「音声・映像」から「生身の人」へ

共同体の崩壊

OliveLife2015Nov.今年から、B.F.P. (ブリッジ・フォー・ピース)という、キリスト者による、ユダヤ人帰還民支援団体の月刊誌「オリーブライフ」を送っていただいています。とても良質な内容、かつ祈りの課題が載っていますが、今月11月号の二つの記事には、大きなチャレンジを受けました。一つは、日本支部の局長、高田篤美さんの書いた「ハイナイトファミリーと共に立つ」です。神の家族の大切さ、ソーシャルメディア等による孤立化への警鐘、そして安息、休むことの重要性が書かれていました。そしてもう一つは、ティーチング・レターです。

「共同体に生きる -前編-TEXT:アビガイル・ウッド(BFPスタッフライター)」

「共同体のメンバーは誰一人孤立した存在ではないのです。その共同体の持つ力と健全さは、そこに属する人々の行動や喜び、そして痛みによって決まります。これは共同体に対する伝統的なユダヤ人の見解ですが、今日の世界では一般的とは言い難い考え方です。世界の傾向は互いに責任を持ち合うことから、個人主義へと向かっています。」

そしてキリスト教会の中にも入り込んでいる極端な個人主義、そして聖書から見ることのできる共同体、そしてユダヤ教やイスラエルを通して神から学べることに及んでいます。ぜひ上の記事のリンクの全体をお読みください。

愛の冷える、終わりの日の教会

9月に合同修養会をカルバリーチャペル西東京と持って、そこでテサロニケ人への手紙を学びました(「主題メッセージ」の中に掲載)。終わりの日に生きるキリスト者の意味合いが、ますます現実的に、そして深刻に感じました。苦しみを忍耐する、また神の家から裁きが始まる、人々が真理から逸れていくということが、身近なものとしてそれぞれ参加者は感じ取っていたと思います。「愛が冷える」と主ご自身が言われたこの時代に、私たち自身も心が試されています。シンプルに、主に仕える僕であることを信じ、多くのことは主に任せ、キリストを源として神の愛を受けていくことの大切さを学びました。その中で私たちが清められ、そこから出てくるへりくだりの霊で主に仕えるところに、神の優しさがあると思います。

終わりの時代にある教会には、強烈な「自分を生かす」頑なさが人々の間に横たわっているような気がします。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。その時に人々は自分を愛する者、・・・見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:1‐5)」ここ数年、感じている、底流にある極端な個人主義、自己中心性について、十分に言葉にして説明できるかどうか、分かりませんが、やってみたいと思います。

「サテライト(衛星)教会」

アメリカの教会には、とかく新しい動きがいろいろと起こりますが、その一つが、「サテライト教会」というものです。あるいは、「マルチ・サイト教会」とも呼ばれます。サテライトは「衛星」のことですが、これまで「メガ・チャーチ(大型教会)」と呼ばれる、数千人、万単位の教会における実際的な弊害を乗り越えるために考案されました。一つの巨大な教会であれば、広い駐車場が必要になり、それから教会に近づくと交通渋滞も発生します。また教会においても、礼拝堂にも制限があるので、敷地の他の建物にモニターを取りつけて、そこで礼拝を守るということが行われて来ました。

サテライト教会けれども、今、技術が進み、人工衛星によって高精度映像を同時発信することができるようになりました。そこで考案されたのが、複数の場所で衛星によって送られる映像を通して礼拝を守るということです。大学のキャンパスのように、元の教会を「メイン・キャンパス」と呼び、それを囲むようにして、各場所に小規模な集まりを作り(つまり、大都市の周囲にある衛星都市のようにして)、それを「~キャンパス」と呼びます。

それぞれのキャンパスには、「キャンパス牧師」と言って担当の牧師がいます。礼拝は、その牧師が責任、担当し、賛美チームもその場で礼拝賛美を導き、そして説教だけ、メイン・キャンパスの主任牧師が行なう、という流れです。

この考え自体に、私は大きな問題は感じていません。しかし、やはり人間の肉の弱さによって、こんな問題が出てくると思います。

牧者や指導者の存在が、生身の人ではなく「映像・音声」になっている。

問題提起をしている記事(英文)があったので、ここにリンクしておきます。
Multisite Churches are Here, and Here, and Here to Stay

牧者の働きは、病人のために祈る、魂を監督する、戒める、そしてパンを裂くことなどがあります。そのためにキャンパス牧師がいます。しかし、傾向として共同体よりも、集会所になっていってしまうのではないか?という懸念があります。集まる場所、イベントとなってしまい、自分が捧げるところではなく”得る”ところ、となってしまい、自分の利益を捨てて他者のために生きる共同体意識が薄れてしまうのではないか、という惧れを説明しています。

