「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10章25節)」
教会に集うことの重要性を勧めるために、しばし用いられる聖句です。
ここの「かの日が近づいている」という言葉に注目したいと思います。5月4日に、カルバリーチャペル日本カンファレンスで、「時代を理解する」という分科会を担当させていただきました。お聞きになった方は、おそらく膨大な情報と知識、また御言葉の解説で圧倒されてしまったかもしれません。けれども、こうした終末論と日々の信仰的戦いは直結しています。先日ある方に、「日頃通っている課題と、イスラム国によるキリスト者の迫害などの世界的な終末の徴は実は直結していて、一つにつながっています。」と励ましました。
「かの日」というのは主が到来される日です。このヘブル人への手紙の背景は、ユダヤ人がイエスを主と告白して生きるがゆえに、迫害を受けていました。ある人は投獄され、またある人は経済的に苦境に入りました。そしてそうした苦しみの中にいる人々を助け、一体化すると、自分自身の立場も弱められます。教会という「新しい共同体」に属しているがゆえに、古い「ユダヤ人共同体」の中に入り込んでいくことが、楽なのでその中で埋没して生きていこうとしていく強い流れが、その背景にあります。
分科会の中では、「日本という国は、実は後藤健二さんの斬首事件を待つまでもなく、戦争が起こってもいないのに、毎年約三万人が自殺で死んでいっている。つい昨日も、電車の人身事故でカンファレンスに遅れた人々がいるほどだ。あまりにも慣れてしまっているため、この異常性に気づかないかもしれないが、初めから人殺しである悪魔はこのようにして日本の中で、終わりのシナリオにおいて暴れているのです。」という内容を話しました。
終わりの日には、「愛が冷える(マタイ24:12)」という現象が置き、それは「自分を愛する者が起こる(2テモテ3:2)」という現象があり、しかも「見えるところは敬虔でも、その実を否定する(同5節)」すなわち、教会の中でその傾向が大きくなるという強い流れがあります。
はっきり率直に申し上げますと、日本社会において”常識的に”生きていくならば、必ずこの罠に陥っています。教会として共に集い、主を礼拝し、互いに仕え、愛し合うという献身は、その常識に照らせば狂気の沙汰です。サタンは、人々に救いの喜びを取り上げようとし、聖霊による罪の自覚を鈍くさせ、どうして教会が必要なのかその意義を薄めて、「何となく生きている」という霊的鈍化状態に陥れようとさせます。それこそが、ラオデキヤにある教会「生ぬるい」ということであり、これはイエス様が唾棄される終わりの日の教会の状態なのです。
じっくり時間を取って、イエス様の熱い愛の中で「熱心に悔い改める」時を造られることをお薦めします。(黙示3章19節)
そしてもう一つ、西日暮里バイブルスタディ(これから東十条に移動)で聖霊の賜物を学んでいます。そこで知識の賜物や預言の賜物、見分けの賜物を学びました。自然に習得することのできない知識や示しを、主から超自然的に与えられるのが特徴です。LCFの教会の週報には、裏に祈りの課題を載せています。そこに、次のものがあります。
「引っ越しや新しい部署など、生活の変化」
自然に考えても「五月病」という言葉があるぐらいで、気候が暑くさえなり、木々が青々を繁りはじめるこの季節、新たな生活に期待を膨らませるという肯定面があるある一方で、その環境の変化の中で精神的安定性が欠ける、という問題があります。このことが霊的にも多くの人に起こるかもしれないという思いが与えられて、二か月近く前からこの課題を挙げて祈っていました。
そして今おそらく、多くの方々が、そうした新しい環境の変化の中で実際の戦いの中に置かれているのではないでしょうか?
一見、知的な刺激だけを求めがちな「終末論」、そして個人体験だけを求めがちな「聖霊論」ですが、このようにキリスト者の霊的生活と教会生活に死活的な、重要な教えを持っています。
福音に開かれた門
最後に、霊の戦いが起こるのは決して否定的なこと、悲観的なことではありません。これも分科会でお話ししましたが、聖霊の力の現れ、その喜びがあるからこそ反対者が妨げようとしているのであり、神のすばらしい働きを前提としています。私たちの教会にも、先週、教会が初めてという方がイエス様を心に受け入れました。カンファレンスのアフターグローで、聖霊のバプテスマを受けたいと言って前に出てきた姉妹がいました。そして一か月ほど前に二人がイエス様を受け入れましたが、その一人は昨日、どのようにして家の仏式のしきたりをやめ、整理するかをお話ししてくださいました。確実に、主が働いておられるのです。戦いはありますが、それは攻めている証拠、御国が無理にでも地上に入り込んでいる証拠なのです。
「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(1ヨハネ5:4)」