カルバリーチャペル西東京の山東さんは、しばしば大胆で、鋭いツイートをしてくれます。
クリスチャンにおける accountability とは。 . 人は自分の間違いにはなかなか気づかないものです。だから人に見張ってもらい注意や導きを受ける必要があります。それをアカウンタビリティのある関係と呼びます。 . クリスチャンは少なくとも数人のアカウンタビリティの 続
— Santou3103 (^^)/✞ (@Santou) 2015, 5月 29
続きのツイート:
「クリスチャンは少なくとも数人のアカウンタビリティのある友を持つ必要があります。こちらもその人には愛を持ってものを言います。
牧師も当然見守り、見張ってくれている牧者です。それを簡単に「あの牧師おかしいわ」というのは、本当の戦いを知らないからではないでしょうか。ヘブル13:17
信仰の従順
これは大切なことばです。
ローマ 1章 5節
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。
牧師もまた数人の牧師の中でのアカウンタビリティを保つべきです。
この人が私の牧師だ(厳しいこともいってくれる人)と言う人がいますか?
そのためには、自己主張 男ではなく人からものをいってもらえやすいティーテャブルな人格でありたいですね。」
私にとってのアカウンタビリティー(accountability)
アカウンタビリティーは、もちろん父なる神に対して申し開きをするという大前提があります。そして互いの関係です。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」という箴言の言葉(27:17)にあるように、真実な友が必要です。私にとっては、第一に妻でしょうね。(笑)一番、はっきりと、抜けていること、欠けていることを言ってくれます。その大部分が的を射ているので、ずばっと言われても、ちょうどマッサージの時にツボに入るように、痛いですが傷は付きません。
そして第二に、仲間の牧者たちです。なるべく”普通に”語れる仲を大事にしています。嫌になるほどその教訓を学んでいます。特に日本の場合は、武士道的な男性像が沁みついているので、指導的立場にいると自分が孤独になっていることに気づきません。周囲の仲間の牧者に自分のことを明かすことはせず、「自分は主に従っているのに他の人たちは分かってくれない」「周りは、この大事なことに気づいていない。」という、自己憐憫や他者批判が始まると危険信号です。それは、独善の始まりです。
すると、直接被害を受けるのは必ず、その教会の信徒たちです。権威主義的になったり、何か駆り立てられるような教会形成をしようとしたり、自分の活躍できる、安心できる場をなんと教会にしてしまうからです。教会で仕えなければいけないのに、自分の心理的欲求を満たす、仕えられる場に変えてしまいます。これは主の御心と相反しますから、信徒の方々は、とばっちりを受けるのです。(あるいは信徒こぞって、そういう牧師を持ちあげたら、教会全体が独善的、閉鎖的になっていることでしょう。)
以前、「きちんとした「牧師」の欠け」というブログ記事を書きました。牧者たちの交わりで必要なことは「どうしようもない、ふざけた会話をすることができるか?」、けれども「聖書や霊的原則については真剣に語り合い、異なる意見が投げかけられてもそれを良しとできているか。」であります。前者は、悪い意味で真面目になってはいけないこと、笑えることは「これは自分の国ではなく、神の国なのだ。」という余裕とへりくだりを与えるのに必要だからです(参照ブログ)。後者については、「拒まれるという恐れを抱かせないから、意見をぶつけても大丈夫」という安心感があるかどうか、です。そして自分が間違っているかもしれないという、余裕とへりくだりも身に付きます。
そして第三に、「教会の仲間」であります。自分を愛し、尊敬してくれている人は、説明してくれなくても分かります。自分の居場所を牧師との関係で確保したいとか、あるいは自分の我が儘をただ押し通したいからとか、不純な動機は分かってしまいます。けれども、その動機が愛と尊敬から来ていることも感じ取れます。牧者は決して人を喜ばせるために動いてはならず神を喜ばせなければいけませんが、それでも自分を愛し、神の立てられた召しを認めてくれている人が、ずばっと言ってくれる言葉は、そこには緊張感があり、妻と同じように痛いけれども、傷は付きません。
キリストにある成長を促す仲
みなさんのクリスチャンとしての関係は、どうなっているでしょうか?今、お付き合いしている、仲のよいクリスチャンを見て、「この人たちを通して、私はイエス様の似姿に変えられたであろうか?」を問い直してください。自分が受け入れられるため、拒絶されないための手段としての友情になっていないか?自分の負い目を指摘されることを恐れて、成熟したクリスチャンを避けていないか?本来求めるべき方は、父なる神であり、真実の友キリストであられるのに、それをその友で代替しようとしていないか?肝心なところは問題を逸らして、真実な友情が育まれていない状態が続いていないか?
言われたくないことを言ってくれて、でも、自分をそのままで受け入れてくれているという安心感を持てる友はいるでしょうか?そして自分自身は、相手がどんなであろうとそれでも受け入れ、けれども、その犯しているかもしれない罪は決して受け入れない、その葛藤の中で悩み、接し続けているでしょうか?真実な友情は「聖い愛」に基づいています。
そして、牧者は、その人柄によってではなく、神の置かれた位置と賜物によって、人々を見ています。その人が優れているとか、そんなことは関係なく、ちょうど台風の目の地点にたまたま自分がいて周りが見えるように、一人一人の霊的状態を、ある程度、把握できるような位置に置かれています。「この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。(ヘブル13:17)」この「見張り」は刑務所の監視員のそれではなく、プールの監視員のような役目です。高い椅子からプール全体を眺めることができるように、全体を見渡すことができるように神によってされています。それで平安に、安心して主との歩みができているかどうか、眺めているのです。
ですから、牧者と、主にあって良い関係(霊的に大事なことを相談できる仲、祈ってもらえる仲)を持つことは、ご自身の霊的成長にとって必須です。牧者も真剣です、私欲やえこひいきなどを捨てて、主にある正義と公正をもって人々に接するように命じられていますから、そうした内なる葛藤を経て、人々に接しようと努力しています。不完全ですから、申し訳ないという負い目を正直、持っています。神の憐れみによって、主に仕えさせていただいています。
こうした仲が、英語の「アカウンタビリティー」の言葉の意味に含まれています。この言葉が使われている御言葉を最後にあげます。
「私たちは、おのおの自分のことを、神の御前に申し開きする(give account)ことになります。(ローマ14:12)」