共同体だからこそ、働かれる聖霊

しかし、このブログ記事で私はサテライト教会の是非について書いているのではなく、その傾向がサテライトにせずとも個々の信者の中に起こっているのではないか?と感じています。教会という共同体の存在をないがしろにして、気の知れた仲間が集まるために利用する場所になっていないか?ということです。確かに、物理的には礼拝や類似の集会に参加しているのですが、そこはあくまでもフォーラム(集会所)以上の役目を果たしていない、ということです。

牧者や長老、担当の指導者とは関わろうとしないのです。そして、すでに自分たちの仲間は作っている、あるいは独りで孤立しています。それ以外の人々とは、キリストにある具体的な交わりはない。一つになっているという共同体意識が薄いです。そのため、ある時は「教会という共同体の中に一つの分派を形成している」ということになります(参照記事)。これはまるで、生身の指導者や他の兄弟姉妹を、あたかもモニターの中に押し込めて、ただ音声や映像だけが欲しいという状態になっているのではないでしょうか?

しかし新約聖書によれば、音声や映像ではなく、互いに責任関係を持つ、生きている人間に聖霊が賜物を与えて、その中で主が働かれ、励まし、癒し、愛を注がれるのです。

他人事ではなくなる聖霊の声

ロゴス・ミニストリーも例外ではありません。このウェブサイトには、創世記から黙示録までの聖書講解の音声メッセージと原稿が掲載されています。そして、そこで説き明かされる神の御言葉があります。それを聞いて、人は「アーメン」とうなずきます。しかし、その「音声」が、実際に語っている者、「人」となる時に大きく変わるのです。私個人は、説教の準備をしている時は一般的なことを語るようにしています。ところが、聖霊はそれだけで終わらせません。知識の言葉として、また預言の言葉として、聞いている人々に直接関わる事柄を語られるのです。

そうすると他人事のようにして聞いていた御言葉が、まさに自分に語られていることを知ります。悔い改めて、罪を捨てて、神に立ち返らないといけません。いや、「いけない」のではなく、そのようにすることができる祝福があります。聖霊によって清めていただき、自分が変わっていくことが可能になるのです。これこそがリバイバル、御霊によって生かされることです。

そこで、今の終わりの時代にある特徴、「自分を愛する」という強い頑なさ、自我が試されます。自分を神との関係において根本的に変えなければいけない部分が示されます。福音の真理の中に生きているのであれば、「自分は罪人であり、どうしようもない人間です。このままの姿で、主の十字架のところに来ます。私を憐れんでくださり、この罪を清めてください。」と祈ることができます。ところが、自分というものが要塞化しており、それを変えることを拒むのです。教会において大切な「戒め」という働きを拒み、それを行なうと「愛がない」といって責め立てます。

自分を捨て、互いに服従する

しかし、教会活動、信仰的な活動はしてみたいのです。福音によって、ありのままの自分で神のところに近づかないままで、活動だけはしてみたいということになります。ガラテヤにあった教会の問題になります。つまり、「信仰によって聞いて、御霊によって始まったのに、律法の行ないによって完成させようとしている。肉によって完成させようとしている。」ということです(3:2‐3)。

律法主義というのは、表向きはきれいに整っています。見た目は霊的に見えます。表面上の言葉や振る舞いは、ごまかせるでしょう。けれども、内面においてはあらゆる肉の行ないが蠢き、「互いにかみ合ったり、食いあったりする(5:15)」、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派(5:19‐20)」など、神の国の平和とは程遠い状態になってしまうのです。

自分を捨てない人にとっては、神の恵みは非常に冷たいもの、妬ましいものになります。カインとアベルのことを思い出してください、カインは自分の畑で作った物を神に捧げましたが、神は受け入れませんでした。しかしアベルの羊のいけにえは受け入れました。カインは怒り、妬みました。なぜ神はカインのを受け入れなかったのか?「自分のしたこと、努力は神の前では無に等しい」からです。人が罪を犯し、その地も呪われたものとなり、私たちがどれだけ努力しても、それは神の前では不潔な着物のようなものだからです。しかし、アベルの捧げ物は、主が命じられたこと、つまり罪を赦すには、犠牲のいけにえが必要、血を流すことが必要という神の方法を、彼は受け入れ、それに基づいて行動したからです。つまり、神の恵みによって、信仰によって動いたのです。

そして、このことを体現するのが教会という共同体です。自分が何かをして認められるところではないのです、私たちがキリストを選び取るために、自分を捨てていくところが教会です。そして捨てていく者に聖霊が恵みによって賜物を注ぎ、それで主にお仕えしていくところです。

