カトリック教会の置換神学放棄
ここ二週間ぐらいで、興味深い話題を追っていました。まずは、次のイスラエル発の記事です。
ローマ書9-11章宣言:カトリック教会 2015.12.12
イスラエルやユダヤの話題を追っている人によって、「キリスト教によるユダヤ人迫害、反ユダヤ主義」というのは、基本的な歴史事実です。そのために、ユダヤ人の中にイエス様を信じるということ、キリスト者になるということは、「ユダヤ人ではなくなる」という公式ができあがっています。「ユダヤ教徒ではなくなる」というならばまだ理解できるのですが、神も何も信じていない世俗的なユダヤ人であっても、イエス様を自分のメシヤとして受け入れたのであれば、その人はユダヤ人でなくなる、と言います。
そこで、民族的に、血縁的にユダヤ人であることを主張しながら、それでも私はイエスを信じていると主張している人々を、「メシアニック・ジュー(Messianic Jew メシヤ的ユダヤ人)」と自らを呼び、キリスト教の世界ではかなりその用語が定着しています。アメリカに、そしてイスラエルにユダヤ的な礼拝形式を保ちながら、なおイエスを主として受け入れている人々の集会があります。
それはともあれ、なぜキリスト教会においてユダヤ人を迫害する反ユダヤ主義がはびこったかと言いますと、「ユダヤ人がイエスがメシヤであるという福音を拒んだ。それゆえ、イスラエルに対する神の約束や契約は反故にされ、今は神のイスラエルは教会に取って変わった。」とするものです。それを、「置換神学」とも言われます。そしてカトリック教会は、その「イスラエル」と「教会」の置き換えにおいて、総本山的な存在であり、反ユダヤ主義の温床ともなっていました。宗教改革の代表的存在であるルターも、その神学を引き継いでいたので、福音を信じないユダヤ人にしびれを切らして、後年は反ユダヤ主義者となりました。
参考文献:「教会が犯したユダヤ人迫害の真実―私たちの手は血塗られている」(ミカエル・ブラウン著)
けれども、先の紹介したカトリック教会とユダヤ人、ユダヤ教、イスラエルとの関係を書いた、バチカンの発表は驚くべき内容を含んでいました。引用が長くなりますが、上のリンク先は、とても大切なまとめなので、ここに貼りつけます。
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この文書について、イスラエルのメディアは、「カトリック教会はユダヤ人に伝道すべきでないと言っている。」というような表題で報じていた。
http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4737638,00.html
しかし実際にバチカンから発表された全文を読むと、ユダヤ教、イスラエル、キリスト教と創造主なる主との関係を、聖書から検証したものであり、その上で、どのようにユダヤ人に証すべきかを論じているのであって、ユダヤ人に伝道すべきでないというものではなかった。
文書は、人類の救いの計画は創造主とアブラム(アブラハム)との契約に始まり、モーセとの契約と、イスラエルと神との契約が土台となっているとする。その契約の完成として新しい契約(エレミヤ書31:31)である福音が与えられたと述べる。
イスラエルと神の永遠の契約を否定する事はすなわち、キリスト教の救いそのものを否定することであると述べる。
さらに、文書は「神のたまものと召命は変わる事はありません。(ローマ書11:29)」という聖書の言葉をもって、イスラエルが神に特別な役割に選ばれていることを認め、置換神学を完全に否定している。
また、現代におけるキリスト教とユダヤ教は全く別ものになっているが、元はどちらもイエス時代のユダヤ教(現代のユダヤ教とは異質)から発しており、両者はいわば、イスラエルを兄とする兄弟であるとする。
今後、カトリックは、信者や子供たちへの教育の中に、キリスト教のユダヤ教のルーツや、イスラエルに関する項目ももりこんでいくとのことである。
注目される点は、イエスの十字架と復活が、ユダヤ人も含めて人類に与えられた唯一の救いであるという福音の真理は否定していない点である。
カトリックは、ローマ書11章に書かれているオリーブの木とそれに接ぎ木された枝(異邦人)のビジョンから、ユダヤ人もまたこのイエスの福音によって救われ、やがて、クリスチャンとユダヤ人がイエスにあって一つになる時が来ると信じる。しかし、それがどのように実現するのかは神のみが知るところのミステリーであると述べる。
これをもって、カトリック教会は、永きに渡り歴史的行って来た、ユダヤ人はイエスを殺した罪人だからという理由での組織的な強制改宗を完全に放棄すると述べる。
しかし、同時に、クリスチャンは、それぞれが、ユダヤ人に対してもイエスを証するものでなければならないとも述べている。
つまり、カトリック教会は、ユダヤ人に対する組織的なミッショナリー的伝道活動、ならびにそれらの支援活動は放棄するものの、クリスチャンそれぞれの生き方による証は続けるべきであると言っているのである。
