今、涙を浮かべながら書いています。日本そして世界を巻き込む事件の中でお亡くなりになった後藤健二さんですが、彼はキリストを信じる者です。晴れて天国に凱旋できました。哀しみと共に流れる歓喜の言葉をここに書かせていただきます。
まずは、私が今朝フェイスブックで書いた、主への祈りです。
「主よ、残されたご家族、奥様に深い慰めがありますように、イエス様のご臨在によっていつも支え、癒してくださいますように。経済的な必要も満たされ続けますように。
主よ、どうか祈った祈りをかなえてください。後藤さんの残したキリストの証しを、戦闘員にイスラム国の指導者の良心に、聖霊によって明らかにしてください。そしてイエス様ご自身が、他のムスリムにもしておられるように、彼らの夢、幻に現れてくださいますように。イスラム国の人々を、キリストの御国へと引き入れてくださいますように。
主よ、私たち日本国民のためにお祈りします。後藤さんは今、あなたご自身のおられる天で安息を得ておられることを知っています。それは、彼が自分の罪を悔い改め、イエスの名を呼び求め、キリストの流された血によって赦されたからです。一人でも多くの日本の人々を、後藤さんと同じところに導き入れてください。
ヨルダン国王と国民のために祈ります。どうか、国民の心を強めてください。空軍中尉が生きていますならば、奪還できますように。ヨルダン国が強められ、平和と安定を、あなたからの平和が確保されますように。彼らにも、後藤さんの残したキリストの証しが伝わりますように。
日本政府のために祈ります。テロ対策のためのさらなる知恵が与えられますように。ヨルダン国に対する難民援助を滞りなく実行し、さらに助けられますように。」
次に、MGFの菊地一徳さんが書いた言葉です。(Facebook)
★クリスチャンの後藤健二さん召天 イスラム国から解放され祖国天国に凱旋帰国
後藤 健二(主暦1967年 – 2015年) フリーランスジャーナリスト
1997年に受洗し日本基督教団田園調布教会信徒となる。
◉「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」(詩篇116:15)
「信者は神の僕である。主人から特殊の要務をゆだねられた者である。したがって彼はこの要務を果たすまでは死ぬべきではない。そして彼はその時まで決して死なないのである。
私たちは死んで永久に別れるのではない、私たちは後にまた復び会うのである。
私たちは死んで再びこの世に帰ることを望む者ではございません。私たちは死んでさらに新しい生命を与えられ新しい世界に行こうと願うのであります。
私たちはイエスにあって、死そのものにおいてすら神の笑顔を拝し奉るのである。」(内村鑑三)
◉「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」(ヨハネ11:25)
◉「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14−15)
◉「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)
◉「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、{また彼らの神となり、}彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3−4)
後藤さんのご遺族の上に主イエス・キリストの平安と慰めがありますように。
◉「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
◉「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
◉「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(1ヨハネ5:4)
◉「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)
テロにも負けてはいけないが、憎しみや恨みにも負けてはいけない。
後藤健二さんはシリア入り直前の映像の中で次のように語っている。
「わたしの名前は後藤健二です。ジャーナリストです。これからラッカに向かいます。『イスラム国』、ISISの拠点といわれていますが、非常に危険なので、何か起こっても、わたしはシリアの人たちを恨みません。何が起こっても、責任は私自身にあります。どうか日本の皆さん、シリアの人たちに、何も責任を負わせないでください。よろしくお願いします。必ず生きて戻りますけどね。」
◉「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』」そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。」(使徒7:57−60)
◉「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(ルカ23:34)
後藤さんは普段から必ず聖書を携帯していたという。「『神は私を助けてくださる』(詩篇54:6)。この言葉を、いつも心に刻み込んで、私は仕事をしています。多くの悲惨な現場、命の危険をも脅かす現場もありますが、必ず、どんな方法かはわかりませんが、神様は私を助けてくださるのだと思います。」
確かに神は後藤さんを助けてくださった。私たちには神の方法は分からない。しかし彼が信仰告白しているように必ず、どんな方法かはわからないが、神は彼を助けてくださったと信じる。
◉「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)
後藤さんの死が、豊かなが実を結びますように。ひとりでも多くの人、日本人もイスラム国の戦闘員も後藤さんの信じた神を信じて救われますように。
◉「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
◉「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)
◉「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」(ヨハネ11:25—26)
◉「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)
後藤健二さん、天でお会いしましょう!
