ヒルソング教会に対する攻撃
とても大事なニュースを読みました。発端は、ニューヨークのヒルソング教会において、その聖歌隊のリーダーの二人が、公に同性愛者であることを発表し、既に婚約、結婚も予定している、というニュースです。何人かの友達のFacebookにも流れていました。このヒルソングの牧師は、オーストラリアの主任牧師もニューヨークの牧師も、同性愛についての是非を公の場で明らかにしなかったニュースが流れていました。(日本語記事)そのために、今回のニュースが一気に広まったのです。
しかし、このニュースに対して、オーストラリアのヒルソング教会の主任牧師が、事実を訂正しています。
Hillsong Church Statement by Senior Pastor Brian Houston
August 2015
要旨は次の通りです。「ヒルソング教会の同性愛に対する立場は、聖書に一貫するものであり、パウロがこの主題については立場をはっきりとさせている。数か月前、聖歌隊の責任者の一人が、予期せぬ発表をした。時々、聖歌隊で歌う一人の男性との婚約だ。私たちにとっても青天の霹靂だった。私の理解では、この二人はそれ以降、教会の奉仕や指導的働きには関わっていない。以上だが、それでも私たちは彼らを愛しているし、彼らも私たちと同じように旅の途中であり、教会としての役目は、恵みと憐れみをもってその旅の手助けをすることだ。」
そして、主任牧師の「同性愛者を愛するか」という立場のブログ記事をリンクしています。同性愛者が教会には歓迎だが、指導的立場に付くことはできないとしています。
私はこのニュースから、三つのことを思いました。
① 初めに聞いたことを、全て信じない。
「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。(箴言18:17)」
私は、ヒルソングの教会について詳しく調べたことがないですし、有名ですが、一部に批判されている教会でもあるということは、何となく分かっていました。おそらくは、個人的には同意できない部分はあるのだと思います。けれども、同意できない相手であるからといって、その人のことについて事実と反することは決して言ってはいけない、と思っています。そして、今回のように聖書的対応をしているのであれば、それはきちんと評価すべきでしょう。インターネット、特にフェイスブックやツイッターのソーシャルメディアによる拡散は注意する必要があります。
何かショッキングなことを聞いても、それは思いに留め、さらなる調査を自分なりにする必要があります。
② 同性愛という問題は、高度な霊の戦い
今回のニュースについて、日本のカルバリーチャペルの宣教師が、自分のFacebookでとても大切なことを述べています。一部、だいたいを訳すとこんな感じです。
「教会の指導者が(この人たちは、実際はそうではないけれども)、あまりにもあからさまな罪を犯していることが見つかった時、それはその教会の人たちにとってもショックなことです。これは、その罪の中にいる人に対する霊的攻撃のみならず、教会の人々に対する攻撃でもあります。
ここの場合、企みというものが存在することをいつも忘れないでいたいと思っています。その企みとは、同性愛は罪であるという聖書の世界観を変える謀です。多くの同性愛者がこの企みを持っていて、その奉仕の中枢に入って、突然「カミングアウト」をして大きな波風を立てるために教会に出席している、ということは驚くに値しません。
それが起これば多くの話題を集めますから、その公衆の前でキリスト者の価値観に反対する宣伝活動を行い、今回の場合は教会政治に対して反対するのです。すべて計画済みのことなのです。
大きな影響力のある教会のために祈りたいです。このような激しい攻撃の中で彼らがしっかりと立っているように。私たちの文化に、こうした影響力のある人々が必要です。彼らの全てに同意できないかもしれませんが、彼らが聖書に立つならば、この病的な文化の中で偉大なことのために神は彼らを用いるでしょう。」
(Facebook投稿)
コメント欄では、「多くの同性愛者がこの企みを個人として意識して持っているかどうか分かりませんが、霊的に敵からの攻撃の一部であることは私もそう思います。」という人の意見がありました。私もだいたい、そう思っています。同性愛という問題は、決してその個人の性向や罪だけの問題ではなくなっています。政治的な問題であり、それをさらに越えて、霊的問題、霊的な攻撃となっています。
同性愛者が自分の性的問題で悩んでいるだけなら、話は単純なのですが、同性愛を聖書的に教会として是認するという、非常に強固な神学体系が欧米にはあり、それを受け入れている人は自ずと、そのような動きの中に入っています(参考記事:「同性愛と教会」)。ちょうど巧妙な異端と同じです。さらに政府や社会、マスコミが同性愛を是認し、後押ししています。
③ 罪は御体を傷つける
