縦と横の関係
先日参加した2015年カルバリーチャペル牧者会議で思わされたことについて、続けて分かち合いたいと思います。その一つは「結局、横の関係は縦の関係から来ている」ということでした。チャック・スミス著「クリスチャンの家族関係」から抜粋します。
(引用始)
私たちの多くは、バランスのとれた人生をおくることを望んでいるでしょう。人の人生には、二つの側面が存在することを知っている事はとても大切です。それは、横の関係と縦の関係です。横の関係とは、人が人とお互いに持つ関係です。縦の関係とは、神との関係です。この二つの側面は、中心の軸に固定されています。
私たちは、友人とけんかをしたりすると、この横の軸の調子が悪い状態になってしまい、それが修正されるように願います。私たちは、このバランスのとれていない状態になると、また並行に戻そうと、個人的な関係をやり直そうとしたり、調整したりします。私たちは、年中バランスのとれた人生に戻そうと、試みているようです。事実、困難な事は、一つの関係が回復したと思われるやいなや、また違った問題がやってくることです。正しい関係を人々と保つことは、不可能のように思われます。
例えば、職場での関係がとてもよいと思っていても、家での関係が悲惨だったりします。そして、家での状況を直そうと務め、スムーズになったかと思うと、職場ですべてのことがうまくいかなくなったりします。ですから、私たちはいつでも、この横のバランスを持続的に維持しようと戦っています。
現実に、このバランスのとれた人生を保つための答えは、横の側面を正し続けることではありません。その答えは、私たちの人生において、縦の側面を正すことにあります。神との正しい関係は、私たちの持つすべての人間関係に影響し、横の側面にバランスをもたらします。イエスは、言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ 6:33)
心理学の弱点は、心理学者が、あなたの個人的な問題の助けをしようとするときに、その兆候だけをどうにかしようとすることです。問題の核心は、あなたの神との関係にあり、この事が正されるまでは、他のすべてのものが正されることはありません。
神のことばに立ち返り、私たちが神との正しい関係を持つためには、心の奥底から、イエス・キリストを主であり、救い主であることを受け入れ、献身しなければなりません。
聖書では、私たちが他の人と正しい関係を持つためには、神が油注がれた原則に従って生きなければならないとも言っています。みことばは、私たちの家族に愛と調和をもたらし、神に油注がれた具体的な原則を教えています。
(引用終)
人の集まりだが「神」の教会
これは家族関係だけでなく、教会内の関係においても同じです。教会の中の人間関係を調節すれば、かえって問題がこじれます。なぜなら、教会は人の集まり以上に、各人が神との関係を正す場であるからです。神との関係がたまたま、人間関係の中に表れているにしか過ぎず、本質は主に向き合うことなのです。キリストの体は絶えず、頭であるキリストにあって正され、愛は自分ではなく神の愛によって満たされ、他人を愛するのです。自分は、教会の中のこと、その奉仕や交わりにおいて、自分の至らなさ、欠け、そして罪や肉が示され、それで十字架に行き、神の憐れみと恵みを知り、そこからスタートします。人と人との間にある現象は、その源流から出ているごく一部の場面、通過点にしか過ぎず、取り組むべきは「主に対する献身、専心」であります。
今週、火曜日の聖霊シリーズの学びの「勧めの賜物」の中でも、カルバリーチャペル・コスタメサのかつての副牧師だったロメイン(Romaine)さんが、しばしば相談に来る人に、こう言ったそうです。「主を信頼しましょう。私に助けを求めないでください。主に頼りましょう。私にはあなたを助けることはできませんが、主は助けてくださいます。」
まずは「主との関係」なのです。
主の前に置いている心の偶像
そこで私たちは、心を探られます。牧者会議で「礼拝」について説教した方が、「神を礼拝しているか」という究極の問いかけ、そして心にある偶像の問題を取り扱っておられました。ブログ記事から抜粋します。
神が礼拝を受けるようにしているのではなく、礼拝賛美をしているつもりで、自分を中心にしっかり持った偶像礼拝になっていることさえある。
自分の生活や心にある問題は、その問題を解決、矯正する以前に、神を礼拝するところから離れてしまっている、つまり心に偶像を持っていることが問題。神を神とするところから外れてしまっている。
神の御国が来るように祈っているのか、それとも自分の国を築こうとしているのか。
そして、ある牧師さんが、「カウンセリングをする時は、その問題を解決するということよりも、その人が持っている偶像を早く発見する。」ということを話していたそうです。私たちは、この偶像を取り除き主に献身する礼拝生活を、日々送るように命じられています。そこに中庸はありません。「自分は神を礼拝しているか、そして心の偶像を取り除いているか?」という問いかけです。
「祭司たちが主の宮の中にはいって、これをきよめ、主の本堂にあった汚れたものをみな、主の宮の庭に出すと、レビ人が受け取って持ち出し、キデロン川へ持っていった。(2歴代誌29:16)」
教会のリバイバル(霊的復興)は、ここにあるでしょう。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)」
水谷潔さんがブログで、こちらの記事をリンクし、「自分と言う偶像」という点に注目して記事を書いておられます。
昨日紹介したブログ記事に大きな反響
もう一つ、以前見つけた記事ですが、「依存関係」について取り扱ったものです。
神を「利用」する信仰と、神に「信頼」する信仰
ここで教会における依存の問題を取り上げているけれども、何も牧師への依存に限らず、他の信者への依存もあると思う。適切な表現は次の言葉だった。
「信仰とは本来、「依存」である前に「信頼」であると私は思う。前者には盲目的、他力本願的、思考停止的な姿勢が含まれているけれど、後者には積極的な選択が含まれている。自らの考えで神を選び取り、その愛に信頼し、多少の不利益があってもその言葉に従って生きる。そういう生き方は、「神への依存」というより、むしろ「神への自立的信頼」だ。」
イエス様は弟子たちとの交わりをとても大切にされた。けれども、それはたった独り、さみしいところで父なる神に祈ることに取って替えられることはなかった。そして、ゲッセマネの園では十二弟子がそばにいて、さらに三人の弟子を近くに引きよせ、さらに三人からも若干離れて、お独りで父に祈られた。このバランスこそが、私たちを生かすのではないかと思った。
主との独りの深い交わりがある者たちが互いに交わるからこそ、その交わりには命があり、平安があり、癒しがあり、豊かさがある。自分の交わりが果たして主からのものか、それとも肉につながりかを知るには、「主の命令」が物差しになるだろう。命令が与えられた時に素直に従えるかどうかだ。そのつながりが切られても、それでも主に従うか、それともそのつながりを守るために反発するか、その選択が与えられていると思う。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。(ルカ14:26)」
こんにちは。以前、夫婦関係が悪い状態にあった時に、牧師にある本を読むように勧められたのですが、まさにこの偶像を扱ったものでした。どの夫婦関係も偶像が問題とは思いませんが、多くのケースがそうだと聞いた事があります。つい最近、教会内の問題で証人として、話し合いに参加することになったのですが、問題の1つは偶像でした。たとえいい事でも偶像になると、教会内の調和を乱してしまうのですね。