonderful, Kiyomasa-san! 最後まで読みました!この映画は絶対に観たいです!

  2. はじめまして。
    私はラジオ伝道者の高原剛一郎という者です。
    今日、自分のブログ管理者ページを通して貴殿のブログにトラックバックされていることを知りました。そちらにアップされてから、アクセス数が随分と増えたことがわかり、感謝しております。これを機会にブログを読ませていただきましたが、我が意を得たりの内容がとても多く、またたくさんの気づきをいただきました。日本に貴殿のような器が起こされていることを知り大いに励まされ、主をほめたたえました。ますます主に用いられますように。

  3. 高原様、コメントありがとうございます!ご本人からの書き込みをいただいて、驚きました。恐縮しております。拙記事を書かせていただいてから、自分の教会の姉妹が実は、高原さんの福音メッセージをウェブサイトで聴いているという話を伺ったりしました。福音の種が広く、そして深く蒔かれていかれるよう、私もお祈りいたします。

  4. ますますとっても観たくなりました。
    日本人の神感も、全く仰る通りと思いました。
    &コメント欄でコメントされてる方も、(;゜0゜)

  5. 高原兄にここでお会いできるとは!!
    先ほどDVD 神は死んだのか を家族で見ました。3回目
    やはり、アラブ人のシーンはすべてカットしてほしかった。
    代わりにDNAの話を用いて進化論を論破してほしかった。
    桐生集会 宮崎

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