ここ一・二年の間感じている、今日の福音主義の教会にある問題をこれから、折をみて取り扱っていきたいと思います。私はクリスチャンになって25年ぐらい経ちますが、その間だけでも、次のような変遷がありました。
1)明らかな異端と社会的カルト性
信仰を持ってから間もない1990年代前半には、この存在に気をつけなければいけないと自分を戒めていました。統一協会の壺売り、エホバの証人の「輸血拒否」、後に教祖が性的嫌がらせなどで逮捕された「摂理」、行き過ぎた管理で問題となった「東京キリストの教会」(注:その後、指導者が悔い改め)など、キリスト教の根本教理から外れている団体が多くいた、ということ。熱心さ、純粋さが利用されて、そのような団体にはまっていく時であったような気がします。
2)正統的な教理を持っているのにカルト的になる教会
90年代後半から、正統的な教理を持っているのにカルト性を持つ教会が多くなったことに気づき始めました。そしてこの問題は、まさに今にも続いています。経済のバブルに合わせて、教会にも教会成長論が入り込み、会社にあるような成功哲学で運営していこうとした結果、歪みが生じ、社会的問題も引き起こす事例が多くなりました。私が驚き、悩み苦しんだのはこの部分です。クリスチャン新聞など、福音的な信仰を持っているとされる報道機関が「成功している教会」として報道していたもの、その多くが内部での歪み、カルト性を持っているものであることが多かった、ということです。
3)福音信仰からの逸脱、世的な手法の導入
これもまた90年代後半から次第に見るようになりました。これまでは行き過ぎというのは、「信じれば金持ちになれる」「病気があるのは不信仰のせいだ」とするような繁栄信仰によって、熱心な教会で見受けられるものでした。しかし一見、穏健な福音的教会であると思われているところで、ある逸脱を見かけるようになりました。
精神医療的、心理学的手法を取り入れる姿です。「○×カウンセリング」と言って牧師たちが取り組む姿です。これまでは経済右肩上がりで行け行けどんどん、だったのが、癒しの時代と言われるようになってきて、教会もその流れに乗っていたように思われます。これらが、自らの教会の存在目的を放棄してしまっているだけでなく、一般の精神医療や心理カウンセリングをしている人々から見ても、かなり危うく、極めて乱暴であると見られているのではないかと私は懸念していました。
4)福音派への人間主義の混入
二十一世紀に入り、米国同時多発テロによって、価値観の相対化がなされていったように思われます。(参照ブログ)これまで頼っていた安定した社会秩序が壊されることによって、キリストの内にしっかり立ち、福音を固持しなければいけないところが、むしろ、これまでの福音派のあり方を逆に必要以上に反省し、自ら相対主義の中に入っていく動きが見えます。
その中で、表向きはこれまでの福音主義の様相を見せていながら、実は福音と聖書の御言葉の力を削いでいくような方向に持っていく危険を孕んでいます。本記事ではこの4)の動きを取り扱いたいと思います。
一部の問題を取り上げて、全否定してみせる動き
この問題をこれから、折に触れて取り扱いと思います。以前、過去に、「最近流行りの「新しい福音」」というブログ記事で、ある牧者の記事を訳しておりました。そこに書いてある問題点を抜粋しますと、こうなっています。
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キリスト教の良い知らせをこのように伝えるのは、非常にいかしています。人気を博しているのは、いくつかの理由があります。
1.部分的に本当だからです。御国は到来しました。クリスチャンは愚かなことをしえます。新しい福音の諸部分は、正当であることが多いです。
2.架空の議論の相手を作っています。その悪人は、終末を煽る路傍伝道者、十字軍、福音派の救いの見方を風刺したものです。
3.新しい福音は、間違った事を、はっきりそれらの間違った事を言わずして信じさせていきます。・・
4.新しい福音は取り扱いやすいです。人々をそのままの姿に届き、そのままの姿に置いたままにします。愛しなさい、自分の隣人を愛しなさい、という呼びかけができます。人を裁く態度、不寛容、宗教臭さを何一つ想起させない方法で訴えることができるのです。・・
5.新しい福音は新しい息吹を感じます。それゆえ、特に若い人々にこのメッセージは魅力的です。彼らは感動、興奮し、この大きな使命の一員になったという目的を得ます。そこには、キリスト教の歴史、教理、堅苦しいものを抱えることなく、参加することができます。愛の革命に、誰が加わりたくないでしょうか?