この文書の目標は、キリスト教、ユダヤ教それぞれが歩み寄り、互いの理解を深めることが一つであると述べている。確かに、この文書をイスラエルのチーフラビも賛同したとしたら、画期的といえるかもしれない。
また、カトリックは、世界で台頭し始めている反ユダヤ主義と断固戦って行くとの姿勢をこれまでになく明らかにしたため、イスラエルからは、カトリックの歴史上初めてのことと、高く評価されている。
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そして、「興味のある方はぜひ全文をお読みになり、判断されることをお勧めする。」とあって、そこにリンクされている、実際のバチカン発行による「キリスト教徒とユダヤ人の対話」という文書を紹介していますが、読んでみました。私も同じ結論に至りました。
Vatican issues new document on Christian-Jewish dialogue
最も気になる「包括的救済論」
ちょっと横道にそれて、私自身のカトリックに対する見方をご紹介します。まず、求道者や初心者の方はこちらの記事をお読みください。
以下に書く内容はかなり、込み入ったことですので、かえって混乱を招きかねないものとなります。ですから、上の記事をお読みになって、カトリックとプロテスタント信仰の違いを知っていただければそれで十分だと思います。・・
「カトリック」は、キリスト教会の中で最も歴史があり、影響力の持つ教派なのであり、私が一言で何か話せるような存在ではありません。しかし、私自身は、イエス・キリストの福音を信じる信仰者であり、聖書を神の霊感を受けた言葉だと信じています。その立場から、気になる三つの点を挙げさせていただきます。
①カトリック教会の教義では、信仰による義について「信仰のみ」という部分が弱く、儀式を経ることによる、「信仰と行ないによる」救いという余地を残している。
②マリヤ崇敬や聖人への祈りなど、偶像礼拝的な側面があり、「キリストのみの仲介」になっていない。
③包括主義 - これは第二公会議において取り入れられた、前世紀から始まった新しいカトリックの立場。他宗教との関係についての見解で、他宗教にもキリストの真理が反映されており、その真理に忠実であれば、キリストの恵みという明確な認識がなくても、救われ得るとする立場。つまり、「イエス様を自分の心で受け入れ、口で告白しなくても、救われる可能性がある」ということ。
①と②については、カトリックとプロテスタントを分けた大きな違いなので、気にはなっていますが、心で落ち着いています。確かに間違っていますが、カトリック教会が完全に異端であるとか、すべて背教になっているとか思っていません。むしろ、宗教改革前に聖書に基づく正統的な教理を形成していったのは、カトリックの中においてであり、カトリックを全否定してしまっては、エホバの証人にように反対の異端に陥る危険があると思っているぐらいです。(「改革」という言葉自体に、全否定ではない意味が含まれています。)
けれども、「教会に属していれば、洗礼を受けていれば、天の御国に入れる」ということを思っていれば、カトリックであっても、プロテスタントであっても、救われないということは、はっきりしています。キリストの御体の一部になること、そして水のバプテスマを受けることは、イエス・キリストを信じる主体的な信仰を持った後の実体であり、キリストの命令でありますが、その反対に、洗礼を受けて制度としての教会に属したから、救われるのでは決してありません。
救いの道を広げる流れ
しかし③については、実はバチカンの第二公会議のみならず、プロテスタントの中でも広まっている教えです。(参考記事:「排他主義、包括主義、多元主義 さて、正解は?」”Theopedia – Inclusivism“)
今日の流れは、排他主義に対する反動です。「「イエスの御名によってのみ、罪から、神の怒りから救われる。」とする立場があるから、宗教的な対立を引き起こした、ゆえに対話によって和解していこう」という大きな流れがあります。エキュメニカルという言葉も使われて、教派間の対話、そして他宗教との対話が盛んに行なわれています。そして、「救いへの道は一つだけでなく、いくつもある。」とする宗教多元主義とも呼ばれる、流れに発展しています。こうなると、聖書の根本的な教え、キリストご自身の救いを完全否定するものであり、こうなれば「背教」と言う言葉を使ってよいでしょう。
しかし、包括主義については非常に微妙です。
確かに、はっきり福音を聞いて、それを拒まなかった人が、はっきり拒んだ人と同じように神に裁かれるのかとすると、そうではないと言えます。そして福音を聞かなかった人は、自然に与えられた神の啓示に対して責任があり(ローマ1章後半)、そして自分に与えられた良心に対して責任があります(ローマ2章前半)。その与えられた神の知識に対して、神の前に申し開きすることになるでしょう。また聞く能力を持たず信じだ人(流産の子など)が、同じように裁かれるかと言えば、決してそうではありません。確かに人は生まれながらにして罪を持っており、胎内にいる時から罪を持っていたことを、ダビデは詩篇51篇で告白しています。しかし、悔い改めや信仰を持つという認識能力を持っていないので、「分からない」というのが私の立場です。下の記事のように、福音派では、説明責任の能力がない小さな子については、天に入れる、救われるという立場を取っている人々が多いです。
