「神はなぜ戦争をお許しになるのか」③

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関連記事:「悪という現実に付き合う神」

神はなぜ戦争をお許しになるのか読後の感想の続きです。今回は、第一章「神の御前における人間」に書かれていることに注目してみたいと思います。

それを一言でいうなら、単に「戦争をやめてください」という祈りは聞かれない、ということです。平和を求める一見正しい祈りが、紛れもなく聞かれなかったという事実に、直球で体当たりしている説教です。

この説教は、第二次世界大戦が勃発したばかりに行ったものです。第一次世界大戦の時に多くの人が祈りましたが、戦争は起こってしまった。そして第二の戦争が起こり始めていた。「なぜ、神は私たちの捧げた祈りを聞いてくださらなかったのか?」と疑問に思っています。

第三次世界大戦の兆候

これはあまりにも生々しく、私たちに迫っている非常に大きな霊的危機です。ローマ法王が先月、パリ同時多発テロに言及して、「第三次世界大戦の断片は既に始まっているかもしれない」と言ったのです。(BBCの記事)この中でイスラム国に武力行使をすることは正当化されると述べ、キリスト者を含む大量の人が虐殺されていると話しています。そして以下の記事は、イスラム思想研究者によるものですが、確かに第三次世界大戦は既に始まっていると言いうることを書いています。

イスラム国との戦いは第三次世界大戦か?

戦争に反応する祈り

パリ同時多発テロの後に、フェイスブックなどで”Pray for France”という言葉を数多くの人が掲げました。おそらくロイド・ジョンズの次の言葉が当てはまるでしょう。「緊張や困難を覚えるとき、人々は本能的に祈りに向かう。自分たちの運命が、また愛しい者たちの運命が、自分よりも大きな様々な力ににぎられている事実を自覚する。常日頃なら自分たちの思い通りになると信じている出来事や状況が、今や自分の思い通りにならないのを感じる。それで神に頼るのである。」(16頁)

しかし、「祈りという問題がある」と言いきっています。

一つ、「祈りの性質に関して真に考えることも、学ぶこともしない。」と指摘し、もう一つ「その祈りは普通、ささげた者の望んだような形では答えらえない。事実、出来事が全く正反対の方向に進むこともありえる。」と言っています。そのために、「それまで祈っていた人々は、ただ単に疑いと困惑の状態に陥るだけでなく、多くの場合、猛然と神を批判する態度に至り、最終的には神への信仰を失ってしまう。」ということなのです。第一次世界大戦後に、このことがまさに起こったと言っています。(17頁)

日本の場合は、キリスト教文化を持つ英国の人々のように祈り走らなくても、「政府が悪い」「アメリカが悪い」というように、本音は神を批判しているのに、それを認めたくないので他のものを批判している形で表れているような気がします。

そしてとても大事なこと、今のこの時期にあまりにも適っている事を指摘しています。「人が考えを巡らし、備えをすべきなのは、開戦当初の時期である。ある程度はまだ自由も余裕もある時期である。感情が傷つけられ、心の繊細な部分が引き裂かれた後では、何をするのも困難となる。」(18頁)

つまり、テロや戦争のニュースを数多く聞いているけれども、日本国内で、また国外の多くの日本人に規模の大きい殺傷行為がまだ起こっていないこの時期にこそ、御心にかなった祈りの備えをしていなければ、大きなテロ行為やそれに準じる事件が起こった時には遅すぎる、その時には感情が引き裂かれてしまうので祈ることも意味をなさなくなる、ということなのです。

祈りに取り組む時の過ち

なぜ、祈りという問題が起こるのか?その原因を述べています。一つは、「祈りへの答えという見地のみからのみ取り組む」ということです。「願い求めるだけで、自分がどのように神に近づくべきか、大体、神に近づく権利などあるのかどうかを、立ち止まって考えようとしない。」という問題です。「神に耳を傾けるとか、神の御前で待つとかいう考えは、まるで思い浮かばない。」と言っています。(19頁)

