毎年、イスラエルでは「ヨム・ハショア」というホロコーストを追悼する日を守っています。ナチスによって殺害された六百万人の犠牲者を記憶するためです。イスラエルの暦なので毎年月日が変動しますが、今年は4月16日、すなわち昨日です。(2013年になりますけれども、日本人のイスラエル留学生が書いたブログ記事がこちらにあります。)
「立ち止まる」ところにある祝福
午前中10時頃、サイレンが鳴ります。広島や長崎でも原爆が投下された時にサイレンが鳴るそうですが、どうなのでしょうか、どれだけの人が立ち止まるのでしょうか。イスラエルでは高速道路でも車を停止させ、2分間の黙祷の時を持ちます。
イスラエルから学ぶことは「安息」です。どんなことをやっていても、何かを記念し、記憶するためには立ち止まることです。安息は私たちを縛るのではなく、自由にします。今、自分のしていることは本来、主ご自身の恵みによって行っているのにあたかも自分が行っているかのように錯覚します。しかし、立ち止まることによって本来あるべき姿に矯正されるのです。そして、そこにある自由を取り戻します。
日本が報道する反ユダヤ主義
そして私たちは、「反ユダヤ主義」という悪にも直面しなければいけません。私はこのブログまた自分のフェイスブックで、日本のマスコミには出てこない情報を発信しておりましたが、驚いたのはNHKがとても公正な報道をしていることです。
とてもよく、まとめられています。リンク先に文章もあるので、それも熟読すると良いでしょう。反ユダヤ主義が過去のものではなく、これまで以上に広がっているという点です。イランの核合意の背後にある、欧米の悪に対する融和は、かつてのナチスに対する融和政策につながるものとしてネタニヤフ首相は一貫して強く批判していますが、そのつながりをきちんと報道しています。そしてヨーロッパにおいて、反ユダヤ主義が極右勢力からイスラム過激主義に移行しているという点を強調しています。ここで国際社会、特にリベラル傾向のある情報媒体において見逃されている点を挙げています。解説する女性アナウンサーがこう言っています。
「社会の少数派がさらに少数派を差別する「新たな反ユダヤ主義」」
これがキーワードです。マスコミにおいては、つねに権力を監視するという立場から多数派以上に少数派の意見や主張を取り上げる傾向にあります。したがって、よく言われる「サイレント・マジョリティー(Silent Majority)」という現象が起こるのですが、実はもっとも沈黙させられているのが、その少数派によって迫害を受ける少数派なのです。The Most Silent Minorityとでも名づけましょうか。この現象があるからこそ、中東において最も迫害され、注目を集めていないのが、「中東のキリスト者」たちの存在です。
The World’s Most Persecuted Minority: Christians
中東やアフリカのキリスト者に対する迫害は、そのほとんどがイスラム教徒からのものです。そして迫害する理由として、「西洋のキリスト教」をとりあげます。つまり自分たちを虐げているとされる「強者」を梃子にして、もっと弱者にいる人々を迫害します。そしてマスコミは、つねに「強者」と位置付ける欧米のキリスト教世界を監視しているために、最も被害を受けているこれら少数派の声は取り上げないのです。ムスリム伝道に従事しておられる方が、かつて拙ブログで以下のコメントを残しておられます(一部引用)。
中東では、レバノンを除く全ての国で、クリスチャンは伝道活動はおろか、ジズヤ(イスラム教徒が異教徒に課す税金)を払ったり、それ以外でも既存の教会内にイスラム教徒や国家からのスパイが潜入しており、他にも様々な政治・社会的要因で、20世紀以降、急速にクリスチャンが欧州、南米そして北米へと移住し、人口が一方的に減っている状況があります。あのガザ地区も、中東戦争以前はクリスチャンの町だったそうです。フィリップ・ジェンキンスという学者が、近代以降の急速なイスラム化や、様々な政治的要因により、一部のキリスト教徒が過激になり、彼らが欧米とアラブ社会の間で葛藤した結果、アラブ人のアイデンティティを守るという大義で、PLOやハマスといったイスラム過激派に入団しテロ活動をする、といった行動も見られる、という興味深い指摘をしています。レバノンでは、マロン派などのキリスト教徒はどちらかと言えば親イスラエル派ですが、実際に私がベイルートでのMiddle East Conferenceで福音派のクリスチャンの話を聞いた範囲で感じたことは、欧米の政治・軍事介入の結果、最終的に最も(イスラム教徒から)激しく迫害され、多くの犠牲を強いられたのはクリスチャンであり、イスラム教徒以上に複雑な環境と様々な感情が交錯し、それでも茨の道を進んでいる、という状況のようです。彼らは決して国家としてのイスラエルに対して諸手を挙げて祝福しているわけではありません。それでも許している、というのが実情です。
