平和への妨げ「被害者意識」

ずっと前から投稿しようと思っていたことを分かち合います。今年初頭に香港で行われた「2016年東アジア青年キリスト者大会」(Three Together)ですが、そこでのメッセージで特に心に残ったものがいくつかあります。その中の一つを紹介します。

「東アジア地域宣教の状況と和解の必要」金ジョンホ(김종호)
音声 ・ クリスチャン新聞記事1

彼は、日本のKGKのような韓国の学生伝道団体KIVFの代表です。クリスチャン新聞記事の内容の一部をこちらに抜粋します。

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「「日本に対する被害意識を植え付けられて育った」と振り返った。ところが、十数年前に日本を訪ねたときに衝撃を受けた。日本人も自分たちが第二次世界大戦の被害者であるととらえていたからだ。昨年は長崎を訪問し、博物館で残酷さ、非人間的状況を見た。一方で、原爆を落とされるに至った理由を学ぶことがないという日本の姿に疑問を残した。「加害と被害の構図は一定ではない」と言う。「ベトナム戦争では、韓国も加害者になった。日本に統治された韓国が加害者となるアイロニーがある」中国の例もある。長崎に同行したある中国人のクリスチャンは、「中国人は民族主義的傾向が強い」と語った。「中国は何千年も世界の中心にいたが、現代では周辺国に劣るようになった。だが米国が国力を落とす中、今後中国が、世界一の強国になる可能性があります」
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韓国人である方が、このように、自国を被害者であるというところから加害の意識を持つというところが、私にとっては非常に斬新でした。そして、彼が来日して衝撃を受けたこととして、「日本までが被害者意識を持っている」と言われている事は非常に重く受けとめました。私たちには当たり前の感情かもしれませんが、今の世界の秩序の中では日本は加害国、戦禍を世界規模で広げた当事者なのですが、その意識は被害者意識で、かきけされています。

ここで私が悟ったのは、「被害者意識こそが和解と平和の妨げになっている。」ということでした。それぞれの国は、被害者意識に基づく歴史観を形成しています。韓国は上に書いてあるとおりですが、中国は、「欧米列強と西洋化された日本に侵略された」という被害者意識に基づいて、今の大国化、領海の拡大化を行なっています。そして日本は、ここに書かれているように「原爆に基づく平和教育」が被害者意識を形成しています。

関連記事:「非寛容・圧力・暴力

兼ねてから、日本の国際性のなさに、日本人の空襲や原爆に対する意識が気になっていました。上の関連記事の内容は日本の一般的な常識からは、非難を受けかねない見方です。しかし、海外に出たら当たり前の論理になっています。いつも気になっていたのは、「空襲や原爆が落とされた文脈と経緯の説明がない」ということです。なぜ原爆投下をされて、空襲を受けたのか、その経緯なしにそれだけが語られているので、そこから生み出されるのは「私たちは平和憲法をもっており、武力行使を放棄した。戦争をしている国々、特にアメリカは酷い。」という思い上がりです。平和という名によって、心の中では復讐している、報復しているのではないか、と感じていました。

確かに、その大量殺戮には不条理があります。東京裁判にも不条理がある。しかしキリスト者ならば、信仰によって整理ができる。つまり、それらのことを終わりの日に公正に裁かれる神に任せる。そして、起こってしまったことについて、神の前に頭を垂れる。そして、赦し、むしろ愛を示す、ということであろうと思います。これは日本だけでなく、韓国、中国、そしてあらゆる国や民族が行なっていれば、和解や平和が進展するのではないかと思いました。

「人権や平等」は必ずしも聖書的ではない

日本人は、「判官びいき」や「平等至上主義」が強い気がするとある方が仰っていました。弱い人であれば、理屈抜きでその人が正しいとする。そして、豊かにされている人々を素直に喜び、祝福するのではなく、平等でないとして非難するという傾向です。

それが、先日のブログで議論した、パレスチナとイスラエルの対立においても、心情的に日本人が親パレスチナになる理由だということです。

そのブログで報告しましたパレスチナ人のクリスチャンによる会議は、残念ながら、人間的な人権主義や平等主義を混入させてしまっている内容だと思いました。例えば、今の分離壁によってパレスチナの人々の生活が非常に不便を強いられ、経済も回らず、国外に出ていく人が続出しているという苦しみは、現実のものであり、理解し、共感しなければいけないものです。しかし突然、「分離壁」や「検問所」のことだけを語り、シオニズムはいけないものだとし、それから「敵である彼らを愛さなければいけない」としています。当のイスラエル人はこの話を聞いて、何も愛されていると感じないでしょう!そうではなく、「なぜ分離壁をイスラエルが建てたのか、検問所を設けているのか」その文脈を語らなければいけないのです。いくら赦す、愛すると言っても、被害者意識によるものには愛がありません。

