「神はなぜ戦争をお許しになるのか」

下の本を先ほどオンラインで注文しました。

「神はなぜ戦争をお許しになるのか」ロイド・ジョンズ著

神はなぜ戦争をお許しになるのか

注文したきっかけは、次の書評を読み、とても共感できたからです。

「D・M・ロイドジョンズが「戦争」について書いた本『神はなぜ戦争をお許しになるのか』(いのちのことば社)から、いろいろと教えられている。同書は、1939年10月に著者がロンドンのウェストミンスターチャペルで5回にわたって行った説教を書き起こしたもの。その前月には、ナチスドイツのポーランド侵攻があり、そこから戦火がヨーロッパ全体、世界全体に広がっていくという、非常に緊迫した状況の中で語られたものだ。

ロイドジョンズはここで、戦争は罪の結果の一つ、罪の現れの一つ、であるとして、「戦争を起こさないでください」と神に願うのは、あらゆる罪の現れのうちの、ある特定の結果が起こらないよう神に願うことだとし、その願いには自分本位さが含まれているとする。

つまり、罪そのものには関心を抱かず、一つの罪の結果──それは私たちの安逸な生活を破壊する──に関心を持ち、それが起こらないように願うという姿だ。ロイドジョンズは、聖書から、神が戦争を許されるとする。

同書を読み、日本が戦後70年の間に積み上げてきた罪について思った。日本は確かに、「戦争」はしなかった。しかし、罪がなかったわけではない。「平和」の下で積み重ねられてきた罪がある。金や性を偶像化する罪。この平和の中で、キリストの福音に心を開くこともなかった。

本質を言えば、憲法9条によって日本の平和が守られてきたわけではない。神の憐みによって守られてきたにすぎない。私たちが今なすべきことは、先の戦争の反省もさることながら、戦後にこの国が積み上げてきた罪の現実を見つめ、とりなし、地の塩としての働きをすることなのだろうと思う。」(引用元はこちら。太字は私によります。)

イスラム国などの動きを見るにつけ、これから、テロや戦争が日本においても起こりかねない状況になるのではないか、という感触を抱いています。そのような状況を許されている神の御旨を深く考え祈りたいこの頃ですが、政治的行動に動いている教会が多くあることを感じています。その中で、私がフェイスブックで書き留めたものを、覚書としてこちらにも掲載します。

真実な反省・悔い改めではないのでは?

(『終末を生きる神の民』(後藤敏夫著)を読まれた牧師さんの投稿に対してのコメント

「渾身の思いを込めてお書きになった言葉、本当に「いいね!」でした。

「確かに自分は無自覚に特殊なミルクを飲んでいた…。しかし、その特殊なミルクのすべてが悪かったのだろうか…。良い成分は含まれていなかっただろうか…。問題は「無自覚に飲み続けていたこと」なのではないか…。新しい別のミルクは果たして健全だろうか…。良い部分はどこで、悪い部分はどこで、どちらとも断言できない部分はどこだろうか…。」

こんなことを言っては本当に申し訳ないのですが、ここに書かれているような牧師の方々の姿勢、また福音派の戦責告白や一連の行動には、どうしても賛同できません。それは政治的見解が異なるということではなく、ここに書かれていることです。はっきりいうと、「謙虚さが足りない」ということです。

問題は「自分の無自覚さ」にあったはずなのに、その受けていたミルクに責任転嫁しているのではないか?その受けてきた霊的資産を、どうしてそのように丸投げするのか?たとえ不十分なところがあっても、受けた恩恵を感謝すべきなのではないか?平和を求めているようで、どうしても私には、嫌悪感、拒否感といったものが先走っていると見えてしまいます。そう感じてしまう自分にも正直、悩んでいます。

もっと大きなことを話せば、戦時中、日本の教会が戦時体制に迎合していたということを、戦争をしたから、現政権にすり寄ったから悪かったのだ、という結論を出してやいないか?そうではなく、外圧や同調圧力などで、真実に福音の真理、御言葉に立っていなかったこと、それが問題であって「戦争」のせいにしていないか?「政権」のせいにしていないか?こんなことを思うのです。

戦後「50年」も経ってから出された戦責告白、私にはどうしてもそこに真実味を感じることができません。しないよりましだ、ということでもない。むしろ、何か不純な動機を隠してしまうことになったのではないか?と感じてしまうのです。(中略)

だから、私は安保法案の騒ぎについても、心を静めて、「主よ、今この日本で、そして世界で何を語っておられるのですか?」という訴えるような叫びをもって祈っています。教会が真実な証し人となれるように、そしてこの国に生きている人々を神が憐れんでくださいますように。」
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第三の道があるはず