先ほどの宣教師の言葉にある、「その罪の中にいる人に対する霊の攻撃のみならず、教会の人々に対する攻撃でもあります。」ということに注目したいと思います。大きな罪、小さな罪というものは神の前ではありませんが、けれども、「こういう者は内部で裁きなさい」とパウロがコリント第一5章で指導したように、明らかな罪、教会として対処しなければいけない罪があります。なぜ、対処しなければならないかと言いますと、その個人への霊的攻撃のみならず、全体への霊的攻撃になるからです。
ある人が罪を犯しているとします。大体こうなります。その罪について、「まさかその人が・・・」という衝撃を受けます。しばらく、その事実が受け入れられない放心状態が起こりますが、次第に、「本当にそれをやったのか?」という疑問にも変わります。①でお話ししたように、実際にやっていない場合もありますから、事実の確認はしっかりとしないといけません。けれども、やはりそのとおり、明らかに罪を犯していることが分かると、それでも、どうしても受け入れられない人たちが出てきます。
そうした、事実を受け入れられない人たちが出てくる一方で、「それは罪と呼べるのか」という、罪かどうかという疑義を差し挟む人々も出てきます。それは事実かもしれないが、教会で対処するほどの大きな問題なのか?と疑うわけです。コリントにある教会がそのことを行なっていたために、パウロは5章で、使徒の権威をもって裁かなければいけなくなりました(5:3‐5)。
ちなみに、どんな罪なのかと言いますと、「不品行や姦淫、男色」というような性的罪、「偶像礼拝」というような霊的罪、そして「盗む者、略奪する者」という倫理的罪、「貪欲な者、酒に酔う者」というような肉的罪があります(1コリント6:9‐10)。そしてガラテヤにおいては、律法による義認を強調するユダヤ主義が入り込んでいたので、「敵意、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派」というような高ぶりの罪も含まれます(6:19‐21)。
しかし、罪を犯したという事実を認めたくない、あるいはその事実は罪ではないとする人々が、いや罪であるから対処しなければいけないという人々に対立し、距離を取ります。そして、そのような時に、日頃から十字架に付けないで放っておいた肉が、この機会に刺激され浮上し、現われ出ます。そこで教会に、「秩序の乱れやあらゆる邪悪な行ない(ヤコブ5:16)」が出てくるのです。また、罪を対処しようとする人々の心は、この時点で折れそうになっています。したがって、罪を犯したのは一人や二人であっても、周辺がその罪のことで汚されるのです。
こうやってキリストの御体全体が傷つきます。
知るべきこと:
まず、私たち教会に集う者たちは、ちょうどパン種が粉全体をふくらませるように、自分の罪を教会全体に広げてしまうのだ、という恐れを持つべきです。誰かに対する悪い思い、自分が持っている罪、隠れて行なっている罪、教会というのはそれらを聖霊によってはっきりと示すことによって、神が裁かれる場となっています。ですから、主を恐れなければいけません。
次に、勇気をもって告白することです。もし良心の咎めを受けているなら、ぜひ信頼できるクリスチャン、そして教会の責任者に伝えてください。
そして教会が取り組みます。ここからが大きな挑戦です。今、話しましたように、教会全体がその痛みを受けなければならず、それを全ての人が引き受けられるかと言いますと難しいからです。しかし、引き受けないといけません、選択肢はありません。ここで対処を誤ると、大きな深い傷を残すことになります。しっかりと主が言われた通りにしないといけません。
ヤコブは、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(4:6)」と言いました。主の前にへりくだるのです。そして、「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(4:7)」とあり、悪魔が逃げ去るのです。
私の聞いている、ある教会では、牧師が罪を完全に認め、その職から降りた。そして、リハビリを本格的に行なっている。そして教会では、たとえ自分の牧師だったとしても、その罪を明らかにする。そして、いつものようにしっかりと教会の使命を果たしていく。周りの教会は、裁くのではなく、愛をもってその教会を支えました。そして、教会には新たに牧師が任命され、前の牧師の個性ではなく、確かにイエス・キリストによって立っている岩であることが証明されました。癒しと回復、勝利はあります。
明石 牧師へ
癒しと回復、勝利があるといいですね。
私の通っている教会では、牧師が被害者に口止めして罪を隠蔽しようとしましたが、一年後に教団の知るところとなり、牧師はしぶしぶ謹慎して、エリヤハウスを受講しました(リハビリのつもり)
教会、教団共に、信徒には何があったかは明らかにせず、数十人の信徒が教会を去りましたが、その中の多くの人達は他の教会にも通ってないようです。
謹慎後、一年数ヶ月経って牧師は昨年辞任。前任牧師が復帰しましたが、昨年の受洗者は3人、今年は1人、病気、引っ越しなどで礼拝につながっている人はいません。
今年になって、不祥事で辞任した牧師が別の教会で講壇に立ち、説教をしたそうです。
これでも主にあって癒しと回復、勝利があるのでしょうか?