ある方が指摘してくださいました、「実は私たちが当然の権利と見なしている権利は、人権も、民族自決権も含めて、聖書的にはただの神からの恩恵に過ぎない、という点を、私たちは忘れてしまっているのではないか。」そして、「神様は、決して皆公平にする、とは一度も言ってませんし、むしろ災いの中でも平安や喜びをもって生きるよう説いています。」その通りです。

荒野の旅でイスラエルが際限なく不平が出てきたのは、「恵みの賜物」であるはずのものを「当然の権利」とみなしていたからだと思います。そして愛というのは、選びによって表れるのであり、全てに平等に分配されません。むしろ選ばれた者がいて、その人が他者にその恵みを分かち合うことによって、遍く人々が恩恵を受けます。コラの反乱は、モーセとアロンの神の選びに対するものであり、「すべてが聖なる者であるはずだ」というのは、平等主義の仮面をかぶった妬みにしかすぎないわけです。

不条理の只中で正義を行われた主

不条理を正そうとするところに、どこまで神の御心があるのかを吟味する必要があります。ローマによる支配、その圧政の中でユダヤ人たちがその不条理を正そうとして、最後には反乱を起こしたのですが、イエス様は不条理な社会の只中で、人々に憐れみを示し、正義を行われました。ここが大きな違いだと思います。また、ローマの権威に反感を抱いている時、実はその恩恵を受けながら反発しているという矛盾があります。(例えば、ローマの貨幣を使いながら、なおのこと納税に反発することが御心であるかのような錯覚です。)ローマの権威が神から来たものであると知って、なおのこと神に仕える時に、初めて世の権力以上の、神の御国の力が現れる訳です。イエス様は、ピラトの十字架判決は罪であるとしながらも、その判決そのものは神から来たものであることを認められました。そこにまことの神の力、権威が現れます。事実、ローマの権威にも服したキリスト者が、かえって後にローマを凌駕しました。

和解と平和、これを実現されたのはキリストであり、その十字架であります。イエス様は、ユダヤ人指導者の煽り、ユダの裏切り、弟子たちの遺棄に対して被害者意識を持っておられなかった。むしろ、これを全て「父からの使命、務め」として果敢に受けられた。この世からの情報を選別して、自らを清めて、まことの平和を求めたいと願います。

「平和への妨げ「被害者意識」」への4件のフィードバック

  1. 【オピニオン】世界に広がる被害者意識、米ではトランプ氏が助長
    「私たちの何が悪かったのか」ではなく「誰がこんなことをしたのか」

    By BRET STEPHENS 2016 年 8 月 31 日 13:31 JST

     バーナード・ルイス教授はかつて、逆境と衰退に直面する人々と諸国家の反応には2つの基本パターンがあると主張した。この偉大な歴史家が2002年に記した基本パターンの一つは「誰がこんなことをしたのか」、もう一つは「私たちの何が悪かったのか」と尋ねることだ。先の問いは自己憐憫、もう一つは自助努力につながる。一方の問いは個人の責任と道徳的行為性を否定し、もう一方はそれらを支配する。一方は経済の失敗と政治的卑劣さのレシピとなるが、もう一方は成功のレシピとなる。

     最近100歳を迎えたルイス氏は、自らの病巣を帝国主義やユダヤ人などさまざまな亡霊のせいにする、イスラム世界の破滅的な性質について書いてきた。ただ同氏のテストは、ロシアのプーチン大統領から米国の人権擁護運動「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命も大切)」に至る政治家や市民運動は言うまでもなく、他の政治体制や地域にも当てはまる。

    トルコ:罪を認めないエルドアン氏

     トルコから始めよう。トルコ政府が2014年にクルド分離主義組織を武力弾圧したことを受け、エルドアン政権は再びクルド人勢力と交戦状態に入った。エルドアン氏が以前、トルコをジハーディスト(聖戦主義者)の巣窟に変えるという意思を示したおかげで、それはテロリズムの問題をはらむようになった。そして、エルドアン氏がかつてのギュレン運動支持者を抑えつけた結果、最近になってクーデター未遂事件が発生した。

