絶対悪から生じた相対化
昨日と今日、私のフェイスブックにはアメリカの友人の投稿、9・11を記憶するものが並んでいました。二年前の投稿ですが、14年前にアメリカでは「何か」が根本的に変わったことを論じた文章を書いています。
大きなことがアメリカで起こりました。それは、あれだけの大きな悪を見たアメリカは、それこそ絶対的な悪があるとすべきなのに、むしろ反対方向に人々が走ってしまった、ということです。つまり、「物事はすべて相対的だ」という道徳相対主義に陥りました。アメリカ人や、アメリカに関心のある日本人の人と話しを交わす時に、「アメリカは、あのテロ事件で何かが変わった。その根本的なところで変わった。」とします。それは何だろう?と思う時に、私は「相対主義」が解答ではないかと思うのです。
そして、その相対主義は教会の価値観を根底から揺るがしていきました。それは、イエスを信じているとする人々の割合は減っていないのに、絶対的な悪は存在すると答える人の割合は減ったのです。つまり、その信じている「イエス」という方は、はたして聖書に啓示されている本物のイエス様なのかが、疑わしいことになります。
それで、アメリカでは様々なことが起こったのです。オバマ大統領の任期は来年でありますが、その間にアメリカを根底から変えることが次々と起こりました。イスラム教がここまでアメリカで許容されたのは驚きです。そして、最近は「同性婚合法化」であります。全ては相対であるとするから、「神は人を男と女に造られ、互いが一つになる」ではなく、「互いに愛し合っていれば同性でも結婚すればいいではないか。」ということになるのです。
そして、今、アメリカはこんなところまで来てしまいました。
トランスジェンダー(性別越境者)の存在を認めようとした結果、こんなとんでもないことまでが起こっているのですが、なぜこれがいけないことなのか、絶対的な道徳律を認めないのでこうなってしまっているのです。世界貿易センターへのジェット機の突っ込みと、男の子が女の子のトイレに入って良いとすることは、そのまま地続きであり、直接つながっていることを知る必要があります。
悪を憎むことを憎む文化
けれども、どうして「あまりにも明らかな悪を見ると、むしろ人は悪を相対化するのだろうか?」という疑問を持つと思います。その理由は簡単です。「人は、想像をはるかに超える悪を見ると、その悪の存在を認められないから。」であります。(参照記事:「御体を傷つける罪」)こんなに人を悪く見ることはできない、もっと人は良いのではないか?と思うし、そう思いたいのです。事実、そのように思うことは愛の表れであり、愛はすべてを信じ、すべてを期待します(1コリント13:7)。
しかし、それは悪に対する神の裁きを否定するものではありません。むしろ、神の裁きが来るから、それから救われるようにあらゆる努力をすることが、愛の表れであります。悪を「それほど悪くない」と寛容になるのではなく、悪から悔い改め、神に立ち上がるように熱心に願うことが、「すべてを信じ、すべてを期待する。」ことなのです。
箴言には、「主を恐れることは、悪を憎むことである。(8:13) 」とあります。したがって、悪に対してはそれなりの強い対応、対抗、戒規が必要になります。ところが、悪に対抗しようとすると、悪を悪として認められない人は、その対抗している行為そのものが悪いことだとします。分かり易く話すと、通りで銃を乱射している犯人がいて、その犯人に銃撃で対抗する警官隊がいるのですが、その銃撃戦を見て「どちらも銃を撃っているから悪いではないか。」と判断するのです。これを日本語では「喧嘩両成敗」と言います。これはとても悪いことです。悪を憎むことを悪とするので、本当の悪をのさばらせ、そして自分は善人ぶっているのです。
悪を憎むことを悪とするのは、神ご自身への恐れが何もないことを意味しています。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ17:9)」人がそこまで邪悪になれるのか?私たちは凡そ信じがたいです。あまりに衝撃的なので自分の意識下で、それを抑圧して、無きものであるかのように対処します。
この邪悪さが、ユダの国で、実にエルサレムで神を礼拝しているとされる者たちの中にありました。このことを素直に受け入れられなかったから、エルサレムには数多くの偽預言者がいました。バビロンから解放される、そして捕え移された者たちは間もなく帰還できると預言したのでした。しかしエレミヤは、必ずネブカデネザルがエルサレムを滅ぼす、けれども、彼に服する者は後に幸いを見出すと励ましたのです。偽預言者は幸いを預言しながら災いに加担し、エレミヤは災いを預言しながら、後に幸いをもたらすことに貢献しました。
ですから、自分の周りで神から離れ、真理の中に歩んでいない人がいるとします。もし、その人を真実に立ち上がらせる働きに関わりたいなら、まずしなければいけないのは、自分自身が人の罪の深淵を認めることなのです。そんなはずはないとするならば、その人を幸いに導くどころか、その道を自分自身が阻むことになります。
教会での悪
相対化することの悪について、教会で起こっている事例を取り扱ったブログが、二つありましたので紹介します。一つは牧師が相対主義に陥っている例、もう一つは信徒が相対主義に陥っている例です。
「牧師は加害者と被害者に向かって、問題は片方だけではなく、双方に問題があるから起きる。だから、「互いに赦し合いなさい」。この牧師は、問題が何かを知ろうとしないで、問題の原因が双方にあると決めつけ、互いに赦し合うことで解決をしようともしていない。牧師は自分を公平な審判者のように思っているが、問題に向き合わない、問題を真剣に解決しようともしない。お互いに悪いのだっから赦し合うようにと問題を中和化している。自分の判断が公平で正しいと思い込んでいる嫌な牧師である。被害者にとって、問題はどちらにもあると言う牧師は、理解者ではなく、加害者になる。」
「「教会戒規が事実上、機能しない」「信徒を戒めることができなくなっている」などの声を時にお聞きします。そのために教会から聖さと義しさが失われ、罪や不正が放置されているとしたら、それはどんなに神様が悲しまれることでしょう。信徒が指導者や役員会による叱責や戒めを単純に「愛と赦しに反する行為」としか、評価できないとしたら、それは、全く聖書的ではありません。悲しい程、未熟な信仰理解です。聖書が、戒めどころか、除名さえも「敵でなく兄弟」と見なし、「排除でなく回復」を目的とし、「憎しみでなく愛による」対処として記していることを覚えたいものです。」
(注:今、このブログを書いているのは、私たちの教会にこの問題が起こっているから、ではありません。:)けれども、いつでも対処できるような環境作りは必要なので、うちの教会の方々にも読んでいてほしいと思います。)