「神はなぜ戦争をお許しになるのか」の続きです。完読しました。第二次世界大戦の始まる頃に語られた、ロイドジョンズの説教はあまりにも、今日の教会の状況と似ており、身に迫るものがありました。そして、私が聖書を読んでいて、クリスチャンになって以来、その中にある戦争の記述の意味を、これほどはっきり知ったことはなかった、と言っても過言ではないぐらい、読みながら、圧倒的な神の臨在がありました。そこで教わったことはあまりにも多いのですが、かいつまんで、少しずつ話していきたいと思います。
戦争=心の鏡
私は、拙書も出しているぐらい、聖書預言や神の持っておられる終末のご計画に関心を持ち、その学徒でありました。しかし、主の再臨を語りながら、それが近づいていると話しながら、自分は安全圏の中で語っているから語れているのではないか?という思いがよぎりました。事実、終末を感じさせる重い事件が数多く起きました。世界情勢はもちろんのこと、キリスト教会の中で起こっていること、それから身近なところでも起こって、改めてテサロニケ人への手紙など、終わりの日に生きるキリスト者の姿を見ると、これほど重いテーマを彼らは抱えて、なおのこと希望と信仰と愛を抱いていたのだ、ということに気づきました。私が、唯一、キリストのみに望みを置いていたのだろうか?その問いが続き、ますます聖められなければいけないと思うようになりました。
そして今、イザヤ書を学んでいます。1章から5章は、ユダの不正に怒っているイザヤの言葉があります。しかし、イザヤ自身、有能なウジヤ王の加護の中で預言しており、彼自身が同罪だったのです。6章で主の御座の幻を見て、自分こそが災いであり、自分の唇が汚れていると叫びました。そして、祭壇の炭火によって清めていただきます。それで主が彼を遣わされますが、それは彼が自分の義ではなく、もっぱら主ご自身の命じられることにより頼むためです。
戦争というものが、これまでになく私たちには身近なものとなっています。戦争の噂が生々しいものとなってきました。そこで、ニュースに上がってくる度に必ず戦争についての論議が始まります、それが正しいのか間違っているのか、そうした正義論をしているなかで、その論者にある志向や、あるいは矛盾、そして何をこれまで考えてきたのか、その深みが浮かび上がってきて見えてきます。それで分かってきたのは、「戦争というものが、自分の本当の姿を露わにしていくのに神に用いられている」ということです。
イザヤ書には、「アッシリヤがイスラエルとその周囲の国々に攻めてくる」という状況によって、イスラエルや周辺の国々のありのままの姿を主が見せているということに気づきます。イスラエルの、いつまでも主に拠り頼まない姿、ペリシテのいつも挑発的、反抗的な姿、モアブの安穏、クシュの力への誇り、エジプトの豊かさへの依存、などなど、平常時には分からないことが、アッシリヤの脅威によって見えてくるのです。
ロイドジョンズは言います。「神が戦争をお許しになるのは、それを通して人々が、それ以前には決してなかったほど明確に、罪の正体を見抜けるようにするためである。平時には、私たちは罪について軽く考え、人間性について楽観的な見方をいだく。だが戦争は、人間が何者であるか、何をしでかしかねない性質を内に秘めているかを暴き出す。」(110頁)
戦争そのものは、もちろん悪です。ロイドジョンズも「罪の現われの一つ」(105頁)と言っています。けれども、それはあたかも、自分の家の中に映画館のようなスクリーンが作られているようです。そこに、例えば激しい二人の罵倒のシーンが出てきます。それが、ますます激しくなります。けれども、実はその光景は自分の心の中で、僅かながらでも展開していたこと、自分を映し出すものであったことに気づきます。何も見ていなければ、その心の動きを周りの人ばかりか、自分さえも欺いて、まるでないかのように振る舞うことができたのですが、その罵倒を通して、見えてしまったというところでしょう。罵倒そのものは悪いことですが、主はそれを私たち人間がご自身に立ち帰るために積極的に用いられるのです。これだけが理由ではないですが、聖書の神がなぜ、戦争を積極的にご自身の主権の中で許しておられる大きな理由なのです。
クリスチャンではないですが、ある国際政治学者が、パリにおける同時多発テロについて似たようなことを話していました。
「今回のテロを受けて改めて感じるのは、この種の悲劇が我々の姿を映し出す鏡であるということです。ここで言う我々とは、現代社会であり、西側諸国であり、日本社会という意味で使っています。各方面から寄せられる反応は様々でした。ある者は、「西側の結束」を語り、文明国としての自由や平和を守ることの意義を強調します。ある者は、多様性や寛容について語り、何万人単位で押し寄せる難民達に同情を寄せます。またある者は、かつての植民地支配や宗教間の根本的な対立について語り、中東で進められている戦争を糾弾します。それは、人間としてしょうがないことなのだろうけれど、悲劇にかこつけて、従来からの主張を展開する誘因のいかに強いかということです。
そこに存在するのは紛れもない一人の人間の死です。平和な社会に暮らす我々にとって、自爆する狂気、無差別に銃を乱射する狂気、人質を一人一人殺していく生々しい憎悪と向き合うことがいかに難しいかということでしょう。目の前の悲劇を題材に自分のストーリーを語ってしまうことの安易さを思います。改めて、目の前の悲劇にコンパッション(=共感)を覚えることの難しさを思い知らされます。」
(山猫日記 国際政治学者、三浦瑠麗のブログ)
デボーションでは、エゼキエル書をいま読んでいますが、こちらはバビロンによる戦争、エルサレム破壊が背景で、人々の心が暴かれる様子を次のように示しています。
「実に、彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。
しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。
すると、壁が倒れ落ちる。人々はあなたがたに向かって、『上塗りしたしっくいはどこにあるのか。』と言わないだろうか。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは、憤って激しい風を吹きつけ、怒って大雨を降り注がせ、憤って雹を降らせて、こわしてしまう。」
(エゼキエル書13:10-13)
「彼ら」とは、偽預言者のことです。私たちキリスト者が、迫りくる戦争またその知らせについて、変に平和論の上塗りをして、その本質、すなわち神に立ち返らないといけないことを見えなくさせる、こんなことをやっていたら、その根底から神は滅ぼしてしまわれる、と思いました。今、私たちキリスト者、また日本人一般が、神から試されている時期にいるのだと思わされました。
本書から学んだことは、まだまだあります。これからも、ここの記事あるいは別記事にして、感想を徒然なるままに書いてみようかなと思います。
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