それでも、先日、イスラム国によるエジプト人キリスト教徒21日の斬首によって、彼らの存在が少しだけ注目されました。
聖書にある、反ユダヤ主義と反キリスト教
私は、NHKニュースの映像にも出てくるヤド・バシェムで、以下のコメントを旅行参加者にしたことがあります。(イスラエル旅行記から)
音が聞きにくいでしょうが、要は「反ユダヤ主義は聖書に載っていることであり、実にイスラエル民族の始まりが、出エジプト記でエジプトのパロがヘブル人の男の子をナイル川に投げさせた、という反ユダヤ主義が契機となっている。」ということです。イスラエルの民の救いというのは、自分たちを虐げ、全滅させようとする敵と戦うことを意味し、敵から解放され自由にされる平和が目標となっていることを話しました。そしてその霊的存在が黙示録12章に書かれていて、「女(イスラエル)」を滅ぼそうとしているのは、悪魔であり、イスラエルがメシヤを与えたがゆえ、また神の選びのゆえに反キリストによって再び滅ぼそうと躍起になっているということであります。
「自分が地上に投げ落とされたことを知った竜は、男の子(キリスト)を産んだ女(イスラエル)を追いかけた。(13節)」
しかし、その後で竜は、「女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。(17節)」とあるのです。つまり、イスラエルへの迫害は、キリストを信じる者への迫害に直結している、ということであります。ユダヤ人が民族的に、またイスラエルの国として攻撃を受けるのは、霊的にキリスト者が攻撃を受けることに直結します。したがって、反ユダヤ主義がイスラム教によって拡がっていることと、キリスト教会への迫害が同期で起こっているのは偶然ではなく、聖書の必然なのです。
ここで私は題名を、「ホロコースト追悼の日」から祈る」としました。初めは「学ぶ」としようと思いましたが、今は学んで理解しているだけではない時代になった、そこから真剣に執り成しの祈りを捧げなければいけなくなったと感じています。一つに、イスラエルを祝福し、エルサレムの平和のための祈りが必要です。次に、中東のキリスト者が守られ、大胆に福音を伝えることができるようにという祈り。そして三つ目に、イスラム教徒が偽りから解放され、福音の真理を悟り、救われますように。
【補足】
以下は込み入った議論です。親イスラエルと呼ばれる人々は、反ユダヤ主義やユダヤ偏見に敏感です。しばしば、「イスラエル寄り」「パレスチナの惨劇を無視している」という批判も受けます。しかし、それらの主張を客観的に検証すると、やはりどうしてもユダヤ人に対する不均等な批判や責任追及がされており、自分たちの悪には目をつぶっている面があることは否めません。
例えば、去年のガザ戦においてはガザ地区のパレスチナ人の子たちがイスラエル軍の爆撃で死んでいる、怪我をしているという非難が、一斉に日本の中でも起こりましたが、親イスラエルの人たちは別にイスラエルだけ見ているのではなく、その周辺地域にも目を向けています。数日前、シリアにあるパレスチナ難民キャンプがイスラム国に乗っとられて、今はヌスラ戦線(イスラム過激組織の一つ)の支配に移行しましたが、国連事務局長は「死の収容所となっている」と訴えました(NHKニュース)。しかし、これらに対する声はアラブ社会はもとより国際社会からもありません。ある地域研究生はこう言いました。「内戦、テロ、独裁、破綻国家、地域大国間の代理戦争など、アラブ諸国にはあまりにも問題が多すぎて、誰もパレスチナ人の苦境に同情する余裕はない。解決困難な問題や凄惨な行為を前にすると、昨夏あれだけ批判したイスラエル軍事行動の残虐さが霞むほどだ。今のアラブにとって、パレスチナ問題は欧米批判のレトリック以上の意味はない。」
もし、本当にパレスチナ人の福利を気にしているならば、それゆえにイスラエルを非難していたのであれば、イスラム国やヌスラ戦線にも非難をしなければならない、またシリア政権の弾圧も非難しなければなりません。ところが沈黙を保っている所に、いざイスラエルが同じイスラム原理主義のハマスなどに攻撃を受けてその応戦に対する非難を受けても、その偽善性、二重基準が見えるので冷めた目でしか見えないのです。
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