今年もまた、8月13‐15日に「マラナサ・バイブル・フェローシップ」を富士山麓山の村で行いました(2014年、2013年、2012年、2011年)。
涼しさで体が休まったキャンプでした。個人的には、今回のキャンプのテーマは「信仰の継承」であったのではと感じました。ゲストで招かれたは、「ユースパッションin Shizuoka」で用いられている、李相勇(サムエル)さんですが、その証しが物凄く心に残りました。自身、牧師の息子ですが、いかに自分自身が信仰を持つべきか、その凄まじい戦いを聞く恵みにあずかりました。
そして、若者が多く来てくれました。私が初めに会った時は小学生だった彼らの多くが今は二十代です。信仰が確実に継承されていますが、しかし、本人たちが聖霊によって深い罪の自覚、キリストの十字架を信仰で見て、その体験を持っています。
反面、信じているのにその情熱が冷めたり、離れていってしまう人々も現実にいることも知っています。ある人々は信仰に立ち返り、ある人々は信仰から遠ざかってしまう・・・。イエス様への道の行き来に、私は厳粛な思いがしました。
終わりの日がマラナサのテーマです。静岡城北の教会の見城和人さんと私は直接的に終わりの日の幻と信仰復興を語ったのに対して、島田の教会の金子一成さんは「赦し」について、深い洞察を与えるメッセージでした。なぜ終わりに関わるのか?終わりは主が裁かれる時です、その時に和解できていなかったらどうするのか?という具体的な適用です。
ヤコブとエサウの和解、またヨセフが兄たちを赦すその力、すべて神のご計画に対する服従、つまり神の力なしには赦すことができないという本質を話してくださいました。
そして神木イエス・キリスト教会の掛川チャペルの石原保彦さんは、創世記3章における蛇に対するエバの言葉、「死ぬといけないから、食べてはいけない。」という、「自分に不利益になるか、利益を生じるか」という御言葉の聞き方をしていると、主の命から離れるという、非常に本質的で、恐ろしく現実的な霊の戦いを教えていました。主の命令は、自分に益になるから従うのではない、我々は「しもべ」の立場を取ることによって、命を得ることができる、というものです。
そして今の教会は、「思い煩いによって実を結ばせなくなる」という指摘も秀逸。
さらに、「祝福というものは、あまりにもすごすぎて、私たちの理解を超えるもの」という説明もものすごく大事。乞食ラザロは、この地上では何もないのに死後に慰めを受けた、こういった理解を超える祝福であるということ。
LCFのHさんも、キャンプの様子をブログで報告しておられます。
そして、私の14日夜の聖書メッセージもリンク先を貼っておきます。
私自身、アメリカのカルバリーチャペルに通い、帰国した時はまだ20代でした。ずっと若造だと思っていたところが、カルバリーチャペルのカンファレンス等で見ると、私はむしろおじさんになっていることに気づきます。そして、その時と同じような若い世代に対して、私自身がどう接すればよいのか、ずっと思いと祈りの中にありました。
本来、私たちが属しているカルバリーチャペルは、「若い世代にそのまま、福音の神髄を聖書によって伝える」というところから、聖霊が興してくださった教会の動きです。(参照記事)その時に、若者が使っていた楽器、ギターが礼拝賛美に取り入れられ、現代の音楽に合わせたメロディーが取り入れられました。その礼拝賛美の音楽はカルバリーチャペルを越えて速やかに広がり、独立し、現代の教会礼拝賛美の大半を占めるようになりました。
https://youtu.be/XmUvnN3mtuc
今年11月にフランクリン・グラハムが来日し、伝道大会「セレブレーションオブラブ」が開かれますが、その時に招かれるバンド「トミークームズ・バンド」は、まさにLove Songとしてカルバリーチャペルから生まれ出たバンドで、草分け的存在です。しかし、彼らも年を取っています、その歌はすでに若い世代には古臭いものになっています。
Relevanceと共に大切なAuthenticity
私は正直、アメリカで起こっている若者向けの礼拝スタイルに、抵抗を覚えていました。古い世代の中に既に私が入ってしまっているでしょう、入墨だらけの腕を見せて説教をする牧師、コンサートの会場のようにサーチライトで光らせる礼拝ステージ・・、これは彼らに寄り添いすぎているのではないか?とも心の中では疑ってしまうのですが、確かに、福音を水増しして妥協している人々もいると思いますが、私がこれまで観察したところ、決してそうではないことを発見しました。
かつて記事「サブカルへの伝道」で紹介したThe Whosoeverですが、度肝を抜く格好や伝道ですが、その福音宣教はむしろ、全く妥協することがない、「自分を捨てて、イエスに従え」という弟子への道を前面に出す、真っ直ぐな御言葉を語っています。
https://youtu.be/m6Gp2b9lPVA
そして最近、とても若い子と交わる機会がありました。彼女は自分でユーチューブの動画チャンネルを持っています。そして、妥協なきクリスチャンとしての証しをしています。見た目は厚化粧で、普通の若い子ですが、ところがそこから出てくる言葉は、若者の陥っている罪をまっすぐに取り扱う、やはり「自分を捨てて、イエスに従う」メッセージになっています。彼女と話した時に、その深い霊的洞察に驚きました。そして伝道への情熱があります。見た目で裁いてはいけないという、主ご自身の言葉を思い出しました。
