カルバリーチャペル牧者会議2015年

7月6日から7月14日まで、アメリカのカリフォルニアに夫婦で行っていました。6日から9日までが牧者会議で、10‐11日に米国在住の日本の方々にイザヤ書セミナー、そして12日は聖日礼拝で友人や日本語部の方々と交わりました。

このブログでは牧者会議のことを詳しく報告したいので、その前にイザヤ書セミナーの報告を短くします。とても祝福されます。以前、何度か教えたことのあるイザヤ書ですが、例年、アメリカで行っている時は前もって準備をあまりしていないけれども、主がその時に語られる預言的な言葉が多く与えられます。今回は28章から39章までを読みました。

イザヤ書の学び
(音声のところに(14年)と(15年)となっているのが、アメリカで行っているイザヤ書セミナーの学びです。)

牧者たちの喜びの交わり

牧者会議は、これで二回目です。例年参加していた宣教会議を含めて、今回のはもっとも主に語られたのではないかと思われるもので、そして主のご臨在と交わりが豊かにあったものでした。牧者たちの賛美は歌うのではなく、心から叫ぶような感じで、天の御座にそのまま届いている感じでした。神の恵みによって救われた、罪赦された者の集まりなのだ、その感動を持って主に仕えているのが牧者なのだ、と改めて感動しました。

初めての牧者会議は2013年でしたが、牧者チャック・スミスが昇天する前の最後の会議であり、とても貴重でした。2014年は出席できませんでしたが、その主題はFORWARD MOTION(前進)というもので、チャック無き後のカルバリーチャペルが、前進することをテーマにしていました。Transition(次世代への移行)というのも、副主題になっていたと思います。

2014年 FORWARD MOTION

保管されたライブビデオ(Livestream)

高画質ビデオ(Vimeo)

そして今年の題名は、THINGS THAT MATTERです。訳せば「大事にすべきこと」でしょうか。大切で基本的な事柄に留まることを教え、カルバリーの基本の基本に拘ったものばかりでした。これからのカルバリーチャペルがどうなるか、私は正直、少し不安でした。けれども、私の知っているカルバリーがそこには生きていました。主をほめたたえます。

そしてもう一つの特徴は、「若い世代で、それほど名の知られていない牧者たち」がスピーカーになっていることです。カルバリーチャペルの運動が、確かに主の御言葉の広がりによって成り立っているものであり、人ではなく御霊によるものであることを実感しました。

2015年 THINGS THAT MATTER

保管されたライブビデオ(Livestream)

高画質ビデオ(Vimeo 現在更新中)

心に留まった言葉の覚書

それでは、それぞれのスピーカーの個人的に強く語られた部分を書き留めていきます。(ということで、この記事は更新されていきます。)

ジム・ガラガー牧師、カルバリーチャペル・ベロビーチ

マルコ3章13-19節 「神の召し」について

①どのように
イエス様は、12弟子を選ばれる前に祈られた。主を絶えず求める必要。求めないという教訓、ギブオン人についてのヨシュアたち、若者と年寄りの助言を聞いたが主を求めなかったレハブアム。

②誰を
背景や能力がかなり多様で異なる者たち。けれども、教会を建てるという同じ働きをしている(エペソ2:22)、同じ報いを受ける。

③何に?
「イエスと共にいるため」牧者として召される前に、クリスチャンとして呼ばれている。使徒4:14、彼らはイエスと共にいた。

最後に、彼らにイエスは権威を与えられた。使徒たちは聖霊の力を求めた、彼らのしていたのは霊的な事がらであるが、自分にあるのは自然のもの(肉のもの)。だから、聖霊に拠り頼む必要がある。

ネイト・ホールドリッジ牧師、カルバリーチャペル・モンテレーベイ

「信仰」ルカ8章40節から

大事なのは、46節「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」イエスからの力が必要。

長血を患う女とヤイロの娘に共通しているのは、「どうしようもない切羽詰まった状態(desperation)」である。この状態こそが、イエスの御力を見る成分である。

切羽詰った状態の中にも、状況の良いものと大変のものがある。例えばヨシュアたちがエリコ攻略の戦いの時と、その後、アイに負けて退歩してヨシュアが祈った時のことがある。

長血の女がイエス様に触ったが、その接点が私たちにもある。例えば、愛をもって神の真理をはっきりと言わなければいけない時、よく整えられた兄弟を新しい働きの時に送り出すとき、説教の最後に招きをする時など、牧会の現場でいろいろある。そして、そのままの自分でイエスに触る。

「娘よ」とイエスは呼ばれた。イスラエル共同体の蚊帳の外に置かれていた彼女であるが、中に招き入れられた。イエスがおられれば、疎外を感じていても、すでに仲間である。

信仰が直したということは、ヤイロにとっても信仰を建て上げた。

長血の女は、隠さないで起こったことを話した。良い部分だけでなく、弱さも語る正直な証しが、御力の現れと絡めて行われた。

「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」死んでしまったことに、大胆不敵にも「恐れないで、ただ信じなさい。」と言われた。

死んでいるというという事実に対して、それが全てではないことを信じる。自分が経験していることを越えて、命を信じられるか?