Inclusivism vs. exclusivism—what does the Bible say?
私は、信仰を持っていない人で、その特定の人が天に入るのか、地獄に堕ちるのか、それは神の領域であり、判断してはいけないという立場を持っています。生前に信仰を持ったとはっきり判断できる人については、「その人は救われた」と断言します。けれども、それがはっきりしていない時は、「分からない」というようにしています。本当に分からないからです!もしかしたら、その人が臨終においてイエス様を信じたかもしれません。本当に分からないので、その人が天に行ったということも、救われなかったというのも、どちらも「神の領域に入る」と思っており、発言を控えます。
その立場からすると、包括主義にはかなり警戒を持っています。このような救済論を議論している対象は、他宗教を信じている人ですから、すでにキリストの福音を聞く能力がある人について話しています。そして、キリストの福音を聞いた人であったとしても、その宗教の中に留まっている人たちも含めて話しています。信じていないのに、その人が救われる、天に入るということを明言してしまっているところに、致命的な過ちがあります。「信じない者は、既に裁かれている。」と主ご自身が語られました(ヨハネ3:18参照)。他宗教では、その本質で行ないによる救いを唱えていますが、もしこの知識で救われる可能性があるとするならば、キリストの十字架は無益となるからです(ガラテヤ2:21)。
メシアニック・ジュー神学者からの批判
そこで最初の話題に戻ります。上に、「オリーブの便り」の筆者が読んだ結果と異なり、批判的な評価をしているユダヤ人信者がいました。先に参考文献で挙げた、神学者ミカエル・ブラウン氏によるものです。
The Vatican Is Wrong: Jews Do Need Jesus
「バチカンは間違っている、ユダヤ人はイエスを必要としている」という題なのですが、私は、オリーブの便りの筆者のように本文を理解しました。確かに、救いはユダヤ人を含め、イエスのみによって与えられ、そして個人的な証しの必要性も書いているではないか?と思ったのです。同じ文書を読んでいるのに、なんでこんな違いが出てくるのだろうか?とちょっと混乱しました。
けれども、ブラウン博士はそのことは否定していないようです。しかし「強調」があまりにも弱すぎて、”全体”としては「ユダヤ人は罪を赦していただくために、イエスを信じる必要はない、と言っている。」とのことです。ユダヤ人にもはっきりと福音を語って、それで彼らは初めて救われる、というのが新約聖書の教えであると述べています。バチカンによる置換神学の放棄、反ユダヤ主義との決別、そして組織的な改宗の放棄は称賛に値する、しかし、福音をしっかり宣べ伝えなくてもユダヤ人は、何らかの形で救いにあずかるとするという思い(sentiment)が、この文書に込められている、という批判をしています。彼自身、ドラッグに溺れていた十代の時にクリスチャンの伝道を受けて、それで救われています。ゆえに、このことは、はっきりさせたいと思ったのでしょう。
カトリックからの反論
そこで、興味深い記事を二つ見つけました。カトリックからの記事です。
On the ‘conversion’ of Jews: The new Vatican statement
かなり、しっかりとその文書の意味を解説しています。イスラエル国内で特に、この文書を「ユダヤ人は改宗する必要はない」と受けとめられて、誤って称賛されている、この文書ではクリスチャンの救いと、ユダヤ人の救いの二契約があることを話していない、イエスのみの救いの仲介であり、個人的な伝道は必要であることを話しています。むしろ、「カトリックは旧約におけるユダヤ人の信仰を敬うべきであるが、その成就としてのキリストを証ししなければいけない。」との意味であると、話しています。
そして、もう一つの記事もカトリックからですが、私のちょっとした混乱が、完全に整理できました。
New Vatican Document on Jews, Salvation, and Evangelization
基本的に上の記事と同じことを書いていますが、しかし、はっきりと「包括的救済論のユダヤ人への適用」を行なっています。8)の部分ですが、日本語に訳してみます。
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8)この文書は、非キリスト教徒のユダヤ人は救われることができないことを意味しているのか?