(関連記事:「後藤健二さんのための祈り」)
次は、私のクリスチャンの友人の後藤健二さんについてのお悔やみの言葉です。
後藤健二氏、注ぎの捧げものとなれり
処刑人「ジハード・ジョン」のKenjiの言葉に、親しみさえ感じ取ることのできる自然さがあった・・・。私も強く感じました。
以下のブログ記事を見ました。
昨日以来、最も共感し、教えらえた記事
残されたキリストの証し
私も後藤さんについて二つの記事を残しましたが、「殉教者として位置づけてコメントをしておられるもの」なのでしょうか?ちょっと吟味してみました。私の気持ちは、「そうじゃないな」というものです。
殉教者、と言いますと、福音のゆえに死ぬということであり、宣教者や牧者など、福音宣教の従事する者が死を遂げる時に使われる言葉です。後藤さんはジャーナリストとしてシリアに入国した訳であり、この目的ではありません。けれども、彼の職業を支えていたのは聖書の御言葉であり、その信仰が戦地での報道の特色を表していました。さらに、彼が死に直面している時に、自分の職業について話すとは思えません、本当に大事なこと、つまり信仰の言葉を話していたであろうことは、容易に考えられることであります。
さらに、彼の生き様に戦闘員たちが非を認めているような文言を、犯行声明の中に認めることはできませんでした。むしろジハード・ジョン(処刑執行人の別称)には、Kenjiという言葉を親しみさえ感じる自然さがありました。何らかの影響を受けていたという推察は十分にできます。
ですから「殉教者」とは呼びませんし、「殉職」のほうが相応しいと思いますが、けれども、「キリストの証しを残して殉死した」と言えます。
ましてや、キリスト者が、信仰を表明してきた人がお亡くなりになったのですから、彼の職業や話題性を超えて、天国の希望をもって偲ぶことはごく自然のことでありましょう。ここに多くの兄弟姉妹の信仰が相働いて、主をほめたたえているのですから、この時点で私たちの喜びの感情を無理に抑える必要はありません。
イスラム過激主義は「貧困・差別」という風説について
その言葉は兎も角として、この場を借りて、イスラム国やテロリズムについての基本認識の確認をしたいと思います。
1)テロリズムは貧困よりも、しばしば「物質・世俗主義」を起因とする。
「イスラム国が従来のテロ組織の大きく異なる点は、その構成員にあります。確か、アラブ系ばかりはなく、外国人は半数近くで、欧米人が多いことです。その背景には、中東情勢だけではなく、欧米各国の民族差別・貧困などの社会問題があると指摘されています。まさに、歴史的にはキリスト教国と称されてきた国家です。キリスト教会が自国内の社会正義や平等のために、どれだけに労してきたかが問われます。」(上記事から)
テロリズムについて、貧困が原因であるという通説は、かなり前から多くの専門家の間で否定されています。ビン・ラディンに象徴されるように、中流階級もしくは裕福な経済環境を持っている者たちが戦闘に加わっています。生化学物兵器による無差別テロの原型として、専門家は「オウム真理教の地下鉄サリン事件」を挙げます。実行者また信者たちは貧困ではなく、むしろ物質主義に溢れ、崇高な価値観を捨て去った飽食の社会の中で、行き場を失った高学歴の若者でした。
イスラム国の外国人戦闘員は、ある程度の財産を持っていた者たちです。シリアまでの渡航費をどうやって貧困の中にいる者たちが捻出できるのでしょうか?