すみません。会ったこともない、なんちゃってクリスチャンの悩みなど、知ったことではないでしょうが…。
栃木県在住のヘンデルと申します。
貴ブログをいつも活用させていただき感謝です。
わたくしどもの教会は会員が若干名しかいません。
そして、牧師夫妻は月の半分は巡回で不在でございます。
もともと宣教団体としてスタートしたのでしかたないところ
と認識しています。
信徒説教者兼信徒リーダーとして、もうすぐ定年ということ
もあって御前に立つつもりです。当然、真っ直ぐな信仰が
求められます。しかし、教会をやめるという騒ぎを20年間の
間に7回もやり年によっては礼拝にほとんど出ないということも
ありました。本当に不信仰な者でございます。
今永年(44年程度)にわたる苦しみから解放され御前に立つ
つもり、いや決意したのでござます。このところ神様から妻
や隣人を愛するとはどういうことなのか教育されているところ
です。
そのようなときに、このような記事出会えたことはまことに幸い
でございます。常に信仰の成熟を目指したいものでございます。
身が凄く引き締まる記事でございました。感謝でございます。
みなさまがたのうえに更なる祝福がござますように
また、神様の栄光が顕されますように。
ヘンデル
こと 石川慶久
こんにちは。いつも聖書の洞察に励まされております。このニュースについて続報が上がっておりました。
http://christiannews.net/2015/08/09/hillsong-choirs-gay-couple-contradicts-brian-houston-we-have-been-open-forthright-from-get-go/
声明原文: http://www.twitlonger.com/show/n_1sn7km8
このカップルはブライアン・ヒューストン氏の声明に対して、自分たちの交際が最初から教会のリーダー層から認められた上で、奉仕リーダーをしていたとしています。
私が違和感を感じていたのは、この同性愛のカップルたちがこの結婚を公にする前に何年にも渡って教会での奉仕リーダーを務めていたということです。にも関わらず、それに周囲が気づいていなかったというのは不自然に思えました。あくまで私見ですが、彼らの言うとおりすでに彼らがカミングアウトしていたと見たほうが自然に思えます。
この件に関するニュースが一旦終息するまでどのようなことがあったのか、本当に「御体が傷つけられた」のか判断することはできないのではないかと思いました(もちろん一般論としてそういうことはあると思いますけれど・・・)。単に非難にさらされてヒルソング内で情報が錯綜していただけという可能性もあります。
この記事によるとどうやら彼らの内では平和裏にことは終わったみたいですが、同性愛者が奉仕リーダーを務めることはできなくなったようです。
(英語がそれほど堪能ではないので、誤認があったらすみません・・・)
貴重な情報をありがとうございます。その二つの記事を読みました、とても大事な点、そして霊的戦いの深さを明らかにしておられます。
①「この同性愛のカップルたちがこの結婚を公にする前に何年にも渡って教会での奉仕リーダーを務めていた」
このことは、十分あり得ます。同性愛者は、普通の生活の中でなんら異性愛者と変わることなく生活しております。そして本人がカミングアウトする時に、近くにいる人々が驚愕することは多々あります。それだけ、その人の性向は気づかないものなのです。
②「彼らの言うとおりすでに彼らがカミングアウトしていたと見たほうが自然」
彼らが既にカミングアウトしていたのは、彼らが本当のことを言っているのなら「どこまでだったのか」が問題です。聞いた人はそのことを自分だけに留めていた、ということもあり得ます。私が想像するに(本当に想像の域を出ませんが)、ヒルソングの教会の実際はこのようであったと思います。
1)同性愛者の沢山いる所、同性婚の合法化されているところでの教会の開拓において、「同性愛が罪」であるということを公にすることは戦略的に賢いことではない。そうしてしまうと、教会の門戸を彼らに閉ざしてしまう。彼らは教会に受け入れられるべきだ。
2)しかし、教会政治において、どこまで同性愛者が奉仕に関わるのかを曖昧にしていた。指導的立場には入れないことは決めていたが、奉仕をすれば、それを忠実に行なっていれば、ある程度、責任が任される。ゆえに、本人は”忠実”に奉仕を行なっていた、それで彼の奉仕の立場は定着してしまった。
3)このような教会監督の手薄が、今回、あるブロガーによって広められることとなった。
4)ヒルソングとしては、指導的立場に入れる意図はなかったので、それを公にした。そして事実、二人は奉仕の立場から外された。
ゆえに、
③「本当に「御体が傷つけられた」のか判断することはできないのではないかと思いました」
