今日、一つ強く思わされることがありました。以前ご紹介した「イスラーム国の衝撃」の著者、池内恵准教授が自身のブログで剽窃の問題を取り上げていました。
剽窃(ひょうせつ)というのは、辞書には「他人の作品や論文を盗んで、自分のものとして発表すること。」とあります。本来、自分の引用や採用している元を明らかにすれば良いのですが、それを自分のものとして発表するという問題です。上のブログ記事を読むと、単に剽窃しただけなのにそれをなかなか認めない筆者と編集部の頑なさも、見えてきます。
この記事を読んで私自身が剽窃を受けたことを思い出しました。2004年に発表された、イエス様の受難を描く「パッション」を、私は鑑賞前の評判の紹介、鑑賞後の感想のどちらをもホームページで詳細に紹介しました。そうしたら、後日、あるキリスト教月刊誌で、私の文章がそのまま大幅に剽窃されているではありませんか!それで出版社にすぐに連絡し、書いた記者本人から返事がありました。「取材に時間がなくて、それで使った。」という、あっけらかんと認める文章でした。怒りを超えて唖然としましたが、「これから、気をつけてください」という旨を伝えました。キリスト教の報道機関が、剽窃が倫理的・社会的にいかに問題であるか、一般常識との乖離にがっかりしたことを覚えています。
以上、実際の剽窃の問題を取り上げましたが、実は霊的には、キリスト者はしばしばこの罪を犯しているのではないか、ということをお話ししたいと思います。
他人の言葉で自分を欺く
この前の日曜日、元ヤクザで教会を牧会しておられる進藤牧師が、私たちの教会と同じ場所で、その晩、日本華人基督者センター(JCC)主催の月例会で救いの証しをしてくださいました。久しぶりに、聖霊の力ある証しを聞くことができ、励ましを受けましたが、その中で大事な一言が彼の口から出てきました。正確に引用できないのですが、内容は次の通りです。
「私たちは、罪赦された罪人です。その赦された者たちが互いに受け入れ合うのだけれども、いつの間にか自分はできると思って宗教的になっていく、パリサイ人の霊になってしまいます。」
パリサイ人との霊とは何でしょうか?イエス様が彼らに言われました。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。(マルコ7:6)」
私たちが、専ら神の恵みによって救われました。そして神に知識について、それに貪欲になり、その知識を貪り得ようとします。これはすばらしいことです、生まれたばかりの乳飲み子は、御言葉の乳を慕い求めます(1ペテロ2:2)。聖書の学びをしていて、ある聖書教師や神学者、また伝道者によって霊的励ましをたくさん受けて、そしてとても心が喜ぶことは、健全なことです。
ところが、そこで「主の前に立っている、ありのままの自分」というものを忘れる危険があります。そこにある知識が、まだ自分の血となり肉となっていない、つまりしっかりと聞き、受け入れて、行いの実を結ぶようにまで消化されていないのに、その知識を得たことで、それが自分の一部になったと錯覚するのです。
それで霊的な剽窃状態、つまり「他者の言葉を自分のものだと錯覚する」という欺きを犯します。
知識を得ること自体は良いことです。けれども、それが確かにあくまでも知識の段階にあるという自己認識が必要です。けれども、その知識に拠って自分がキリストとの出会い、交わりの中でその人格的成長にまで至っていないのに、知識だけで自分が霊的に高まったと勘違いするのです。
「模範的キリスト者」らしい振る舞い
私たちが教会に初めて来る時は、教会の人々の祈りにひどく感動、あるいは当惑を覚えます。非常に流暢に、難しいキリスト教用語を駆使しながら祈るからです。けれども、その当惑しながら過ごしていた教会生活で、次第にその文化に慣れてきます。慣れることは良いことですが、けれども自分自身もすらすらと、そのような高尚な(?)祈りをすることができるようになってきます。
そこで、「私はクリスチャンとしてなかなか、霊的に祈れるようになった。」と勘違いしたら思い上がってしまうのです。
キリスト教用語は体得しても、周囲が見ると、どうもそれが霊的な装飾のようにしか聞こえない。例えば、「私はまだ愛が足りなくて・・」と言うのですが、要は、「あの人が憎たらしい。でも、キリストの命令には従いたくない!」という神への反抗・反逆なのですが、それを告白できないでいます。心がへりくだっていないからです。
聖書や神学知識においても、明らかです。ある人の聖書研究による解説がとても新鮮で、とても霊的に養われて、これは良いと思って感動することは、これはすばらしいことです。けれども、それで霊的成長を遂げているのではないのです。それがどこまで、自分の信仰の言葉となるかは、語っているだけでなく、キリストの命令に従う実践で表れます。
ところが、人によっては、いつまでもいつまでも、クリスチャンの知識を吸収していくことだけで時間を費やします。そして、どこまで自分の血肉になったのか、それを沈思し、神の前に祈り求める時間を取らないで吸収しすぎて、いつの間にか自分がその知識を、他の、知っていないであろう人々に教え始めるのです。そして周辺の人は、この人はこんなに聖書を知っているのだと感心するのですが、もっと身近にいる人は、どうしてもこの人が聖くなっている、変わっていると思えないのです。
けれども本人は気づかず、聖書や信仰の知識を受け取ることだけ続けます。自分はそれを体得していないのに、あたかも自分のものになったかのように振る舞うことは、「霊的な剽窃」という過ちを犯していると言えないでしょうか?