6.新しい福音は、つまずきを与えません。だからこのメッセージは魅力的なのです。悪い者たちは、自分たちの仲間の「外」にいます。これは、私たちは誰でも問題になることです。・・
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英語ではStrawman Argument(藁人形論法)があります。ウィキペディアの説明を引用しますと、「議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。」となります。そういった人々の神学議論は、ごく一部にしかないであろう極端な例を取り上げて、それで「福音派のこれまでのあり方は間違っていた」と言うのです。そこで、確かに欠けはあったものの支柱となっている大事な霊的遺産までを捨て去る危うさを持っているのです。
私は、これは霊的に危険な動きであると思います。要は、その原動力や動機が、「今の時代の人々に福音を格好よく見せたい」という、使徒時代に蔓延った「ユダヤ主義」と根っこが同じだからです。なぜ彼らはガラテヤ人に割礼を強いたのか。それは、「ユダヤ人たちに、よく見られたい。」と思っていたからです。
したがって、彼らは「私たちのこれまでのあり方は間違っていた。キリストをきちんと示して来なくて、申し訳なかった。本来のキリスト教はこんなものではないのだ。こんなに魅力的なのだ。」ということを宣伝します。しかし、福音というのは、神の前にいかに忠実なのかで測られるのであり、人の前に正しくなろうとするのはパリサイ派や律法主義者の教えなのです。(ルカ16:15)
大事な点は、これらの動きは「福音派の中心的存在」から始まっているということです。福音派では知られている働きや神学校において、欧米や英語圏のキリスト教に触れている人々によって取り入れられています。そして、若手の神学者や牧師の中に歓迎されています。韓国のキリスト教会でも、こうした新規(新奇?)の教えが広がっているそうです。一見尤もで、一見寛容なので、見分けがとても難しいです。悪い意味で、新しい時代に入りました。
神学のいろいろな領域への浸透
神学的議論の、いろいろな側面からこの問題をかいつまんで紹介したいと思います。
「教会論」において:これまでの教会にあり方の問題を取り上げます。その硬直化によって、新しい時代の人々に届かなくなった。それで「教会」という組織ではなく、どこにいてもそこが教会であるとして、教会生活から離れる試みがなされていきます。例えば、「日曜礼拝が重要なのではない。あなたが仕事を日曜にしているのならば、その仕事があなたにとっての神への礼拝なのだ。あなたのいるところ、スターバックスにあなたがいるのあらば、そこがエクレシア(教会)なのだ。」と主張します。
こうした動きを英語では、mission(宣教)ならずmissional(宣教文化的)という言葉を使ったりして説明します。つまり、「文化の中に入る教会」です。そして直接的な福音伝達ではなく、福音がいかに魅力的であるかを、その文化の中で間接的に示そうという試みであります。これはある程度、伝道前の働きとして価値あることでしょう。しかし本質ではありません。この動きでは、伝道前の働きを強調することで実際の伝道を結果的に排除させる、恣意的な力が働きます。
確かに、既存のキリスト教会の形式化はあるのです。けれども、そこから分離することが果たして御心でしょうか?あるいは中で革命を起こすべく分派的動きを推進することが御心でしょうか?絶対にそんなことはありません。むしろ、キリストの体を深く傷つけています。事態は深刻で、彼らの指摘している教会にあるとされる問題は、むしろ彼らの間でもっと増幅されて存在し続けているのです。問題は、キリストの命令に応答しなければいけない自分自身の責任を放棄して、既存の教会のせいにして動いているからなのです。だから、自分が動けば、そこに問題が生じます。(参照ブログ)
「宣教論」において:本来の宣教は福音を口で伝える宣教であり、けれども愛の慈善行為も付随的に、医療や学校教育などで行ってきたのが、これまでの宣教です。ところが、その直接的な福音宣教を、その国が信教の自由が制限されているとこならまだしも、それこそが宣教の姿であると聖書理解そのものを変えてしまっていることです。その人たちは、「救い文化」と「神の国文化」を分けて、前者だけでなく、神の国を実現していくことが我々の役目であるとします。
