憎まれる愛

映画「オダシティ」

オダシティ(Audacity) 」(意味:厚かましさ、大胆さ)同性愛をテーマに、聖書から見た真実を訴える話題の最新作を、映画”180″を制作した、Living Watersが作りました。

見ましたが、この主人公のように、愛をもって真実が語れたらと願い、祈りました。(ところで映画のシーンに、カルバリーチャペル・コスタメサのLogos Building(我が校、School of Ministryも入っています)と駐車場がロケに使われています!)

この中で、クリスチャンの主人公ピーターが何とかして、同性愛者にキリストに愛をもって届こうとしている姿が出てきます。けれども、その愛をどのように示すのか?同性愛者の決まった反応は、「あなたがたクリスチャンは、同性愛者を憎んでいる。私たちが地獄に投げ込まれるということだけを、考えているのだろう。」ということです。しかし、主人公はあきらめずに、彼らにどうやって証しをするのかを考えます。その中で、伝道者レイ・コンフォートによる、質問や対話による同性愛者への伝道場面を録画した動画を観ます。

事件が起こりました。小銃をもった強盗がお店で暴れます。ピーターのAudacity Movie後ろに同性愛の男性二人がいました。彼らがゲイであることを知りつつ、自分にその銃の先を向けさせます。それから、何とかしてその男を倒し、それで全てそこにいた人が救われました。そしてその同性愛者は、命の恩人ともなったピーターにお礼をしたく、ご飯に誘います。そこで会話の中でピーターがクリスチャンであることを明かします。すると、その一人は、ピーターの話すことの何でもかんでも、過剰に反応し、ひどく傷つき、立ち去っていきます。

けれどももう一人は残ります。彼は分かっていました、自分たちが同性愛者であることを知りながら、彼は自分たちを救ったのです。ですから、ピーターは「私の立場は、聖書を信じているところから来ているのです。」と言い、こう言いました。「愛するからこそ、言わないといけない時がある。」とも言いました。つまり、このビデオの題名、「大胆さ」というテーマです。

そして最後に、ピーターの友達の女性が、運転中ガス欠して停車しています。そこに、男が窓を叩いています。自分を襲うと思って恐怖に陥ります。そしてついに彼は、石で窓を割るのです!彼女は襲われると思っていたところ、実はその停車していたところは、線路の上です!列車が走ってきて、何とかその男は彼女を助け出すことができました。しかし本人も重傷を負いました。

つまり、「彼女は彼が、自分に危害を加えようとしようとしている、と思った。しかし、実際は彼女を救おうとしていたのです。」と、彼の弟がテレビのインタビューに答えています。

イエス様がそのような方でした。主は、ご自身が愛してやまない人たちから憎まれました。主の言葉を聞けば、心刺されるので、それでかえって彼を憎みました。しかしその言葉こそが、かえって彼らの魂を救うものだったのです。

同性愛者に限らない「変えられない悩み」

私たちキリスト者の営みは、とても辛いものです。この痛みは、しかし、主がその目に会っておられたのですから、それはむしろ主からの賜物です。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。(ピリピ1:29)」同性愛に限らず、あらゆる形の罪や反抗、そして未信者に限らず、クリスチャンでも、自分で処理できていない深い問題を抱えている時に、仲間のクリスチャンを責めます。

けれども同性愛者が、なぜそこまでしてクリスチャンに憎しみを抱くのか?本人たちは、クリスチャンが憎んでいると思っていますが、実はその逆で、自分たちが相手から憎まれていると思いながら、相手を憎んでいます。しばしば言われることですが、「傷ついたと言っている人は、そう言いながら人を傷つけている。」のです。

けれども、なぜそこまで同性愛者はクリスチャンを憎むのか?その大きな理由は、一つに「自分が変わらなければ、愛されない、受け入れられていない。」という誤解です。社会は男女の結婚制度に基づくように作られていますから、自分がそこに当てはまらないということで、何とかして自分を受け入れられるべく努力しますが、そうならない。だから、いつも内側で葛藤しています。

けれども、神は違います。神は全ての人、罪人をも愛しておられます。罪を犯している時に、神はキリストを死に渡されました。ですから、そのままで愛されているのです。それと、罪が赦されることは異なります。愛しているけれども、本人が悔い改めて神に立ち返り、自分の罪のために死なれ、甦られたキリストに信頼を置かなければ、罪が赦され、罪から救われることはありません。自分の選択で拒むこともでき、死後に裁きを受けるのです。しかし、他の罪と同じように、悔い改めることができる。罪の赦しと清めを受けることができます。

神の愛はその間、全く変わらないのです。ピーターが二人の同性愛者を愛して、彼らを助けましたが、一人は憎しみの言葉を投げかけて、そのテーブルを去っていきました。ピーターはその彼の拒絶を見て悲しんでいますが、彼は福音を聞くことを拒んでもピーターはクリスチャンとして彼を愛しています。けれども、本人は拒んだので、救われる機会をその時は失ってしまったのです。

ですから、変わらなければいけないことを話すのは、愛していないからではありません。神は、そのままの姿で愛しておられるのです。変わらなくても、愛しておられるのです。しかし、愛しておられるからこそ、神は変わるように働きかけてくださいますし、クリスチャンも聖霊に動かされて、そのことを行ないます。

もう一つ、クリスチャンを憎む理由は、「自分が変わりたくても、変われない」という苛立ちです。変われるものなら変わりたいと思っても、一向に変わらない。だから、この自分を受け入れて、これでやっていこうと決めているのが、多くの同性愛者の立場です。そこで「変わりなさい」というと、「これまでそれを努力したのに、できなかったのだ!」と言って、強く反発するのです。

しかし、イエス様の福音は違います。主は命じられるだけでなく、命令に従うのに必要な力を与えられるのです。イエス様は、「子が自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです。」と言いました。自分を捨て、日々自分の十字架を背負い、イエス様についてくる者たちには、主は聖霊を与えられ、確かに従うことができるようにしてくださいます。確かに、何度も失敗するかもしれません。けれども、主は必ず拾い上げてくださいます。その連続です、こうして徐々に聖化されて、主の御心に留まるキリスト者へと変えられます。

「受け入れられている」という愛の保証

自分が受け入れられたいという力は、ものすごいものです。自分が拒まれているのではないかという不安が強いと、心と思いが不安定になり、周囲の人々に挑んだり、責めたりし、何とかして助けようとしても、その愛の手さえも、責められている、支配されている、憎まれているとみなします。そして時には、自分から、人々から嫌がれることをやっていく、という自暴自棄にも陥ります。

しかし、主はあなたを愛しておられます。変わらなくても愛しておられます。その主のところに、そのままで来てください。主は愛しておられます。自分を捨ててください、この方の御胸の中に飛び込んでください。主はあなたの反抗と反発をすでに、ご自分の体にむち打ちと釘刺し、またあらゆるあざけりによって、受け取っておられます。

そして、キリストを愛するクリスチャンたちも、あなたを愛しています。もちろん人間ですから不完全です、そしてあなたもそれを期待している訳でもないことも承知しています。しかし、クリスチャンも神が立ててくださった人たちなのだ、というその恵みを受け入れてください。自分を愛してくれている、その兄弟姉妹をそのまま、自分自身も恵みをもって受け入れてください。

参照ブログ:「自分を変えるチャレンジ、ぎこちない愛
参照記事:「同性愛と教会

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