以下はある牧師さんの投稿です。

「体制派でも反体制派でもなく・・・
最近、国論を二分するような政治問題が次々と起きています。そして、それぞれにそれを正当化する合理的な理由があるように見えます。ただ、とてつもなく違和感を覚えることがあります。それぞれが、相手の意見を徹底的に非難していることです。
今から二千年前のイスラエルで、ローマ帝国からの独立を願う反体制派と、ローマ帝国との共存しようという体制派が、激しい議論を交わしていました。イエスはどちらに与することもなく、誰も思いつかなかった道を歩まれました。そして、両方の派から憎まれ、十字架にかけられました。
イエスを十字架にかけた人々は、その後、互いにさらに争いを深め、その後、過激派が実権を握って、ローマ帝国軍の介入を招き、自滅しました。
しかし、それは、イエスの二百年前のユダ・マカベオスの後継者間の争いを見ていたら分かったことでした。せっかく建てられたユダヤ人の独立国家は、内紛のあげく、百年も経たずに自滅しました
体制派も反体制派も、自分たちの政治見解を絶対化します。実は、それこそが落とし穴なのではないでしょうか。互いに憎み合うこと自体が、国を自滅に向かわせます。もっと落ち着いた議論ができることを願っています。
クリスチャンの特権は、全能の神に祈ることができることです。そこから、体制派も反体制派も思いつかないような、別の道が見えてくるかもしれません。いや、その前に、互いに自分を絶対化していること自体が、根本的な過ちなのだと示されるのではないでしょうか。
イエスの十字架は、人間的には敗北のように見えました。しかし、それは死の力を滅ぼす神の救いの道でした。その後のイエスの弟子たちは、この世の政治対立を超え、愛の交わりを広げて行きました。彼らは何よりも、イエスに習って、失うことを恐れなくなりました。そしてやがてローマ皇帝自身がイエスを救い主と信じるようになります。
ローマ帝国は、政治的な対立者は力でねじ伏せることができました。しかし、体制派でも反体制派でもない人々には、なすすべがありませんでした。
そんな道が、現代の日本の政治対立の中で見えないかと…日々祈っています。」(引用元

別投稿ですが、上と同じ関連記事です。

「最近、日本のキリスト教世界においても、政治に関する議論がネット上で活発になされております。それ自体は感謝なことですが、あとひとつ、キリスト教会らしさが表れていないのが残念です。どこかの政党と基本的に同じ主張のように聞こえてしまうことが多い・・・

目の前の問題を巡っての、人間の知恵と力による解決の議論ばかりをしてしまい、異なった見解を持つ人を、悪意ある人と見るか、無知蒙昧かのように非難しあうことがあります。

しかし、人間の歴史とともにあり続ける問題を、「こうすれば解決できる・・・」という発想自体が危険極まりないのではないでしょうか。
与党も野党も、政治権力によってシステマチックに解決しようという提案をします。それが政治ですから、当然とも言えますが・・・
イエス様の解決は、そうではありませんでした。神のご支配を信じながら、損得勘定を超えた生き方ができること、そのような交わりを作ること、それによって世界を変えようとされました。イエスの話は、実は、きわめて政治的でした。
ローマ皇帝の絶対的な権力の下において、その支配に力で逆らうわけでも、服従するわけでもない、まさに暴力の支配から自由になりながら、目の前の人に寄り添う道を示されました。
政治に徹底的に関心を持ちながら、どの政党でも言えないような神の国の発想を、日本の教会も伝えられるようになりたいと祈っています。」(引用元

続いての補足記事:

「ローマ帝国に税金を払うのが律法にかなっているかどうかを問われたとき、問いかけた者が持っていたデナリ銀貨を引き出させながら、それを見せて、「これはだれの肖像(エイコン)ですか」と問います。
そして、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と言われますが、これは政教分離の話ではない・・・
イエスの敵対者たちはローマ帝国の支配を非難しながら、ローマ皇帝の肖像で保障された通貨に頼って生きている・・・税金を支払うのが良いかどうか以前に、自分たちの現実を直視するようにと言う勧めですが、次が劇的です。
私たちひとりひとりが、神のかたち(エイコン)、神のものとして創造されている・・だから、カイザルではなくて神に徹底的に従うように・・・と、訴えたのです。
それはある意味で、皇帝崇拝のような脅しには決して屈しないように、徹底的に神に従えという政治的な訴えです。
でも、税金を納めるかどうかなど、それは生死をかけるに値しない問題である・・・ということ
これは、現在の多くの政治論争に言えそうに思います。どちらを選択しても、必ず別の問題が起きるのですから・・・
それよりも根本的なことが私たちは問われている・・・それこそ、超政治的でありながら、きわめて政治的なことかなと思っています。」(引用元