こうしたことを教える本が、一部の人々の間に人気を博しているのですが、私はある方と議論した時に、「そんな教えを受けなくても、福音を聞く人々に、人格的に寄り添い、きめ細かい弟子作りをすることによって可能ではないか。」と話し、その人は確かにその通りだと言いました。日本の教会にはそのまま当てはめられないということだそうですが、私は内心、「アメリカの教会でも、前提が、一部の極端な教会の例を挙げているから、大方、当てはめることはできないでしょう。」と思っていました。
そうような人々の中には、「社会的福音」に力を注ぎます。政治問題、環境問題、経済格差などに焦点を当てます。確かにキリスト者もこれらの問題は関心の的となり、キリストの福音を伝える中で副産物として実ることはあります。奴隷制度や娼婦制度の廃止、病院の設立などは良い例です。しかし、それらは飽くまでも波及効果であり、本質は「十字架のことば」です。福音の言葉にこそ人を救う力があるのに、それを二義的なことを強調することによって福音を無効化していくのです。
最近キリスト教書店の棚にある冊子で、「教会と社会的責任」とか呼ばれるものを開いてみてください、聖書の説明なし、ある時は御言葉の引用もなく、あっても取ってつけたような内容で、その他はどこかの社会評論と変わりない内容のものが多数あります。一体これは何なのでしょうか?キリストの独自性はどこに行ってしまったのでしょうか?
「救済論」において:福音は、はっきりと人はすべて罪を犯し、すべての人が神の前で有罪とされている、しかしキリストが十字架による贖罪の業を行ってくださった、それゆえ人はキリストを信じるその信仰によって義と認められる、という福音を語っていました。そしてもちろん、キリストにある平和と一致があり、人間の間にある隔て(男女、奴隷や自由人、民族的違いなど)が取り壊されて、神の国の臨在を私たちは体験できるのです。
ところが、その義認理解は法廷の判決の意味として狭めたものと言い、義と認められるというのは、神の共同体の中に入ることだという、訳の分からない議論を展開させます。もちろん救済には、キリストの体によって一つとなるという霊的祝福が与えられるという結果はありますが、「義認」そのものにそんな意味はないでしょう。こうやって救済論を混乱させて、人々を困惑させる神学が実は、人気のある、著名な注解書シリーズの著者としても出てくる聖書学者の提唱だったりします。(参照ブログ)
「聖書論」において:聖書が誤りなき、霊感を受けた書物であるということ自体を、「西洋の啓蒙主義の影響だ」と、ある世界的に著名な聖書学者は言い放ったそうです。他の発言では聖書を大事にする面もあるのですが、正直困惑します。これでは、純朴な人々の聖書観を養うのではなく、崩していきます。
その他の聖書論の問題として天地創造の見方があります。聖書は天地創造の神を啓示しています。創造の記述をそのまま読めば、世界と人間の創造論に立つ以外、選択肢はありません。ところが、若い地球の創造論を否定しながら、そうではない論を主張していく動きが強いです。「有神的進化論」がその典型です。(参照ブログ)
歪められた終末論
終末論において:聖書を順番に、体系的に読んでいくことによって、内村鑑三は「キリストの再臨こそがキリスト者の希望」であるという結論に達し、後年の彼は聖書預言をベースにした福音伝道を行っていきました。これは初代教会からの信仰告白であります。
ところが、聖書預言を強調した論調の一側面だけを取り上げて、それを「ディスペンセーション神学」などの神学体系のレッテルを貼り、それで聖書預言解釈の骨子を取り壊そうとする動きがあります。これもまた、福音派で認められている学会などが猛烈に推進している動きです。
例えばこんなことを言います。「黙示録は、当時のローマ時代のキリスト者が読んでも理解し、応答できるメッセージであったはずだ。それなのに、今の世界で起こっている現象に黙示録の記述を当てはめていき、「未来」のものとして読んでいくのは危険だ。」