共同体にいれば、自分を捨てて、キリストを第一にする。そして他者を敬うということが必要になります。それから互いに服従することが必要です。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(エペソ5:21)」この「服従」ができない人がいます。服従すれば、自分の尊厳が失われるのではないかと恐れている人たちがいます。しかし、キリストの福音は、自分の尊厳どころか、自分が死んでいるとみなしなさいと教えています。そのような人の心は、キリストのへりくだり、その豊かな愛に触れて、その感動によって心がキリストに明け渡されています。ゆえに、主に命じられたことについて自分を失っても服従できますし、その服従は他者との関係の中で行なってきます。

「私はキリストには従えるが、人には従えない」という人はどこかで、福音理解が間違っています。「私はキリストに従うゆえに、全ての人の僕となりました。」と告白できるとき、福音を確かに理解しています。

活動していることと、実を結ばせることの違い

自己を残したまま活動することには危険があります。聖書の知識は溜まり、クリスチャン用語は駆使することはできるし、祈ることもできます。しかし、実を結ばせることは決してできません。実は、キリストとの関係のよってのみ結ばれるものだからです。そこで終わりの日の教会というのは、どうなるのかをイエス様は警告されました。

こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 (マタイ7:20-23)」

そして、この後に岩の上に建てた家と、砂の上に建てた家の例えをイエス様は話されますが、最近、時宜にかなった説教を聞くことができました。私の友人の宣教師によるものです。

信仰の杭をしっかり打ち込んで 野外合同礼拝 Dan Bolinger牧師

杭の長さ不足イメージ

横浜のマンションの傾き、杭施工記録に改竄の跡があったという問題を例話に出していますが、まさに図にあるような霊的状態になっていることが多いのです。御言葉という杭を打ち込んでいても、強固な地盤にまで届いていないのです。「自我」という堅い地盤に、「御言葉」という杭が打たれることを拒むのです。地面(思いや心)には打っているので、クリスチャンらしく振る舞うことはできています。クリスチャン活動は十分にできるのです。聖書の知識はしっかりと蓄え、祈り、伝道さえし、立派に見えます。しかし、御言葉によってのみしか砕くことのできない自我がそのまま残っているので、何かに刺激されると、まるで主を知らない、御心に反した行動を取ります。しばしば日本の教会では、「つまずく」という言葉が多用されていますが、それは非常に不名誉な言葉であり、自分の中に御言葉が打たれていないことを言い直しているにしか過ぎません。

初めからやり直すぐらいの自己吟味を

私たちは終わりの日に生きるキリスト者であり、キリスト教会です。今の課題を、決して自分だけの問題だと思わないでください。自分が罪を犯していれば、全体が痛むのです。誰一人として、わがままのいうことのできない、しかし互いに仕えていく、キリストのへりくだりの中に生きていくことです。

どうか、自分を見つめてみてください。自己点検ですね、「ここが自分の教会だ」「この人が自分の牧師だ」と言うことができますでしょうか?それとも、何か考えが合わない、人間関係につまずく、ということで教会をしばしば変えたりしているだけで、共同体に加わっていない、また教会に行っていない、教会ではない集会だけにということであれば、自分の信仰自体を吟味したほうがよいでしょう。果たして、キリストの福音に根ざしてた信仰になっているのか、また初めからやり直すぐらいの点検が必要だと思います。

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。(2コリント13:5)」

「「音声・映像」から「生身の人」へ」への2件のフィードバック

  1. こんにちは

    B・F・Pのことは何も知らなかったので、紹介して頂き、有難う御座いました。イスラエルの回復を強調する方々のなかには、残念ながら再臨カルトやセカンド・チャンス論を支持する方々もいてちょっと身構えてしまうことが多いのですが、こちらの団体は聖書に則った健全で素晴らしい働きをされている団体のようですね。

    聖地巡礼…。私は無理そうですが、せめて子供には行かせてあげたいですね!!

  2. 初めからやり直すぐらいの自己吟味 という言葉が、ココロに響きます。
    有難うございます。
    大変だし勇気が必要ですが、不必要なモノがココロの真ん中あたりにあったとしたら、棄てるべきだと思いました。
    昨夜の夢は、頼っている人に頼るのをやめよというモノでした。
    オカネや仕事、会社に頼るのをやめても、人に頼るのもダメだと。「鼻から息の出入りする人に頼るのをやめよ」 と書いてあります。
    本気で頼れるのは、主イエスキリストだけ。ですね。
    天地の創造主に、本気で頼れますように。心底から信頼できますように。

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