アメリカの教会では、若者に福音が届くように、その架け橋を作らなければいけないとして、Relevanceという言葉をたくさん使います、「関わりのある」という意味です。しかし同時に、「それだけでは、むしろ塩気のない塩として捨てられる」として、上の伝道グループのように、「本物志向」でなければいけないとします。この本物志向をAuthenticityといいます。飾っていない、本当にこの人たちは信じているものがある、ぶれない、等、むしろ彼らに合わせようとして見た目を変えているだけなのは、そういった偽善に敏感な若者からむしろ敬遠される、ということです。
今回のキャンプでも、私のように、中東情勢を解説し聖書預言を語るのは、若い世代には向いていないのでは?という懸念をいつも持っていました。それで質問したところ、「いったい世界がどうなっているのか、単にニュースを見ただけでは分からない。」として、むしろこうした情報をほしがっていることを知りました。また、二十代のある兄弟が、彼はレゲーのような髪型をしているのですが、高原剛一郎さんによる世界情勢解説を好んで聞いていると聞いて、「なるほど」と思いました。
ですから、私はむしろ自分に与えられている神からの使命、これに素直に忠実であるほうが確かに若い世代に届くのだ、と感じました。
真剣だからこそ出会う神
先ほど紹介したサムエルさんの証しのように、たとえ牧師の息子だからといってそのまま順調に信仰を持っているとは限りません。しかし、確実に信仰が継承されているその親子を見ると、本人が壮絶な体験をしている人たちがいます。The Whosoeverのリーダー、ライアン・リースは、ラウル・リースの息子です。ラウルは、怒りと暴力の問題があり、その地域で恐れられ、妻や娘まで恐ろしくて離れていったところから、救われました。そして息子ライアンは、ポルノ中毒でした。彼も壮絶な肉欲との戦いで、深い悔い改めの中でイエス様によって解放されました。
そして7月の牧者会議において、「牧師の息子たちのトーク」がありました。その一人一人が、いわゆる有名な一世代目の牧者たちの息子が証しをしていますが、皆が自分自身、牧者になっています。
CCSPC15: Pastors’ Sons Panel from Calvary Chapel on Vimeo.
感動しました、こうやって、主は真実な方で、信仰を子孫から子孫へと受け継がせてくださるのだなと思いました。
まだまだ、若い人々への関心と祈りは続きます。若者から四十代半ばのおじさんへの言葉として、何か書き残したいことがありましたら、ぜひコメント欄に書いてください!
Some people may be saved Jesus but I a lot of people are devoted Christian not saved at all . They suffer sickness , poverty and spiritual hardship even they believe in Christ . My wife is a devoted Christian ,so I go to Christ Church with her but I go to Buddhist Temple to worship Buddha , Jizo Deity, Fudo-Myo-oh and Kwan-non Bosatsu and others. That way , I have peace in my mind and financially in good condition .
Victorさん、こんにちは!コメントありがとうございます。ルカによる福音書、特に18章の「金持ちの青年」の話と、16章の「金持ちとラザロ」の話を読んでください。前者は、金持ちであったのに「永遠の命」を知らなかった、つまり救われていませんでした。そして後者は、この世では極貧であったのにその後の世界において慰めを得ていたラザロと、苦しみ悶える金持ちの姿が書いてあります。私たちの考える「救い」は、病、貧しさ、困難の中にあっても、天地創造の神とのキリストにある交わり、そこにあっても愛、喜び、平安をもたらすところにある救いです。そして、私たちの及びもつかないところにある、とてつもない栄光に満ちた富であり、地上での貧富を完全にひっくり返すぐらいの無尽蔵の祝福です。
それがなければ生きていけない、幸せを感じないというのは、不自由であり、不安定であり、そうした”物欲”からあらゆる悪が出てくるのではないでしょうか(争いや不和、貪りなど)。(仏教においても「煩悩」として数えられているものです!)真の金持ちは、金に囚われない価値観を持っています。キリスト者はゆえに、ある人は金持ちになっており、ある人は貧しくても同じように、満足を得ています。そして、財政的利益をもたらす神々は自分を富ませることをしても、貧しい者を顧みる霊的な富はもたらしません。キリスト者の富は、惜しみなく与えるところにある富であり、ご自分の独り子を与えた神は人々に施す者に豊かに備えてくださいます。