「死んだのではない、眠っているのです。」信仰によって、キリストの声を聞ける。この信仰の立場を、ヨシュアとカレブ、ダビデ、ハバククも取った。恐れると、とんでもない、誤った決断をさせる。

イエスが触られると、イエスが汚れるのではなく、相手が清められる。

イエスは力をもって、私たちに関わろうとしている。

リチャード・シミノ牧師、メトロ・カルバリー

「礼拝」2歴代29章

非常に打たれる御言葉でした。何度でも聞きたいメッセージです。

「神を礼拝する」ということが究極に大事なこと、私たちの信仰の活動を行っていることで、いかなる、あらゆる領域にも神が礼拝を受けることになっているのかどうかが、問われているという内容です。

28章はヒゼキヤの父アハズが、主への礼拝をあらゆる形で妨げ、やめさせ、偶像礼拝をさせた人で、29章のヒゼキヤは偶像を捨て去り、主を礼拝することに情熱を注いだ人。

世界、宇宙は、アハズに代表される、自分を中心にする、自分礼拝、偶像礼拝になっているその力と、神を中心にする神礼拝の二つの力が働いていて、それが相対している状態である。

神が礼拝を受けるようにしているのではなく、礼拝賛美をしているつもりで、自分を中心にしっかり持った偶像礼拝になっていることさえある。

自分の生活や心にある問題は、その問題を解決、矯正する以前に、神を礼拝するところから離れてしまっている、つまり心に偶像を持っていることが問題。神を神とするところから外れてしまっている。

神の御国が来るように祈っているのか、それとも自分の国を築こうとしているのか。

牧者にとっては、牧会の働きそのものが偶像になっていく戦いにいる。自分が聖書の学びの準備をしていて、「おおイエス様、あなたはどんなにすばらしいお方なのでしょうか!」と感動、感激している実を結ばせているのか?

礼拝とは、神の前にいる存在としての自分であり、活動よりも優先する。

礼拝において、中庸は存在しない。神を礼拝するか、そのために偶像を心から取り除いているか?(6節)

礼拝において大切なのは、一致である。自分を支えてくれている人は、その支え助けることにおいて、神を礼拝できているかどうかが大事。

新約聖書学者 デービッド・ファーネル

彼と次の日のジョー・ホールデン博士は、「無誤」(Inerrancy)について話しました。

この話題については、また別の記事にしたいと思いますが、聖書の言葉は神の霊感によるものだから、人がしばしば犯す誤謬から自由にされている、「誤りなき言葉」だということです。

前から日本の教会の中においても起こっている、不気味な動きを感じていましたが、それが実はアメリカの福音派の神学校で大きな嵐となって吹き荒れていることを知りました。前世紀にアメリカの教会は、近代主義との闘いをしましたが、その動きが舞い戻ってきた感じになっています。しかもそれは、近代主義・自由主義神学と闘ってきた福音主義の中で起こっているという指摘です。

彼の講演の内容は、次のサイトに詳しく説明されています。

Defending Inerrancy
(無誤性を護る)

マタイ27章45-56節にある「十字架後の聖徒たちの復活」について、それは「終末的象徴表現だ」とする学者が、福音主義の神学校の中から始まっていて、その学者の意見に対して著名な神学者たちが支持している、という話から始まっています。

信者の方々に知っていただきたいのは、日々、そして毎週、説教壇に立って御言葉を取り次ぐ者たちは、何らかの形で訓練を受けている、ということです。それは聖書に対する取り組み方、その聖書の成り立ち、体系、そしてそれをどのように信仰生活に当てはめるのか、その枠組みとなる神学を学んでいます。どの教師から学んだか、というのはその後の牧会姿勢に多大なる影響を及ぼします。そして、その神学を形成しているのが、これら神学校の教師たちであり、そこで聖書の無誤という、極めて本質的立場から離れていっている、ということです。

それが、福音派の神学校として著名なところでどんどんその傾向があるということは、私も小耳に挟んでいました。私は元々、そうした著名な神学校ではなく、寺子屋的な、カルバリーチャペルの敷地の片隅で、けれども優れた、聖霊に満たされた教師たちの集まる学校で教えを受けていたので、福音界の中心部で何が起こっているか分かりませんでしたが、日本にいる牧師でも、そうした著名な神学校を卒業している方々が多いです。

ですから、信仰の戦いの現場、最前線にいる信者の皆さんにとって、その核となっている説教壇からの説教、その聖書の言葉が、正しく伝えられていかなくなる、というとてつもない霊的危機にある訳です。

上のビデオのデービッド・ファーネル博士は、学者であると同時に牧会もしており、そうした牧会者は、神から主の羊の群れを任されている、非常に大きな責務を感じており、こうした動きが非常に深刻であることをまともに受けています。

最後の補足として、カルバリーチャペル・コスタメサの牧者ブライアン・ブローダソンが、「聖書には、教会に牧師また教師を立てたことは書いてあるが、学者を立てていることは書いていない。学者は、牧会の現場ではなく、いつも書物に囲まれて、取り組んでいる。この違いを知っておくことは大切だ。御言葉を任されているのは、神の目からは私たちであることを覚えておく必要がある。」とのことです。

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