いいえ、そういうことではありません。カトリック教会は、自分の過ちが見出されなければ、生きている時にキリスト教信仰を受け入れなかった人々にも救いが可能であることを認めています。バチカン第二公会議はこう述べています。
自分側には過ちは見いだされずにキリストの福音やカトリック教会を知らなかったとしても、誠実に神を求めて、恵みによって動かされ、良心の定めによって知られた御心を行なうべく奮闘する人々は、救いを得られる。(原文:Those also can attain to salvation who through no fault of their own do not know the Gospel of Christ or His Church, yet sincerely seek God and moved by grace strive by their deeds to do His will as it is known to them through the dictates of conscience.)
(Lumen Gentium 16)
この場合は、キリストは全ての人の救い主なので、イエスによってこれらの人々は救われるのです。生きている時にこのことを悟っていないというだけです。
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やはり、バチカンの第二公会議によれば、「ユダヤ人はこの世で救いがイエスだと気づかなくても、救われるのだ」という解釈になるのです(上記の引用された文言はローマ2章14節を意識しているものと見られますが、文脈では全く逆の意味で使われています。自分自身の良心の基準にさえも達していないから、彼らも裁きを免れないというのが、2章1‐16節の流れです。)。新文書ではその部分ややや曖昧にされていますが、意識的にイエス様をメシヤと信じた一人であるブラウン博士は、すぐにその臭いを嗅ぎ分けることができたのでしょう。
「イスラエルはみな救われる」の意味
この文書にも示唆されているのですが、ややもすると、「イスラエルはみな救われる(ローマ11章26節)の言葉は、自動的にユダヤ人が救われるかのような意味合いに受けとめられます。しかし、それは文脈を無視した読み方です。その前に異邦人の救いの完成をパウロは言っていますが、その異邦人が自動的に救われるのではありません。全ての人が罪を犯して、神の裁きを受けなければいけないという文脈がローマ書全体に流れています。そしてローマ10章があまりにも明らかで、イスラエル人も福音を聞かなければ救われないことを述べています(10:19‐21節)。
ローマ11章26節を、この文書では「ミステリー(謎、奥義)」と述べていますが、別に謎ではありません。主が再臨される時に、残されたイスラエルの民が悔い改めて、主に立ち返ることは、聖書に書いてあることなのです。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(ゼカリヤ書12:10)」「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(黙示1:7)」 そしてザカリヤ13章1節には、泉が開かれて彼らの心が清められることが書かれています。
では、全てのユダヤ人がイエスを信じるのか?そうではありません、再臨直前の患難期において、残される者だけです。主はその患難において、反逆者とそうでない者を選り分けると言われます。「あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(エゼキエル20:38)」そして、残される者は三分の一だけだということを、ゼカリヤは預言しています(13:8-9)。
患難において、彼らが試されるのです。信仰を持とうとする者と、そうでない者の心が、その患難によって明らかにされます。そして、反逆者は死んでしまいます。しかし、主が戻って来られる時には、その残された者がメシヤを求めて、救ってくださるように願います。そして来られた方が、イエスであったことを彼らは気づくのです。イザヤ書52章13節から53章最後までの、有名な、メシヤの身代わりの死の預言は、注意深く読むと、再臨のメシヤを残りの者が見て、悔い改める、信仰告白になっているからです。
ですから、やはり、自分の意識で悔い改め、イエスを主と告白する者だけが救われるというのが、福音の真理であり、ユダヤ人に対してもその方法は変わらないのです。