日本から既に、渡航した若者がいます。「鵜澤佳史(うざわよしふみ)」という人です。シリアのイスラム系反政府組織の一員として政府軍との戦闘に加わりましたが、彼が経済格差で貧困でいたのではありませえん。むしろ日本社会にある漠然とした不満であり、「自分の命より大切なものを見つける」ために、自分の生命を極限状態に置くということを選びました。彼は自衛隊にも入り、けれども農業において国に貢献するという思いを抱くことができそのビジネスを行ない、成功した後、次の目標がなく、シリアに向かいました。経済的弱者ではなく、むしろ経済のみで物事を推し量り、それ以上の価値観を提供しない物質社会が嫌だったのです。
そして、イスラム国へ渡航を予定していた北大生も、ことさらに貧しい訳ではなく、やはり平和ボケしている日本から何か新しいものを見付けたかったという動機であります。
私も実は、信仰を持つ前にこの葛藤がありました。中流家庭で必要なものはあてがわれ、それでレールに乗った学歴社会の中に生き、「でも、人生それだけなのか?」と思ったものです。バブルもはじける萌芽があった時でした。しかし、聖書は絶対的真理を提供してくれた。そしてキリストの十字架を知り、信じることは自分の高ぶりを捨てなければいけないので、辛かった。でもそれを捨てることができ、これこそ新しい命であると、神をほめたたえました。
むしろ、類型として分かり易い例であれば、カルトに殉じていく信者の経緯を辿った方が、イスラム国やテロリズムを理解するのに役立つと私は思います。
「イスラームの衝撃」(池内恵著)から引用します。
「高い給料が支払われるわけでもなく、渡航して組織に渡りをつけるまでの費用は、自分で用意しなければならない。そして、極めて不利な装備で圧倒的な軍事力を持つ政府軍や米軍の立ち向かい、しばしば自爆テロにも駆り出されるのである。就職先として魅力的とは到底言えない。
戦闘員らは、金銭的な代償よりも、崇高なジハードの目的のために一身を犠牲にするつもりで、あるいはそのような高次の目的に関与することに魅力を感じて渡航している、という基本を押さえておく必要がある。・・
日本ではしばしば根拠なく、ジハード主義的な過激思想と運動は、「貧困が原因だ」とする「被害者」説と、その反対に「人殺しをしたい粗暴なドロップアウト組の集まりだ」とする「ならず者」説が発せられる。・・西洋諸国からの参加者からの参加者のみを取り上げて、「欧米での差別・偏見が原因」と短絡的に結論づけ、「欧米」に責を帰して自足する議論も多い。」(140‐141頁)
統一協会や他のカルト団体の脱会のためには、彼らの信じる教義にメスを入れることが最重要であるように、「崇高なジハード」にメスを入れなければどうにもなりません。彼らの思想そのものに私たちは強い関心を抱き、それと我々が信じるキリストの福音が何が違うのか、彼らの抱くカリフ制と我々の神の国の違いは何か、こうったものに強い関心を抱かなければ、そのような人々に届くことはできないのです。
2)イスラム国は、基本的に「アラブ・イスラム内の戦い」。欧米出身者が注目を集めるのは、彼らのメディア戦略。
イスラム国の構成員は大多数が現地のイラク人であり、シリア内戦後にシリア人が加わりました。そして、「外国」と言ってもその六・七割は中東諸国からであり、西欧諸国からは二・三割と見られています。
ジハードという崇高な目標は、イスラム教徒にとっては否定しがたい事実です。どこかしら妥協あるいは調整しながら、それぞれのイスラム教の国々はそれを国教としているのですが、アッラーのみの統治を教えるカリフ制は誰も否定することはできず、その矛盾をついて台頭しているのがイスラム国です。
ですから、イスラム国はもっと内向きの攻撃性を持っており、イラクのシーア派、シリアのアサド政権、そして欧米にひれ伏す背教者ヨルダン、軍事政権でムスリムを弾圧するエジプトとなっています。妥協しているイスラムが許せないのです。けれども、欧米諸国による空爆が始まったので、その矛先をさらに広げているだけで過ぎず、欧米が主な攻撃対象ではないのです。
イスラム国は領域支配的な活動が主体です。だから、イスラエルやアメリカもいずれ攻撃する対象ではありますが、当面の目標はヨルダンであり、シリアの他の地域、レバノン、そして彼らの描いた地図のように、アフリカ北半分からイラン、中国の一部までを及ぶ大帝国を描いています。(中国では、新疆を無神論の中国から奪還するという声明を公に出しています。)
しかしもちろん、欧米も含む全世界的戦略も持っています。その中で欧米人はメディア戦略の一環で、世界拡散化のための広告塔として動画や画像で多数登場します。(以上「イスラーム国の衝撃」(156‐160頁)を参考にしました)
この基本知識を踏まえないと、今起こっていることを見誤ります。少なくとも彼らの世界では、「イスラムが爆発的リバイバルをしている」と受け止め、「終わりの日の最後の戦いである」という位置づけで行動をしているのです。経済格差や欧米社会の差別だけでの尺度ではどうしても測れない要素があまりにも大きいのです。
むしろ今は、思想上の闘いになっており、穏健主義がいかに過激主義に勝つかにかかっています。エジプトのシシ大統領だけでなく、穏健なイスラム団体がイスラム国に思想的宣戦布告をしています。(日本も例外ではなく、イスラミック・センターが激しい非難と、実際の行動に出ていく表明をこちらで読むことができます。)
しかし穏健主義も以上の理由から無理があります。私たちキリスト者は知っています、彼らの心を変えるのは十字架に付けられたキリストのみ、であることを。キリスト者たちもその福音をもって、彼らを愛していくという闘いの中にいます。これは霊の戦いです。事実、世界中でムスリムが回心しています。御霊が働いておられます。
ヨハネの黙示録20.4
イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。