と言われますが、私は、むしろ本当に傷つけられたと思います。まさにサタンの思う壺です。私が書きましたように、本人たちがどこまで意図的に教会の中に入ろうとしていたか、分かりません。しかし、はっきりと「同性愛者としてヒルソング教会の中で、どこまでこの共同体が教会に受け入れられるのか、試してみる。」という意図は本人のツイートを見て伺えます。これは紛れもなく、知り合いの宣教師が書いた企み(agenda)に当てはまるものです。これをよく注意しないと、「とても善意をもってやっているのに・・」ということになりますが、いいえ、「同性愛が罪ではないとする聖書神学」を神学議論ではなく、既成事実化して定着させようとしている意図がはっきりしています。ものすごい悪意です。よさそう見えて悪いことをしている、本人たちも自分を欺いている・・これまさにサタンです。
このニュースで、ヒルソング内で本来、しなければいけない宣教命令を果たさない大きな誘惑があります。そうではなく、今、主任牧師を始めとして、主がなされていること、命じられていることに忠実になり、なお同性愛者についても、このことを良い機会にしてはっきりとさせ、より効果的に、周囲の地域に仕えていくことができるようになることを祈ってやみません。おそらく彼ら、リーダーシップもその内的葛藤を、今、経ていると思います。いや、私だったら経ると思いますが、彼らはもうわかっていて、淡々とやっているかもしれません。
同性愛者で自分はクリスチャンだという方へ:
①自分が通おうとしている「教会」が、「同性愛は罪」としているかどうか確かめてください。
②自分が、自分のその性向は悪いものだ、この葛藤が福音で克服できるものなら、神様にそうしてほしい、と願ってらっしゃるなら、ぜひその教会に集い、通ってください。その教会は貴方のものです。
③もし、そのつもりがないなら、その教会に来ないでください。決して「その教会で同性愛者は受け入れられるべきだ。」と思わないでください。それは、教会の秩序の根底を覆すものです。兄弟姉妹全体が傷つきます。
ご返信有難うございます。
なるほど、たしかにカミングアウトにも段階がありますね。私も今回の内情はそのようなものであったのだろうなあと思っています。また、そのようなツイートをされていることに気づいていませんでした。たしかに挑戦的な意図と取ることもできますね。偏った見方を修正できて感謝です。
色々な理由からヒルソング教会の動きに注意しているのですが、少なくとも彼らがLGBTへの対応に苦心し重荷を背負おうとしているのはよく分かります。
祈りつつ、彼らの働きに注視していきたいと思います。
一年前のビデオで、主任牧師がニューヨークの教会に、同性愛者が聖歌隊にいることを言及している記事が出てきました。
Houston, We Have a Problem: Video Shows Hillsong’s Brian Houston Knew About Open ‘Gays’ in Choir
ですから、主任牧師が「青天の霹靂(complete surprise to us)」と言っていますが、かなり微妙であります。しかし彼は嘘はついていません。彼らが婚約したことが青天の霹靂であっても、同性愛者が聖歌隊にいることは知っていた、ということでしょう。政治的論点になっている同性愛問題を教会に持ち込みたくないという牧師たちの気持ちはとても分かります。しかし、同性愛を悔い改めるつもりはなく、むしろそれを教会の中で受け入れられようとする姿勢を持っている人には、やはり教会から出ていただく、ということになるでしょう。神の国には、そのような人は決して入ることができないのですから(1コリント6:9)、そうすべきです。
やはり、教会の牧師や指導者が、どこまで同性愛者を教会に受け入れるか、その監督や教会政治に関わる問題です。次の記事はかなり参考になります。
ぜひとも紹介したい「同性愛」についての「救世軍軍律」
・まず、「同性愛的傾向」と「同性愛行為」とは分けられるべきである。
・「同性愛的傾向」は具体的行為に及ばない限り、責められるべきではない。しかし、罪悪を生み出さぬよう注意は払われるべき。
・彼らは、非難ではなく、理解と助けを必要としている。
・同性の青少年を指導するような仕事以外の仕事への従事はよいことである。
・同性愛傾向のある信者も、救い主に近く歩み従う生活をするなら、勝利ある救世軍人となれる。
・異性間の不道徳行為同様、同性愛行為を放棄しない者は、救世軍人として受け入れられない。
もう一つ、良い記事があります。
Straight, Bible-Believing Christians Can Undermine God’s Plan for Marriage Too(まっすぐな、聖書を信じるクリスチャンも、結婚に対する神のご計画を台無しにし得る。)
全くその通りです。同性愛ばかり取り扱っていく中で、自分自身の結婚や異性との関係、性的純潔についてはどうなのか?という問題があります。離婚はものすごい多いです。そして不品行の問題もあるでしょう。そして結婚していていても、夫婦の間に深刻な亀裂が走っている場合もあります。
そうした問題に取り組み、悔い改め、へりくだって歩んでいくならば、立派なキリストの弟子です。しかし、ないがしろにして悔い改めるつもりがなければ、「不品行」「姦淫」などの罪として、教会からは出て行ってもらわなければいけない問題なのだ、という重大なことなのだという認識は必要です。