繰り返しますが、祈りにしても、聖書にしても、教会生活にしても、知識を得ること自体は全然悪いことではありません。ただ、「それはまだ知識の段階であり、私は体得していないけれども、こういうものなのだ。」という思慮と慎みがあればよいのです。ちょうど、引用元を自分の文章に示すように。けれども、それが自分のものなのだと錯覚する時に、自分の霊はパリサイ派的になるのです。
必ず出るぼろ
祈りにしても、聖書の学びにしても、また教会生活にしても、こうした宗教知識だけを得ていると、周囲の人を見下したり、裁いたりしても、自分の生活や言動から襤褸(ぼろ)が出ます。これまで話していた正当な知識とは、まるで裏腹の言動が”自然に”出てきてしまいます。それが、自分のありのままの姿であり、神の前にある自分の姿なのです。口では神を敬っているが、心が神から離れたまま、放っておかれている状態になっているからです。
そして、そのことを指摘されると、剽窃を犯している人にありがちな、「なるべく責任を取らないように回避」の行動に出ます。酷いときは、「全否定して、あからさまな嘘を付き」ます。パリサイ人がまさにそうでありました。それでイエス様は「偽善者」と叱責なさったのです。
恵みの中に生きよう
このような人の問題は何でしょうか?神の愛の中に自分がいないことです。「主によって、あなたは駄目だというレッテルを貼られるのではないか。」という不安と恐れの中にいるのです。どこかで、自分が受け入れられていないという不安があり、それで何とかして自分を認められようとするので、必死に霊的知識で行動でその空白を埋めようとするのです。けれどもその時、それは人の前で正しくしようとする行為であり、私たちの義はどんなに最善の努力をしたとしても、神の前では忌み嫌われるものであり、不潔な着物なのだという厳然とした福音の真理を思い出してください。
そうではなく、主はすでに、その情けない自分、どうしようもない自分であることを既にご存知で、それでなおのこと、一方的な憐れみと恵みで、私を受け入れてくださっているのです。私は、神の恵みによって、信仰により救われたというところに戻ることです。
ですから、しなければいけないことは、主の前にいる、ありのままの自分を見つめること、ありのままの自分をそのまま十字架に付けられた主の前に持っていくことです。そして、自分で清めようとするのではなく、主に清めていただくことです。聖霊による洗い清めを経験した人は、へりくだりと喜びの心をもって、主に仕えることができます。祈りが楽しくなってきます。御言葉の学びが楽しいです。奉仕が楽しいです。受けるだけでなく、与えることがもっと幸いであることを経験します。奉仕がやらされているものではなく、恵みの主に仕えることができる喜びと楽しみになります。
若者の強さは「砕かれる」こと
やる気がある、元気がある、あるいは何か楽しみを見つけたい、これらのきっかけはすばらしいです。それは若者にも見られる新しい可能性です。けれども、砕かれましょう!いっぱい失敗して、それを肥やしにしましょう。それこそが、「正しい神の知識」です。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」という年月が近づく前に。」(伝道者12:1)
これは肉体の年齢だけでなく、霊の若さにも適用できる言葉です。他者が体得した霊的経験や知識で着飾っていけばいくほど、いつまでも繰り返し同じ問題に突き当たり、そのうち、自分の霊に喜びがなくなり、それが恒常化する鈍化現象が起こります。これは怖いことです。霊の若さの特徴は、「よく打たれて、よく泣き、けれども、その砕かれた魂が主の救いを喜び、新たにされる。」というものです。失敗はするけれども、柔軟さにおいても長けているのです。
【後記】「必ず出るぼろ」のところに、次の逸話を書き入れようと思っていましたが、長文になるのでやめました。けれども、補足として典型的な事例として、挙げておきます。
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例えば、こんなことがありました。ある人々が聖書の学びについて、実に詳しく、分かり易い解説をしています。私は感心して読んでいましたが、すぐにそれが、私の好きな聖書教師・神学者が教えているものの翻案、多くの場合は翻訳にすぎないことが分かってきました。けれども、そこにその教師から教わったものであるという断り書きがない。
もしその教師から教わって、それを紹介しているのであれば、「紹介します」という断り書きをしないといけない。そして、どこまでがその教師の言っていることか、また自分の感想なのかを区別しないといけない。それによって、自分がどこまでその聞いたことを体得したのか分かる、思慮と慎みを言い表すことができるのだ。けれども、その形跡がない。
それどころか、「このようなことが分かっていない日本の教会は、聖書的ではない。」という教会批判を連発する。(いつの間にか、「その聖書学者の意見=聖書」になってしまっている。)そして最も驚いたのは、その自論や感想という自分の意見を出す時には、これまでのその聖書教師の言っていることを全て否定するかのような、福音の真理から逸脱した発言になっているのだ。つまり、ただ剽窃しているだけで、自分自身は理解していなかった、ということになる。
もちろん、いろいろな人の聖書注解や、信仰書、神学書などを読んで、そこからたくさんのものを得ていくと良い。けれども、「では、主が何を語っておられるのか。」と絶えず自分を点検しながら、聖書に向き合っていく、そして聖霊から語られるという作業をしないといけない。そして、自分の信仰の言葉で書き、話していかなければいけないのだ。