前の投稿「「寛容」という名の「非寛容」」の続きの内容です。
「上」におられる神から、「心の中」の神を求める現代
この頃感じることで「人々が自分の感情を絶対正しいとしてしまっている。」ということです。次の記事に、このような文章がありました。
「だから、われわれは自分の感情が神のように絶対正しいと考える傾向がある。教師や上司の指導にとりあえず従っているフリをしていても、腹の中では自分の方が絶対に正しいと考えているようなときは、感情に支配されていると考えてまず間違いない。
自分の感情が絶対に正しいとする基準はどこにも存在しない。他人も自らの感情に基づいて、自分が絶対に正しいと考えている。人間が絶対に正しいと考えることは確実に存在する。ただし、それは複数存在するのだ。自分の感情に固執して周囲から孤立しないようにするためには、近現代人にとって感情が神の位置を占めていることをよく認識しておく必要がある。」
感情的に傷が付いても、キリスト者であれば、神の真理に基づいて動けるはずです。それは「神」ではないことを知っています。だから感情がいかに信号を送っても、それが真実とは限らないことを知っています。絶対は、聖書の言葉に啓示されている神ご自身ですから、その感情を相対化することができ、神に従うことができます。
しかし、その絶対の基準を受け入れていない時に、感情を絶対視しています。自分の感じたこと、その感情こそが真実、正しいと思ってしまっています。それゆえ、「これが真実だ」と言われても、自分の感情はそうではないと訴えているので、苦しくなって、付いていけなくなります。その感情が自分を支配してしまって、制御できなくなっています。
こうやって、「人々の感情を傷つけないようにすることが最も大事」な社会、人々との付き合いへとなっていきます。個々人感じ方が違うのですから、絶対に正しいと思っているものが並列しているのですから、そりゃあ一緒にいることができなくなります。
こうした個々人が感じたこと、その主観それぞれが真実であり、同等に妥当なのだとする相対主義は、真理に基づいて「これは間違っている」と論じていることもまた、「あなたは相手を裁いている」と言って非難します。”表面的に”言い争っていること自体を悪いことだとしています。
こうやって、人々は様々な人の感情が錯綜する網目のような空間の中に生きなければいけなくなり、がんじがらめの息つく暇もないような、窮屈で、苦しい社会となっていきます。上の記事の引用にあるように、そこから逃れるためには「孤独」にならないといけないのです。人々から離れ、独り寂しく生きないといけません。電車に乗って半分以上がスマホの画面を眺めているのを見る時、そこに今の社会の典型を私は感じます。
キリスト教会は、真理の柱、真理の土台である神の家であると書かれています。つまり、神の言葉こそが絶対であり、神が完全であることが示されています。そこにこそ自由があり、私たちは御言葉に服従することによって、思いも、心も、自由に言い表すことが許されます。そして、絶対真理があるので、だれも他の人が何を感じているのかを心配せずに、「ここに互いに一つになれる拠り所がある」と安心することができます。それゆえ、キリスト者は教会として一つになり、愛と平安の中で憩うことができます。
「完全な神」に「不完全な人」が仕えるには?
しかし、私たちの信じている神は完全な方です。聖なる神、義なる神です。御言葉が解き明かされるにしたがって、神の完全性、無欠性が現れていきます。それを継続して聞いていくと、自分がいかに不完全で、欠けのあることかを知らされていくことになります。それで、自分はこれではやっていけないと感じます。ついに、締め出されるように神の世界から出ていくことになります。
金持ちの青年の話がその典型でしょう。イエス様のところに近づいたけれども、「財産を売って、貧しい人たちに施しをしなさい」と命じられて、悲しい顔つきをしてイエス様から離れていきました。
では、この不可能にも見える、「完全な神」に「不完全な人」が近づいて、この方に仕えることができている人はどういう人々なのでしょうか?どうして、仕えることができているのでしょうか?答えは「恵み」です。完全な神が不完全な人を選ばれ、「わたしは、あなたのものである。」としておられるその恵みがあるからです。そしてその召しに、勇気をもって応えた人々が、神に仕えることができるのでしょう。
聖書を見れば、完全な神に仕えている者たちは、欠けが多いことに気づきます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、そして新約聖書では使徒たち。それぞれの赤裸々な姿が、聖書には描かれています。しかし神は彼らを咎めることなく、むしろ彼らを愛され、用いられ、「神の心にかなった者」とみなしておられます。彼らを見れば、どのように神が人々の世界に入り、ご自分の麗しい恵みに満ちた働きを展開させているかを悟ることができるのです。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。(イザヤ57:15)」
聖なる、いと高き方が住まわれるのは、正しくなった者たちではなく、「心砕かれて、へりくだった者」たちだといいます。それは言い換えれば、「神を絶対とし、自分の感情が何でもないものだ。」と感情を相対化できる人と言ってもよいでしょう。
「感情の絶対化」への7件のフィードバック