     だが、エルドアン氏が自身の罪を認めるとは期待しない方がいい。同氏は21世紀で最大の粛正を行っており、追放した政敵を収容するために3万8000人の受刑者を刑務所から釈放してきた。トルコによる(過激派組織「イスラム国」がターゲットとされる)シリア北部への越境攻撃は、クルド勢力に対する戦線拡大の機会となってしまった。トルコのメディアは、一部の米軍兵士がクーデター未遂事件の背後にいるとの「報道」について騒ぎ立てている。

     エルドアン氏は「誰がこんなことをしたのか」と問うタイプの人間で、そこではトルコにおけるイスラム世俗主義と民主主義の旗振り役から、中東の偏執的な国家に急速に没落する様子が映し出されている。同じことは(予想されていた)イランとロシアにも言えるほか、(予想されていなかった)中国でもそうした傾向が強まっている。

    中国:絶え間ないスケープゴート探し

     鄧小平氏が構築したポスト毛沢東体制は、中国が自国の偉大なるかじ取り役によって荒廃させられたことを理解していた。半面、習近平国家主席のポスト鄧体制では絶え間なくスケープゴート(生けにえ)探しが行われている。昨年発生した中国株の急落では空売り投資家とチベット分離活動家が非難された。フィリピン、ベトナム、日本、インドネシアに対する海洋上での中国の挑発行為は、米国が「緊張を高めた」結果とされている。

     こうした統制の効かない政治の責任転嫁は、中国の経済統計(いずれにせよ、その大半は偽物だが)から読み取れるものより説得力がある長期衰退の指標だ。

    先進国でもはびこる被害者意識

     しかし、「誰がこんなことをしたのか」と考えるのは発展途上国だけでの現象ではない。英国の欧州連合(EU)離脱決定(ブレグジット)でも、英国の問題の根源は(EU本部がある)ブリュッセルにあるという見方が土台にあった。それは間違いだ。英国の高い税金、お粗末な社会福祉、そして移民の増加(問題と思えばの話だが)は、英国政府の責任だ(問題かどうか迷っている人のために言っておこう。英国への移民の大半は中国、インド、オーストラリア、スペイン、ポーランド、米国から来ている)。

     米国に目を向けよう。射殺された黒人青年マイケル・ブラウンさんの無実を語る小さな逸話が発端となった人権擁護運動「黒人の命も大切」は、救いがたいほど人種差別が激しい場所である米国の大きな偽りに転移した。「黒人の命も大切」運動とその主導者らにとって、黒人社会の中に道徳的行為性はなく、善かれあしかれアフリカ系米国人が自分の運命を自分で形成できる選択肢はない。そこにあるのは、白人が力で黒人を抑圧し続けるという社会構造がもたらす、絶え間ない陰謀だけなのだ。

    米国人は一つの巨大な「被害者層」

     さて、愉快とも言えることが起こった。ドナルド・トランプ氏が最近、黒人の生活は「黒人の命も大切」運動が主張するのと同じくらい悲惨で、彼に投票することで黒人が失うものは何もないと示唆したのを受け、運動に共鳴する人々が憤然としたと聞いたからだ。では、膨大な数の黒人中間層はどうなるのか。黒人の政治的エンパワーメント、文化的影響はどうなるのか。警察、軍、学界、米国企業における黒人のリーダーシップはどうなるのか。迫害という神話は、その擁護者が正真正銘の犠牲になるリスクがないと信じる限りにおいてのみ生き残れるのだ。

     米国の新たな「被害者層」に私たちをいざなうのは、トランプ氏の支持者だ。

     トランプ氏の大統領候補選出に関する歴史が書かれる時、歴史家は国民を敗北者として扱おうとする候補者にどれほど多くの人が結集したかに驚くだろう。戦争と平和での敗北者、貿易と移民での敗北者、中国とメキシコに対する敗北者、「主流派」と「グローバル主義者」に対する敗北者――トランプ氏の政治理念は日によって変わるかもしれないが、同氏の一貫したメッセージは米国人が一つの巨大な「被害者層」であるというものだ。エルドアン氏やプーチン氏のように、トランプ氏は「私たちの何が悪かったのか」ではなく、「誰がこんなことをしたのか」と問うている。これはあらゆる扇動家が好む質問だ。

     かつての米国人は、自分たち以外なら誰彼かまわず非難する人々を軽蔑のまなざしで見ていた。また、かつての共和党員は、どこでも目にしたところに被害者物語を押し付けようとする民主党員に構っていられなかった。特に今年の選挙シーズンの結果において、米国もルイス氏の時間を超越した政治テストに合格できないかもしれない。

     (筆者のブレット・スティーブンスはWSJ論説室の副委員長)

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