ご紹介する本はかなり前に出版されたものですが、日本における反ユダヤと親ユダヤについて非常に多くの文献を揃えた良書です。まずは「内容の紹介」から:
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日本人はなぜ、ユダヤ人が「好き」なのか!?
実際に接する機会はほとんどないのに、左翼も右翼も、知識人もジャーナリストもユダヤ人を語りたがる。その馬鹿げた空想の背景にあるのは、深刻な精神荒廃だ!
ユダヤ人に対する日本人の態度は日本の文化に深く根ざして、形づくられてきたものである。ユダヤ人の存在を知る以前すでに、日本には外国人との関係のもちかたに一定の形ができあがっていた。それが日本人がやがてユダヤ人について想像するようになったとき、その中身を決定する基盤になってきた。
歴史をとおして見ると、日本では外国人は畏怖の目で見られるか、あるいは反対に軽蔑の目で見られるか、いつもそのどちらかだった。
つまりよそ者は、恩恵をほどこす神々と見なされることもあれば、脅威をもたらす悪鬼であることもある。このように相反する感情が共存してきたことには、とても大きな意味があるだろう。――
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本書は、戦前、戦時中、戦後におけるキリスト教会の中身もかなり語っていますので、私たちキリスト者にとっても非常に有益な資料であり、日本の教会に根強く混在する世の哲学や考え方を浮き彫りにしています。そして実は、十年以上前に書き記した記事で紹介していたものですが、日本の中では有識者と言われている人々の中でも今も語られており、一般に信じられてしまっているので問題と感じています。
このように日本では一見、知識人と言われている人たちが、ユダヤ陰謀説を鵜呑みにして、受け入れているため、クリスチャンでも、牧師でさえ、受け入れている人が多いです。話の途中に急にトンデモな差別発言が出てきます。しかし「イスラエル」「ユダヤ人」は、現存している人たちと国、そして生身の人間なのです。だから、情報は比較的容易に入手でき、ちょっと事実を調べれば簡単に分かるのですが、宗教のように信じてしまっているため、見えなくなってしまっています。
参照記事:「陰謀論と神の主権」
「文脈」の中だけのユダヤ人
この前の聖地旅行で、ユダヤ人帰還支援団体の方と、実際に貧困の中にいるイスラエルに移民した方を宿泊ホテルにお招きすることができました。その支援団体の方が仰っていた言葉がまだ心にとても響いています。「しばしば人は”ユダヤ的ルーツ”について語るが、私は同意できない時がある。聖書の”文脈”の中でのみユダヤ人を語るからだ。そこに聖書の”現実”が欠けている。パウロは、その現実について多くを語っている。私たちが接ぎ木されたのは、その根(ルーツ)ではなく、木に接ぎ木されたのである。」私たちの目の前には、その現実たる、貧しい帰還民の方がおられたので説得力がありました。
はたしてキリスト者、特に牧師が説教をする時に、「イスラエル」や「ユダヤ」を話す時にそれが、現存しているイスラエルの人々やユダヤ人のことを少しでも視野にいれて、話しているかどうか?ということが問われていると思います。今のユダヤ人は、DNAによって聖書時代のイスラエル人であることは判明しています。しかし、その考慮が全くないので、聖書本文の中にある言葉だけのユダヤ人やイスラエル人になってしまっている、ということであります。
「日本」を語るために作り出される「ユダヤ」
このことは、親ユダヤ的な人々の中にもある傾向で、実際のイスラエルやユダヤ人以上に、自分たちの中で「ユダヤ」を祭り上げてしまっています。「ヘブル的読み方」という標語が流行っていますが、その「ヘブル」とは何を意味しているのか?よく聞いていくとその言葉は、従来の日本の教会のあり方への対抗として使われている事もあります。かつて、イザヤ・ベンダサン著の「日本人とユダヤ人」に出てくるユダヤ人が、実像とはかけ離れていると批判されましたが、それもそのはず、”日本論”を展開したいために「ユダヤ人」を取り上げたにしか過ぎなかったからです(著者は後に、山本七平であることが判明)。
アメリカですと、自分の友人や知人に多くの場合ユダヤ人がいます。仕事仲間にいたりと、その良し悪しすべて含めて、セットで生の人間としての付き合いがあります。だから、偏っているものについて、すぐに「変でしょ」と見分けることができる。生の付き合いという歯止めがあって、バランスの取れた見方ができるのです。
生身に触れる努力
こんな話を、韓国人のことについて聞きました。ある韓国人牧師が温泉に入っていると、隣の人から延々と「日本が韓国を併合していた時、いかに日本がインフラの整備など良い事をしてきたか。」ということを語ったそうです。けれども仲間の一人が、「私には在日の知り合いがいる。いろいろあるが、日本が韓国を支配したという歴史的事実は認めないといけない。」と言ったそうです。そうなんです、生の人間が自分の生活圏にいるとバランスが取れるのです。それがないと、日本のあり方を批判するためだけの「韓国」になるかもしれないし、あるいは反日に対する強い反発としての「韓国」になってしまう。実際に会って付き合うことの大切さは、ここにあると思います。
生の人間、生の国、生の情報に触れていく努力が、ユダヤに限らず何事も重要ですね。
その他の関連記事:「「狭き門」という開かれた戸」
(「日ユ同祖論」に言及している部分)
以下は陰謀論者が盲目にされていると感じる、一例です。
ユダヤの陰謀として、ホロコースト否定論を掲載したマルコポーロ誌を廃刊にまで追い込んだと声高に陰謀論者たちは叫びましたが、「初めての海外からのクレームだったので、びっくりして勝手に辞任して勝手に廃刊したという」くだらない内容だったことを、編集長本人が独白しています。
ユダヤを激怒させて廃刊! 日本出版界最大のタブー「マルコポーロ事件」の真相を当時の編集長が語る! 花田紀凱・康芳夫対談
紹介の「ユダヤ人陰謀説」の本の中にも取り扱われています。