上の三つの記事に対する私のコメント:

「本当にその通りだと思いました。「超政治的でありながら、きわめて政治的」というのは、先の記事でお書きになった、ハスモン朝やイエス様昇天後のユダヤ人が、極めて政治的だったのだけれども、結局、内部対立で異邦人勢力に倒されていったのに対して、イエス様の語られる世俗の政治を超える「神の国の政治」と申し上げましょうか、そこにある命は、ローマ帝国を覆してしまう程の力を持っていた、ということですね。

その力が、「カイザルの銘は大したことではない、神のエイコンに従うことに比べれば」という、より高い次元を大義にしなさいということですね。本当にそう思いました。

そこで私がずっと感じていることは、「神に徹底的に従うように」という、その献身というのが日本のキリスト教会に希薄ということです。本来なら、いわゆる熱心な政治団体よりも、神の国への帰属意識や献身がなされていなければならないのに、しかも、それが既存の政治や世の価値観に埋没することなく、するりするりと抜けていくような気軽さがなければならないのに、その部分、強いキリストへのアイデンティティーと言ったらよいでしょうか、「私は命を落としても、キリストがおられるのですから構わない。」という気概が見えない、ということです。

私は、信教の自由が制限されている国で宣教をしておりましたので、そのことを感じます。迫害下の教会では、反体制などという選択肢はないし、あったとしても彼らはそれをしようとは毛頭思っていまん。むしろ指導者のために執り成して祈り、それは迎合しているのでもなんでもなく、真実に祈っています。ちょうどダニエルがネブカデネザルに対して抱いていたような立場でしょう。けれども、それがかえって彼らの神に対する献身をかえって明らかにしており、三人の友人は火の中へ、ダニエル自身は獅子の穴の中に投げ込まれました。同じようにして、決して反政府ではないのに、その強烈な「キリストを主とし王とする」態度が、政府にとって潜在的な脅威となり、それで迫害、弾圧の対象となります。

ところが、迫害があるからこそ、教会に復活の原理が働き、なおのこと清められ、広がります。そして政府がクリスチャンの存在で悩み、むしろ取り入れなければこの国が成り立たないのではないかと真剣に考えさせるまでになっています。迫害があるからこそ、かえって御国が広がり、ゆえに世を凌駕してしまうのです。

こういった御霊の流れが、日本のキリスト教界ではごく少数であり、危機的であると感じている次第です。

私は確かに、日本が政治の領域でも危機的であると感じています。しかし、人間にとっての危機は、神が働かれる契機です。私たちがただキリストを主とあがめれば、必ず教会は清められ、むしろそうした圧迫した状況が人々が霊的な飢え渇きを抱かせ、真理へと導かれるようになるのです。しかし教会がそこまで清められているか、そうした飢え渇きに応える器として整っているのか?「キリストを主とあがめる」「キリストを王とする」という支点が教会に見えない・・これがものすごい問題意識として感じています。

戦前・戦時中の教会史を少しかじりしましたが、今の状態はほとんど変わっていないと思います。反省は、先生の仰るような御国観においては、ほとんどなされいない状態で、放置されているような気がします。

今は、何か行動に移す時ではなく、主の前に自分がしっかり立っていられるか、という踏ん張る時期ではないか、むしろ力強い主の軍隊の前で、敵が焦って同士打ちをするのを虎視眈々と待っていないといけない時ではないか、その主の戦いの陣営で私たちが待っていなければいけないところにいるのではないか、と感じているこの頃です。

日本がいろいろな意味でおかしくなっているのですから、それで必ず飢え渇きが起こるのですから、そこで私たちがその飢え渇きに応える福音の真理をしっかり持っているのかどうか、と自問しております。」(引用元

さらに付け足しのコメント:

「ローマの迫害を背景にしたペテロ第一にも、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても・・。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(2:13,17)」とありますが、王を尊べ、王に従えと言っていながら、「人の立てた」とはっきりと言っており、これ自体が、皇帝神格化否定だったということに、ある時に気づいて驚きました。徹底的に皇帝を人間に位置に落とし、そして主のゆえに敬い、従う、という姿勢だと。これは、単純な反ローマよりも、次元の違う、もっと厄介な存在だったのではないか、と思います。」(引用元

「「神はなぜ戦争をお許しになるのか」」への5件のフィードバック

  1. 天の御父の栄光を示すため、福音の真理を携えて、人々の飢え渇きに応えられるような主の僕(しもべ)として、私も使役くださいますように。

    尊き主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
    アーメン

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