そして、それに似通った別の傾向として、「神が何を行なわなければならないかを考えすぎるというあり方」があるのだそうです!これはすごい指摘です。戦争についての噂を日本人が話す時に、「こうあるべきだ」という「べき論」が横行します。しかし本来なら、そのような時こそ、キリスト者は寄り添って、つまり、遺族であるとか、その社会や国であるとか、そこに置かれているキリスト者のためであるとか、その国の指導者であるとか、執り成しの祈りが前面に出る必要があります。ところが、解説やつぶやき、そして批判という流れが大体であります。神に聞くのではなく、自分が何をしなければいけないかを知っているかのような言説が流行ります。

ロイドジョンズは、こう問いかけます。「どれだけ私たちは、様々な可能性について思い巡らそうとしているだろうか。ある特定の状況における神のみこころがどのようなものかを、どれだけ考えようとしているだろうか?どれだけ祈りによって神のみこころを悟り知ろうとしているだろうか。」(20頁)つまり戦争に反対すること以外の可能性を考え、御心を悟る努力が必要なのです。

そして祈りの問題として、もう一つの原因として、「ある一面にだけ注意を集中させ、他の面をまるで無視する点にある。」と指摘しています。例えば、ジョージ・ミューラーの「祈りの秘訣」にあるような証しでは、自分の願いを神に知っていただくだけだったように思い、同じように自分も願い事を知ってもらったのに、祈りが適えられなかったと嘆くというのです。しかし、ミューラーの送った生活は、祈りと信仰という特別な奉仕において神に召されていたという事実や、彼の関心事は祈りの答えをもらうことは二の次で、「常に変わらず神の栄光」であったことことなのに、それに気を留めないと言っています。(22頁)

これも、とても身近な問題です。日本のキリスト教会において、一つの働きが海外であると、その文脈や背景、また全体像を見ることなくして、その一面だけ注意を集中させて、一方的に突き進んでしまう傾向があります。ある方が教えてくださいましたが、例えば、今の日本の福音派の指導者たちの一部が、政治活動の中にクリスチャンたちを取り込もうとしている原因に、ローザンヌ誓約の文言に、「社会的責任」が加えられたからだそうです。しかしその兄弟によれば、ローザンヌ誓約が書かれている欧州はキリスト教文化が既にあり、社会の中に既にその責任を果たせる余地が十分にあるからであり、その文脈を無視しているということでした。キリスト教社会ではない日本に、その文言を原理主義的に当てはめてしまっています。これはごく一例ですが、「ある一面だけ注意を集中させて、他の面を無視する」という傾向は、我々日本人には大いにあると思います。

自身の聖めのための戦争

そして、説き明かしの御言葉は、「ですから、私は願うのです。男は、起こったり言い争ったりすることなく、どこででも聖い手を上げて祈るようにしなさい。」(1テモテ2:8)であります。初めに、「きよい手」つまり、心の清めが祈りに先行するのだということです。そして、「怒る」こと、これは神への怒り、自分の願っているように祈りをかなえられない神に対しての恨みも含まれるということです。そして「言い争い」は、神に対する疑いも含まれます。

これを聞いて、聖書がとても鮮明になりました。何か戦争が聖書に書かれている時に、戦争をやめてほしいという祈りが聞かれず、むしろ神がその祈りにご自分の耳を閉ざすこともあったということです。

主は私に仰せられた。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。(エレミヤ15:1)」

これは、エレミヤがユダのために執り成しをしている時の神からの答えでした。そして、エルサレムがバビロンから救われる、つまりその戦争を回避できると言っていた多くの預言者は、偽預言者だったのです。彼らは心の中の願いをただ、主の御名によって語っただけでした。しかし、説教者たちも、この過ちを十分に犯しうるのではないでしょうか?

主がなぜ、バビロンにエルサレムを攻めるようにされたのか?「彼らが、偶像から主に立ち返ること。」に他なりませんでした。つまり、聖めのために、そのような危機をお許しになられ、彼らが悔い改めなかったので、裁きとしてそれが起こることを許されたのです。

次のイエス様の言葉も思い出しました。「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。『そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。』(ルカ13:1-3)」

そして主イエスご自身が、ローマによるエルサレムへの戦争をお許しになられました。彼らが悔い改めなかったからです。

とても、とても深い内容です。主の御心が何かを深く考え、祈り求めなければいけないと思わされました。

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「「神はなぜ戦争をお許しになるのか」③」への1件のフィードバック

  1. 「神は聖なる愛であると同時に聖なる義である」ことを常に確認する者でありたいと願わずにいられません。

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