宣教の方法として、学ぶべきこと
しかし、そうであっても、バチカンの新文書から学ぶべきところがあるという、オリーブの便りの筆者の言葉は、傾聴に値します。
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カトリックは見るからにキリスト教徒であり、まったく異文化。ユダヤ教とは一線をひいている別物で、”興味深い”対象なのである。いずれにしても、相手を知ろうとしているのはカトリックだけでなく、ユダヤ人側も同じだということである。
一方で、アメリカ系の福音派クリスチャンシオニストに対する嫌悪感や物笑いをあらわにするユダヤ人のコメントも聞くようになった。イスラエルに対する彼らの好意に感謝はしているのだが、熱心するすぎる人々が目立つからである。
また政治的にイスラエルを声を大にして支援するので、パレスチナ人の手前、非常にまずい状況になる場合もある。
最近、イスラエルでは、自分がなにものか、何を信じているのか、知恵をもって明らかにしなければならないと感じる。隠すことはしないが、表には出ない、内からあふれる何かがなければ、ただの空虚な宣伝になってしまうからである。
ユダヤ人たちは、歴史的にもサバイバルしてきたので、本物や本当に役立つものを本能的に見分けている。ごまかしはいっさいきかない。
このカトリックの文書がいうように、クリスチャンそれぞれが、主とつながり、生きた本物の証をしていれば、ユダヤ人はすぐにみわけて、自らその背後にあるものを探し始めるだろう。
うわっつらやことばだけでなく、内からあふれる主の器になりたいものである。
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この自省は、本当に身がつまされる思いです。私は、福音派のクリスチャン・シオニストです。つまり、聖書信仰のゆえに、神がイスラエルに対する約束を守っておられて、それでユダヤ人が世界から帰還し、イスラエルの国を建てるのを導いてくださった、と信じているものです。現代のイスラエルが、聖書に書かれている回復のイスラエルとは到底思っていませんが、その前段階の準備であると信じています。さらに、神の正義と公正に照らして、彼らに対する不当な非難や批判に強硬に反対する、親イスラエル擁護派でもあります。
しかし、それが「口だけ」だというのを、当のユダヤ人の人たちは嗅ぎつける、というのです。これはその通りだと思います。イスラエルに行くと、それがよく分かります。彼らが誰に対しても自分たちの生き残りのため、上手に接していることを知ります。そして私たちクリスチャンが、はしゃいだり、騒いでいるのも見ています。親イスラエルを声高に掲げながら、生身の彼らを愛しているわけではない、という見せかけを見破ってしまうのでしょう。また、彼らは現実に、パレスチナの人たちとの共存をしているのであり、一部のクリスチャンたちの行き過ぎた政治的な支持にも付いてゆけないのでしょう。
ユダヤ人への伝道は、本当に忍耐と愛と、彼らへの思いやりが試されます。その頑なさゆえに、匙を投げたくなる時もあると、現地の人から聞いたことがあります。しかし、そこで自分の愛が尽きて、聖霊の助けによりキリストの愛が注がれる時に、そこにユダヤ人も何かが違うと感じ取って、知ってくれます。私の身近な人々にも、そのようなクリスチャンたちがいることを知っています。その人たちは声高ではありません、地道に静かに行なっています。
ユダヤ人だけでなく、全ての人に対してですが、口だけはごまかしが利きません。「内からあふれる主の器」に私もなりたいです。
番外編:下のCNNの番組は、Jews for Jesusというユダヤ人による福音伝道団体の代表と、南部バプテスト連盟という全米最大の福音派団体の代表者、そして二人のユダヤ教のラビによる討論です。そして面白いのは司会が、ラリー・キングという、有名な放送人ですが彼は、世俗的ユダヤ人。
福音伝道団体の兄弟二人が、討論番組内でバリバリにイエス様の福音を伝道していることです!
ただし、これはアメリカ国内でのこと、表現の自由が、特にキリスト教の表現の自由が認められている国なので、いつもこのような形で伝道できるとは限りません。イスラエル国内では反宣教団体がありますので、また法律上、18歳未満を他の宗教に改宗させることは禁じられています。知恵を尽くして、愛をもって伝道していっています。
>再臨前の艱難期
カルバリーチャペルグループでは、艱難前に再臨があるという立場ではなかったのではないですか?