これの何が間違っていると思いますか?そうです「預言」そのものの理解です。もしこのことが正しいのであれば、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、数ある預言者がはるか先のキリストの初臨にまつわる預言を、すなわち、近未来で起こる出来事と隣り合わせ、あるいは、重層的に預言していることを、「当時のユダの民はそれを聞いていて、理解できたはずだ。遠い将来のことではない。」と言って、キリスト預言を否定し、一蹴してしまうのと同じなのです。
このように「未来」の否定するような前提の解釈は危険であり、初代教会の告白を貶めることに他なりません。福音派と言われている人たちの中で、黙示録の預言成就をあまりにも過去に押し込んでしまったばかりに、「すでに再臨は起こった」とする異端すら、出て来ているぐらいであります。
イエス様は、「わたしは、すぐに来る」と言われました。それは初代教会でも、今の時代でも、いつの時代でもその通りなのです。黙示録等にある預言は、当時の人々の状況にも当然ながら差し迫った事柄を取り扱っていますが、どの時代の人にも切迫した危急性を持って自分の生きる世代を視てほしいと神は願われていました。だから、今の時代も同じように聖書預言の中で見ていくという作業は、ぜひ信仰者が取るべき態度なのです。旧約時代はダニエルが取っていた霊的生活であるし、主ご自身が実に、私たちへの「命令」として与えている内容なのです。
いつも誤解される再臨信仰
再臨信仰には、様々な反発があります。「すぐに来る、といって二十年、三十年経っているではないか。」という反発もしばしば聞きます。これは、聖書に出てくる数多くの信仰の先駆者の姿勢を侮辱するものです。預言者ハバクク書に主は、「遅れることはない」と主が励まされましたが、それからどれだけ経ったでしょうか。イエス様ご自身がすぐに来ると言われて、二千年近く経っています。使徒たちもすぐに来る、と言って二千年近く経っています。二十年、三十年という単位ではなく、何百年という単位で、今日、明日にでも来ると生きなければいけないことを聖書は教えているのです。
アブラハムに対して、数千年後の出来事を、今起こるかのように語っておられました。将来を今に先取りするのが、私たちキリスト者の姿勢であり、これこそが永遠の命の希望なのです!イエス様が警告された「不忠実なしもべ」、ペテロ第二3章では「すぐには来ない」として肉の欲望、神への嘲りの中に生きた者たちが出てくると警告していることを、聖書教師や神学者がまことしやかに教えているのです。(本人たちはそのつもりはないでしょうが、一般の信者たちがこれらの教えを聞いたことによって結ばれる実は、そうなることでしょう。)
そして、「キリストの再臨と千年王国を強調するから、今のキリスト者の社会的責任をないがしろにしているのだ。」という論も後を絶ちません。まるで再臨を強調すると、どこか山に籠って、仕事を辞めて再臨待望するカルト集団のようにみなしているのか?とさえ思います。しかし、この反発にも大きな誤謬があります。つまり、それは、日本人の未信者が「天国を考えると、今の生活が一生懸命できなくなる。」と言っているのと同じなのです。いいえ、天国の希望があるからこそ、天における報いを思って、今日という日を責任をもって過ごすんですよね?同じように、再臨が近いからこそ、個人のキリスト者の歩みに気をつけるのです。そして、千年王国があるからこそ、今の個人的、社会的生活が、神の国の相続と報いに直結していることを知って、責任ある行動を取る動機付けとなるのです。
福音宣教や再臨信仰の強調は、社会的関心を増やしこそすれ減らすことはありません。そもそも、これらを二分して論じること自体に無理があります。例えば私たちカルバリーチャペルは、明日にでもイエス様が教会のために来られると信じているし、キリストの再臨によるイスラエルの完成をしっかり信じています。しかし、東日本大震災の時に、誰から言われるまでもなく各教会が北上し、被災した当地で集合し、救援活動を行いました。委員会のような組織的活動をせずに、なぜそれができたのでしょうか?「聖霊による」のです。神の国のご計画の全体を信じることは、聖霊が私たちを動かしてくださることであり、アンティオケ教会がそうであったように救援活動もするのです。
聖書は人間理解を超える