エシュコルさん、ご無沙汰です。カルバリーチャペルは、千年王国前の再臨を信じています。主が地上に再臨されたら、神の国を立てられ、それが千年間続きます。その再臨の前にダニエルの第七十週目の患難期があると信じています。ですから、これらの患難の終わりに差し掛かるときに主が地上に戻って来られます。そういった意味での「再臨直前の患難期」です。「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり・・。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。(マタイ24:29-30)」
携挙と混同していませんか?携挙については、その七年間の患難期の前に起こると信じています。・・というよりも、いつでも、今すぐにでも起こりうると信じています。
神学について、特にイスラエルに関して熱心に勉強しておられる兄弟が、ここのブログ記事をご紹介しつつ、以下のように解説を加えておられました。
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周知の通りヴァチカン内部でも神学的立場は多様であり、福音に応答する者だけが救われるとする特殊主義者もいれば、二契約神学に立つ者も、包括主義者も、より広い多元主義者もいます。
第二ヴァチカン公会議の文書はそうした種々の神学的立場の者がいる中で採択されたものですから、ぶっちゃけて言えば、ある程度幅を持たせた内容になっているのです。
だから、今回の「The Gifts…」についても、読み方によって色々な捉え方が出て来るのは当然だと言えます。
結局は、ユダヤ人に対するヴァチカンの態度は第二ヴァチカン公会議前後の状況から変わってないよ、ということが確認されただけ、ということかと。
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なるほど、バチカンの中にもいろいろな神学の意見があるということで、読み方によってはいろいろな捉え方ができるという文書になっているのですね。よく分かりました。
>(携挙は)いつでも、今すぐにでも起こりうると信じています。
エルサレムが軍隊に囲まれたり(似た様な状況はかつて、そしてこれからも起こるでしょうが)、第三神殿が完成してからでなければ、主は再臨されないのでは?
⇒だからその時になるまでは起こらないと思うのですが?
エシュコルさん、まだ携挙と地上再臨を混同しているのではないかと思います。もちろん、そう信じておられるのであればエシュコルさんの自由ですが、私は異なる出来事だと思っています。少し、患難前携挙説の立場を勉強されたらよいでしょう。(同意しなさい、ということではなく、何か意見や質問をされるのなら、そこからだと思います。)
「教会と患難」
ありがとうございます。
ローマのフランシスコ法王が、2016年に向けたビデオは宗教間の対話を促すものですが、救いについて、かなり曖昧な発言をしています。
「この多様性、すなわち、多くの宗教と宗教不在の中で、唯一確かなこと、それはわたしたちすべてが神の子であるということです。」
(教皇の1月の祈りの意向「誠実な諸宗教対話による平和と正義の実りを」)
この「すべてが神の子」ということは、聖書の救いの教えに照らせば、極めて危うい発言であると言わざるを得ません。イエスの御名によって、初めて霊的に神によって生まれるのであり、「神の子」という言葉はキリストを信じた者に使われている言葉です。
もちろん、神はすべての人を造られ、愛されています。そういった意味で「神の子」ではないか?と言われるかもしれませんが、聖書にはそのような使い方は人間に対してありません。(天使に対してはあります。)
カトリックの第二公会議は救いについては、他宗教にもキリストを認知していないけれども、良心にきよく従えばキリストによって救われる、という包括主義を取っています。包括主義自体も大きな問題ですが、さらに「神の子」という神学上、非常に大切な言葉を教皇という立場の人が使っているのですから、宗教多元主義のそしりを受けかねない危うい発言です。
世界の宗教を愛と平和で統一しようという動き、これこそ欺瞞です(黙示6:1,13章)。キリストがなぜ十字架につけられなければいけなかったのか?もし人間的な愛と平和、対話という手段で正義が達成できるなら、キリストの死は無意味だったのです。
キリストがすべての人の罪のために死なれた、これこそが神の愛と平和です。
他宗教の方々との平和と、その人々への愛はもちろん大事です。しかし、それはキリスト者がキリストにあって行なっていくこと。あるいは一般啓示の中で、他宗教の人々も求めていることですが、霊的な次元とは違います。