したがって、いま流行の聖書解釈の中には、「人間理解の中に聖書をはめ込もうとしている」という人間中心主義が見え隠れします。書かれてあることをそのまま信じれば十分なものを、今、理解ができないからという理由で聖書解釈を変えて見せるということを行なっています。聖書の言葉への信頼性を、無くしていこうとする試みです。もちろん、先に申し上げたように、指摘されている聖書解釈の欠点は、一部その通りなのです。そうした弱点、もっとバランスを取るべき点というのは存在します。しかし、今の問題は「そうした弱点を取り上げて、世の流れに合わせた、人間的な理解に収めようとする。」ということであります。
もう一度思い出さないといけません。「すでに古臭い福音」の中に、人を新たにする力があり、数ある新鮮な、そして斬新な聖霊の働きがあるのです。(参照ブログ)
「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。(ガラテヤ6:12)」
「私たちはキリストのために愚かな者です。(1コリント4:10)」
私は、村上密牧師のカルト被害者の救済の働きには真正なものもあると思います。しかし、バランスを崩している「言い過ぎ」の発言をしばしば見かけます。下の記事はその一例です。(一部追加)
リバイバル
大方その通りだと思う。リバイバルの定義はしっかりしているし、今の日本の教会にある「リバイバル」の連呼は成功哲学や繁栄神学に影響されたものであることも至極同意だ。終末における背教という側面もその通り。しかし、そこから世界のキリスト教会への批評をしているところで飛躍している。
特に次の言葉には不同意だ。「中国に置けるクリスチャン人口が取り上げられるが、人権問題や社会正義に関して十分な役割を果たしていない。」
社会正義は、福音の内実が人々に浸透して初めて、結果として出てくる。中国のキリスト者たちに、民主化運動や人権運動をせよとでも言うのか?これは傲慢な意見だ。強い口調になっているが、私は中国の兄弟姉妹の証しを多少知っているがゆえに、こう言っている。上の一文は、日本の中で信教の自由が保護されている中でしか言えない言葉である。
そして、中国の兄弟姉妹には、例えば里親のようになって親から捨てられた子たちを育てている人々をよく聞く。そして大学などで、ぎりぎりのところで、キリスト教の紹介の講演をしてみたり、その時々に聖霊の助けによって知恵をいただき、啓蒙活動もしている。しかし、キリスト教の活動を「公」にした時点で、アウトなのだ。いつも、せめぎ合いの中で動いているということを知ってお書きになっているのだろうか?
しかも、中国では法で動くよりも、そこの指導者が何をしているかという力関係で動いている。ゆえに、法が規制していても逆に自由に動ける場合もあるし、規制がなくても反対に締め付けも来る。こうした事情の中で家の教会、また公認教会が動いている現状もご存知で書いているのだろうか?
私は、こうした「社会的福音」に疑義を挟みたい。
福音宣教にある「神の国」は、世の勢力が強くなればなるほど、同時期に、重なるようにしてますます拡がる性質のものなのだ。神の国は攻められる時に、なおのこと攻めるのだ。抑圧に対して、愛と赦しと賛美の力で凌駕しているのだ。ローマの激しい迫害下の中で、蓋を開ければキリスト者が広がっていたように。そして、最終的に社会も国も変えられたように。中国だって、知られないように徐々に、徐々に、じわじわと社会にも地の塩としての変化は実現しているのだ。
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを、左の手に知られないようにしなさい。(マタイ6:3)」これが私たちの主の命ずる神の御国の一面だ。情報を公開・宣伝しながら動く社会制度に生きている私たちには、理解できない言葉である。
社会的福音は、自由・民主主義の加護の中でしか出てこない、人間主義的な思想であるだけに、批判と検証が必要だ。このような、高見の見物のような神学は、世界にある普遍教会を具現化していない。
私は、北朝鮮の激しい弾圧を受けている地下教会の兄弟姉妹、中国の兄弟姉妹、イランの地下教会の兄弟姉妹、ムスリムから迫害を受けるエジプトの兄弟姉妹、今、トルコやレバノンでイスラム国から避難している人々など、物理的自由が制限されているけれども、政治的自由のある私たちよりも、はるかに大きな霊的自由を謳歌している兄弟姉妹と一体となりたい。いは